281 民主主義の地滑り
誰もが民なのだから
民主主義。よく使う言葉だ。都知事選では、さまざま奇妙なことが起きている。選挙は誰が出てもいい(被選挙権の決まりはある)。そして50人以上の候補者が出た。これは民主主義としてはめでたいことのはずだ。
皮肉で言っているのではない。50人でも100人でも、出たい人はみんな選挙に出ればいいと昔から思っていた。最初から「候補者を絞り込む」とか「事実上の一騎打ち」といったバイアスをかけるのは危険だ。そもそも民主的ではない。
たくさんの人たちが出ることで、話題だけ、あるいは出ることそのものを自分の広告として使う、あるいは金儲け(?)に利用する、といった弊害もあるだろう。誰もが民である。気に入らない人も出るだろう。ふざけたやつも出るだろう。それに、いちいち目くじらを立てる必要はあるのか?
そして、メディアが「事実上の一騎打ち」にしてしまうのは、やりすぎではないだろうか。
以前から「泡沫候補」などと呼ばれる人たちのことを、ろくに紹介せず、放置してきたのがメディアである。メディアは民主主義ではないのか? まあ、メディアといっても「マスメディア」であるときは、ある種の権力として、情報を独断的に選別していく。
もはや、そういう時代ではなくなっているのに。
東京は都知事候補が何百人と出るんですよ、となったら、それはもう、民主主義バンザイではないだろうか。もしも出たい人が出られないようになっているとすれば、そっちの方が問題だろう。
崩壊とまではいかないが地滑りはある
とはいいつつ、法律や決まり事の想定外のことをやって揺さぶる人たちはいつの時代にもいて、それもまた「民」である。そうした揺さぶりが目に余ると「民主主義は崩壊する」と言い出す人も登場する。現状、この仕組みを根本から変えられるのは、独裁かファシズムだろうから、民主主義的に民主主義を崩壊から守る方法は、見当たらない。
そもそも、崩壊するのだろうか?
私は地滑りはあると思う。昨日は山の上にあった地面が、いまは山の麓にある。そんな意味で変動していく。
選挙で選ばれた人たちが、ちゃんと活躍できる社会なのか。あるいは、有象無象が当選して、めちゃくちゃにされるのを避けるために、選挙で選ばれた人の活躍範囲を予め絞り込んでおくべきだろうか?
革命を起こさないまでも、「民主主義がどうもしっくりこない」となったら、立法面で民主主義の形を変えていくことになるだろう。それって、まあ、そもそもの政治らしい政治だけど、日本ではそういう主張をすると嫌われることが多いらしく、あまり公約に入れないみたいだ。それでいて「私はこうする」と主張していて、それをするには法律を変えるか新法を作らないとダメなんじゃないかな、と思うものの、そういう具体的なことは言わないようにする傾向もあるようだ。地滑りって、そういうことも含むだろう。
私が常々心配しているのは、民主主義の時間軸だ。いまのスピード感覚で果たしていいのだろうか。必要以上に混乱や不安を煽らないように、「周知」を重視してきた点は、どうも最近の政治では倍速で送るような妙な高速感も出しながら、一方で脇に置かれたテーマはまったく進まない。このバランスを改善するのは、選挙で選ぶしかないのが歯がゆい。その選挙の仕組みがいまのままでいいのかは大いに議論して改善して欲しいのだけど、選挙が終わると議論も終わってしまうだろう。
いつも、投票前には、なんともいえない無力感を覚えてしまう。