![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/118761415/rectangle_large_type_2_e00958fc2cea079a979928ea1d84c40f.jpeg?width=1200)
20 仕事の辞め時と残り時間
鈴木おさむ氏の宣言
放送作家であり脚本家である鈴木おさむ氏がその放送作家業も脚本家業も辞めるとブログで宣言した。1972年生まれの51歳。多忙を極める売れっ子であり、バラエティからドラマ、ラジオ、映画、作詞、書籍など幅広く活躍してきた。今後は別の道へ力を注ぐらしいので、書籍などはまた出す可能性はあるけれど、メインの仕事を辞めてしまうらしい。
あるいは、この世界は、義理人情も交錯することもあるので、こうした宣言をしない限り、ズルズルと仕事に振り回されてしまうのかもしれない。
確かに、ほかにやりたいことがあるのなら、50代での決断はあり、だと思う。自分も50代にやったことは、そういう模索、あるいは悪あがきだった。
私は、それまで雑誌を中心にたまに書籍、という配分だったが、50代からは書籍をメインにした。ところが、そこに東日本大震災が起こる。
たまたま都内で出版社で編集者、著者と打ち合わせをしていたときに、地震が起きた。建物から退出するように促された。いまではビル内にいるならすぐに外に出てはいけないことは徹底されてきているが、当時は錯綜していた。当初はビル内で待機だったが、しばらくして外に出るようにと言われ、道路は近隣から出てきた人たちも含めて大混乱だった。鉄道も止まっている。
仕方なく歩いて帰ることになった。これもいまではしないように、と言われていることである。私と編集者は23区内に住み、著者は千葉で、それなりに被害の散見される町を抜けて帰宅した。帰宅者はしだいに増えて家に近づくにつれて道路は人で溢れた。
そして家に到着してから、津波による大きな被害について知ることになり、さらに福島原発の事故も加わって、徐々に自分の中で「このままでいいのか」といった疑問が大きくなる。
なんとなく、「残り時間」を気にするようになったのだ。
特定の人にしかわからない信号
ドラマ「三体」の5話を見ていて、宇宙背景放射って創作かと思ったら実際にあるのだった。それはともかく、特定の人にしかわからない信号を送る、というのはどういうことなんだ、と感じた。過去にいろいろ見たり読んだりしたSFでは、たいがい集団あるいは全世界といったとにかく、複数の人たちが「危機」に立ち向かう。しかし、このドラマでは、ひとりの物理学者にだけ、メッセージが送られる(としか思えない描き方で今後の展開は不明)。
あるいはスティーブン・キングの『ザ・スタンド』だったと思うのだが、いろいろな人の夢に「お告げ」があり、その人たちが集まっていく、といった話も思い出す。逢坂剛原作のドラマや映画になった『MOZU』でも、夢に「ダルマ」と呼ばれる人物が現れる。
そこまで強烈なことは、少ないかもしれないが、自分に対して、なにかのメッセージが送られてくるように感じることは皆無ではないはずだ。
夢だけではない。自分や家族、知人に起きた事故や病気、突然の死などが、自分に向けたメッセージではないかと感じ、なにかの行動へと結びつくことはあるだろう。
その意味で、私にとって3.11は自分へのメッセージであった。それがどういうメッセージだったかは、いまはここでは書かないけど、明らかにあの日を境に私はいくつかのことを変えていまに至っている。
たとえそれが勘違い、思い込みであったとしても、自分にとって大切と思える信号は、ぞんざいに扱ってはいけない気がする。
自然に消えていくもの
一方で、仕事でもなんでも「自分で終わらせなくても自然に終わる」と考える人もいる。だから、一度、フリーランスで仕事を始めてしまったら、自分さえ「営業中」と思っている限り、死ぬまで仕事を続けることができる。
なにもわざわざ「辞めます」とか「廃業しました」と宣言する必要はないだろう、と考えてもいい。
実際、私の場合も雑誌の仕事は、雑誌の衰退とお世話になっていた編集者たちの高齢化や退職によって自然に減っていった。書籍の仕事を増やしたのは意図的で、恐らく書籍のスケジュールを確保するために意図的にお断りした仕事もあったはずだけど、自然に消えた。
さらに昨年、突発性難聴によって耳の状態が悪化。いわゆる取材はほとんどできなくなった。これはトドメと言える。もし頑張ってやっていたとしても、それが発症すれば終わったのである。念のために申し添えると、突発性難聴は人によって症状が違うので、別に仕事になんの支障もないケースも多い。ただ私の場合は、いい時と悪い時があり、治療してもそれがほとんど改善されないため、「調子いいときだけ取材します」とは言えない以上、これはもうほぼダメだな、と判断した。そこには、年齢も加味される。いま50代だったら、なんとかして続けただろう。だが、いまは違う。
私の父は94歳だ。母は89歳である。妻の母も94歳だ。妻の父はすでに亡くなっている。長生きするのだ、とわかっていたら、やっておくべきことはあるだろう。だけど、そんなことは誰にもわからないのである。したがって、いま感じたままに、「これをやろう」と決めたことをやっていくしかない。
残り時間は誰にもわからないけれど、明らかに減っていると感じるのなら、それなりの生き方、仕事の仕方があるだろう。もし、素直にそれを選べないとすれば、ちょっぴり不幸だと感じるかもしれない。本当に幸せなのか不幸なのかは、誰にも判断はつかないことだけど。
いいなと思ったら応援しよう!
![ほんまシュンジ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156937019/profile_ba66882f9c7301205523108e24626a96.jpg?width=600&crop=1:1,smart)