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386 テレビドラマと気付きについて考える

名作ドラマでもそうでなくても

 しばらくつぶやいてばかりだった。きょうはドラマについて少し思いを書く。

 上記のほかにも見ているドラマがあったけど、それはまあ、いいとして。
 テレビドラマは個人的な体験だ。作り手が提供してくれた世界をこちらは個人で受け止める。それでいて社会性もある。昔は友人らから「見た?」と聞かれるといったことがそのひとつ。いまはSNSでさまざまな感想や裏話が飛び交う。つまり、「ほかの人たちはどう見たか?」が、ドラマへのこちらの重み付けに関係してくる。
 当然、「最高傑作だ」とか「名作」とか「駄作」といった決め付ける言葉も飛び交う。正面切って批判したくなければ、視聴率で示し、類似のドラマと比較するだけでいいことになっている。視聴率の低さは、つまらないドラマ、となるのだろう。
 しかし、あくまで個人的な体験としては、傑作だろうが名作だろうが駄作だろうが、あまり関係がない。要するに、「気付き」の問題なのだ。
 見る側がドラマを見て、なにか気付きを得る。それがひとつの個人的な体験となる。「モンスター」7話を見て「カンテレはテレビ局批判が好きだな」と思ったとしても、それは私の個人的な感想に過ぎない。だいぶ前に「エルピス-希望、あるいは災い-」を見ていたから。カンテレはご存知のように多数のドラマを作っているのだから、そのわずかな部分だけを見て感想を言ってもしょうがない。でも、私はそう思った。
 朝ドラ「おむすび」は、私の脳内では「おにぎり」と混同する。録画して見ていて、申し訳ないがテーマ曲は飛ばす。月曜は1分30秒、ほかの日は1分。飛ばして見ている。このドラマがいいのかどうかは別として、主人公は当初、まっさらでなんにもない状態からはじまり、徐々に肉付けされていく。主人公は関係する人の言動や身の回りで起きる事象に反応して「気付き」を得ていく。だいたい毎週1つ気付く。これは手塚治虫の「どろろ」みたいなものだ。今朝も「支えられる側」の苦しみについて気付いていた。そして私も気付く。「これは『どろろ』みたいだな」と。
 「海に眠るダイヤモンド」を5話まで見た。野木亜紀子脚本は見事で、2018年の出来事はゆっくり進み、1950年代のことはかなり飛ばして進む。この50年代の端島(軍艦島)のドラマは、私が子どもの頃にテレビで見た戦後日本映画の世界のようだ(昔は土曜や日曜の午後によくやっていた)。女優たちのファッション、髪型も素晴らしい。とくに土屋太鳳と池田エライザの格好を見ていると、三船俊郎や志村喬、小林旭などが出て来てもおかしくない。脚本だけではなく演出と編集も見事だ。ただ、いまのところ私は個人的な気付きは得ていない。それでも何かありそうな気はしている。とくに2018年のパートに期待している。

気付きに立ち会う

 ドラマは、登場人物たちが気付きを得る。それによって展開されていく。たとえば成長するとか。見る側は、それを見ることでまた別の気付きを得る。そこは個人の範疇なので、ぜんぜんドラマとは関係のないことでもいい。自分の体験した過去の何かが、ドラマを見ていて鮮やかに甦ってきて「あれって、もしかして」といった気持ちになるかもしれない。あるいは「自分も同じだ」となるかもしれない。「ぜんぜん、違う」となることもあるだろう。
 ドラマは作り手たちが、巧みに登場人物たちの配置や言動、タイミングを操作して、見る側にわかりやすく、あるいはあえてわかりにくく、気付きの目撃者となるように仕向けてくる。
 だから見る側は、誰かが何かしらの気付きを得る瞬間に立ち会うことになる。日常で、そういうことはまずない。そもそも、自分が得た気付きでさえも、そのとき劇的な音楽が鳴るわけでもないのでさしたる印象もなく流されていくことが多いはずだ。メモをしておこう、とまでなることはそれほど多くはないだろう。
 こうして、テレビドラマは今日もさまざまな人たちによって制作されて送り出され、見る側は勝手にそれを受け止めるのである。見て、楽しんで。なにかに気付く。もちろん気付かなくてもいい。それが日々、何時間、何十時間も起きている。なんだか凄いことだな、と思ってしまう。

実際にある風景を元にしていますが創作です。


 



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