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347 やりがいの解像度

やりがい、みるがい、ほたてがい

 茶化しているようで恐縮です。
 アドリブで書いています。
 やりがい。あるようでない。ないようである。やりがいがあった方がいいのか、なくてもいいのか。いや、二者択一じゃなくて、ほかの道もあるはず。
 もちろん、やりがいの「がい」は貝ではなく、甲斐。
 詳しくはこちらをご参照ください。

 かいのある人生。短絡的に解釈すれば、価値のある人生となるでしょう。
 そうか、仕事や日常や人生の価値を考えてしまったら、こりゃ、なかなかシンドイかもしれません。
 ない、と気付いたらがっかりだし。ある、と思ったところで手元にあるおカネを眺めて「そうでもないかな」と対比してしまう。
 価値の話に持って行くと、そこは価値観。人によって違う。さっき、価値を金銭と対比させたけれど、人によってはそうはしない。むしろそういうものじゃないんだ、と主張されることでしょう。愛でもいいし友情でもいい。なにか別の、人生を充実させてくれるものを価値としてどう認めていくのか、といった話になっていきます。
 だとすれば、仕事に「やりがい」があるとしても、それは必ずしも金銭に換算できなくなるから、「人によるよね」となってしまう。より多くの人に共通の尺度で示さないと価値を計ることは難しい。
 というわけで、やりがいのあるなしは、自分で決めればいい。

主観の解像度

 さらに話を広げたら、人生は主観的なものだから、客観的な指標は必ずしもあてはまらないよね、となっていく。
 私たちは主観的に生きている。いや、このあたりがまた曖昧だ。主観と客観の二つだけに分けてしまうことがそもそも怪しい。もっと、もやっとした感じのはずで、そのせいで、今朝は「おれの人生はなんてすごいんだ」と思ったのに、寝る前になると「おれはバカだ、なにやってるんだ、こんな人生なんにもならない」と落ち込んでいたりするんですよね。
 そこに、潜んでいる虚しさと、私たちは戦わなければならない。そんな勇ましい話でもないか。夜に飲んだ酒が「ぷはー、うまい!」と上機嫌にしてくれてどうでもいいことを忘れて寝てしまうのもあり。酒のせいで自分のヤバイ領域に入り込んで抜け出せなくなって悶絶するのもあり。
 どっちの人生も結局は、主観的に決め付けてしまうしかないのでは?
 主観の問題は、こちらに指摘されています。

 問題を生み出すのは主観。そして現状を肯定するためには、客観も必要。鏡のように、いまの自分を照らす客観的ななにかを持つ。それも大事なことなんですね。
 それでも私としては主観的にしか生きられないと思うし、客観的な人生ってなんだかよくわからないし、それ自分のことだと思えるかどうか怪しいし。
 だったら、主観の解像度を上げていくのはどうだろう。客観をうまく利用して、自分の主観の解像度をいまより上げていく。主観の中身を点検する。そこにはごちゃごちゃといっぱい問題があるけれど、それを仔細に検討するといくつかの大きな問題に集約できるかもしれない。つまり、大きな問題がいきなりドーンと来る(おれってなに?みたいな)と焦ってしまって落ち込みやすいし「やりがいが欲しい」と思ってしまうと、価値観と組み合わせてたとえば「もっとカネが欲しい」とか「タイパのいい仕事が欲しい」といった方向へ行きがち。それもあながち否定はできないのだけれど、主観をもう少し詳しく見た方がいいかもしれない。
 私がそのときお伝えできるのは、「書いてみる」。書いてみると、このあたりの解像度も高めていけそうな気がするのです。
 解像度を上げていかないと、カネだと思ったらカネで解決できないことだった、とあとで分かったりもする。やりがいは給料の額だと思ったら、実はぜんぜん違っていた、なんてことはある。そこはやっぱり個人の主観をもう少し詳しく眺めて見た方がいいかもしれない。自分の喜ぶことの中身。そのメカニズム。けっこう、複雑で二者択一じゃないと思う。
 仕事を通じて自分を知る、なんてカッコいいことを言える人間では私はないけれど、そういう一面もあるだろうし。自分の価値観とよく相談しつつ、客観的な指標で納得しながら少し進んでみるのもありかなあ。
 やりがいか。それを考えると眠れなくなりそうだなあ。
 私のいまの価値観からすると、よく眠ることが大事だから、やりがいについてこれ以上考えるのはよします。

建物はだいたい。空の色が気に入らない。まだ未完。

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ほんまシュンジ
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