289 警戒される日々
どうして警戒されるのか?
昨日、朝顔まつりの周辺を歩いてみた。日曜日とあって、たくさんの人であふれていた。しかも暑い。暑さをしのげる場所は皆無。とっとと人混みから離れた方がいい。路地に入ると、真新しいマンションが建っていて、その植栽のあたりで座り込んで缶チューハイを飲んでいる若者たちがいた。いわゆる路上飲みであろう。
そのとき、私がとても驚いたのは、彼ら彼女らが実につまらなさそうな表情をし、疲れ果てていたことだ。
あれ、渋谷あたりでニュースになる路上飲みとイメージが違う。もっと弾けて騒いでいるのかと思ったのだ。行き交う親子連れや自転車に漫然と目をやりながら、ボソボソとなにかを話しているようではある。その生気のなさが気になって仕方が無かった。
もちろん、余計なお世話ではあるんだけど。
恐らく誰かに注意されるのではないか。警官が来るのではないかと警戒していただけかもしれない。
世の中には2種類の人間がいて、ひとつはしょっちゅう警官から職務質問を受けてしまう人。もうひとつは、こっちはなにもしていないのに私服刑事かなにかと間違われて、警戒されてしまう人。
けいどろ、ではないけれど、世の中は泥棒と警官だけで成り立っているわけではないとはいえ、警戒する側の人と警戒される側の人がいる。
私は後者のことが多く、なにげに目を向けた先にいたグループはこそこそとそれまでの話をやめて帰り支度を始める。いや、こっちはなにも考えていないんだけどね。
もしも、私から妙な緊張感が生まれるのだとすれば、それは申し訳ない。確かにミーティングでも私が口を開くと妙な緊張感が走ってしまう。大したことを言わないのに。
こっちはなにげなく言っただけなのに、後日「これでいいですか」と私に確認してくる、という事もけっこうある。いや、おれ、なにも言ってないよ。おれが確認しないと進まないなんてことはないんだし。と面食らう。
おもしろい場面に出会わない
こんな私なので、偶然、おもしろい場面に出くわすことは少ない。おもしろい、にもいろいろあるだろうけど、たぶん、相手は私を目撃したとたん、おもしろくなくなるのだ。路上飲みをしている若者たちと同じである。
つまらないオーラを発しているのである。「ああ、つまらないやつが来たぞ、やべーな、こっち来るな、こっち見るな」と思われているのではないだろうか。
よく、どんな場所、国、地域へ行ってもたちまち友達ができて、わいわいやれる人の話を聞く。すごいことだと思う。大したものである。そしてそういう人は、いろいろなおもしろい場面、事件に出くわす。危険な目にも遭う。職質も受ける。話のタネの宝庫である。
一方、こちらはぜんぜんそういう場面に遭遇できない。見知らぬ人たちと楽しく酒を飲む、なんてことは起こらない。トラブルに遭いにくいと同時に、おもしろい目にも遭わない。
そのため、こうしたエッセーで書くにふさわしいおもしろ話、とんでもエピソードは皆無だ。実に残念でならない。
かといって、いまからそっち側へなれるのかと言われても、正直、もう遅い。これから誰とでも友達になれるような人間になるなんて不可能だ。いや、なりたいと思っていない。
「あんたは、おもしろくないねえ。実につまらないやつだ」と言われてもいい。そこまで開き直ることはないけれど。
人間としてのエピソードの少なさ、おもしろ話の少なさ、圧倒的なつまらなさを持つこともひとつの生き方だろう。
だからといって、自分では決して毎日がつまらないわけではない。少なくとも路上飲みをしていた疲れ果てた若者たちよりは楽しく生きている。と、言い切ったのはいいけれど、そんなに楽しいのか? おっと、そこには踏み込みたくない。自分は自分。他人は他人。いろんな人がいるから、世の中は楽しいのだ。
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