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41 名前とペンネーム
遠野遥著『浮遊』を読了
先日から読んでいた遠野遥著『浮遊』(2022年文藝秋季号)を読み終えた。ゲームはコンテンツというよりも、生き方に関わってくる。それはスポーツをやっている人が、人生の方向性をスポーツとともにあることと同じだ。映画やテレビドラマもまた、ジャンルとしては生き方に関わってくるかもしれないが、ゲームは自分の裁量(といってもゲームの製作者によって作られた道であることが多いけれど)で、ゲームの中で生きる。それを「ゲームしている」などと言う。この作品の主人公は、母の記憶も、ゲームをしている母なのだ。父親は彼女のゲームの外にいる。彼女が一緒に暮らしている男性は、ゲームに近い場所にいるが、ゲームに介入することはない。それでも、そこはかとなく、ゲームの中で起こることはゲームの外で起きていることに関係があるかのように思えてしまう。それぐらい、境界があいまいだ。
とはいえ、この作品では最後のところでは、現実の比重が大きくなってきて、主人公はそれを眺めのいいホテルの風呂に入って実感しているのではないだろうか。
この作品の掲載されていた2022年文藝秋季号は、この次のページが『ほどける骨折り球子』(長井短著)である。今日からそれを読み始める。
そしてふと、遠野遥の次が長井短って、どういう意図なの、と思った。遠野遥(とおの はるか)は、父親が先日急逝したBUCK-TICKのボーカル櫻井敦司で、離婚後、母親の姓となり本名のようだ。長井短(ながい みじか)は、モデル・女優であり作家である。こちらはペンネームで、落語の演目「長短」からとったとWikiにある。テレビドラマでもちょくちょく印象的な佇まいを見せている。
この2人が並んだとき、「遙か遠い」世界と「長くて短い」世界を想起した。もちろん意図されたものではなく偶然なのだろうが、もしかしたら意図されたのかもしれない。受け止める私としては、もはやこれは必然である。
ペンネームをどうつけるか?
そういえば、ペンネーム。
簡単そうで簡単ではなく、重要そうで、そうでもない。
私自身、「本間舜久(ほんまシュンジ)という名を、筆名としてつけたときにちょっとだけ覚悟をした。
それまでは、作品ごとに筆名を変えるぐらい、頻繁に筆名を変えていたし、「筆名はどうでもいい」とさえ思っていたこともあった。しかし、ある時、「それほど重いものではないけども、軽視もできないな」と感じる。
私の場合、本名でも仕事をしているから、それと別に筆名を持つのには、少しぐらいは意味とか意図があってもいいのではないか。
しかし、実はなんの意味も意図もなくつけている。本間という名字は、私が中学の頃にエラリー・クイーン『Yの悲劇』を「ぜひ読むべき」と推奨してくれた人で、父の友人の息子で私より7歳か8歳ぐらい上の大学生であった。少し勉強を教わった時期があったのだ。
勉強よりは雑談が多く、主にミステリーの話だった。ドイル、クリスティー、松本清張といった人の作品だ。
その人の名がふと浮かんだ。下の名は覚えていない。だけど「瞬」をすぐに思いついたので、本間瞬でいこうと思ったものの、画数が多いので「瞬」の中にある「舜」だけにした。
なんとなく四文字にしたくなった。「シュン」より「シュンジ」がいいな、と思った。だが、「ジ」に当たる漢字は、「二」とか「治」とかが多く、それだといかにも本名っぽく、同姓同名がいる気がした。
だから、あえて瞬間の反対の「永久」から「久」を取って「ジ」と読ませることにした。「く」とは読めるので「シュンク」でもいいのだが、まあ、ちょっとデタラメをやってみたかったのだ。
結果的に、読めないので「ほんまシュンジ」と表記することも増えてきた。本末転倒というか、ムリはしない方がいいよね、ということだろう。
別人格として生きる
ペンネームを本間舜久としたときに、ひとつだけ決めたことがある。それは「この名前を育てる」ことだ。
いままで、そんな風に考えたことはなかったのだが、しばらく、この名前を育ててみよう、と決めてみた。
気分が変わったらまた変えればいいよ、と思っていた自分は、過去のものとなり、できるだけこの名で世界を見て見ようと考えたのだ。
筆名はただの筆名である。それは、中身のない、ハンガーに吊された洋服のようなものだ。誰も着ていないときには、なんの意味もない。
これまで、筆名という服を着て、誰かになりすますことをしてきたのだが、そうではなく、もちろん私としての血肉を分け与えるけれども、服の中に、中身を生み出してもいいじゃないかと考えたのだ。
そのために、いま中身を作ろうとしている。
カクヨムにはいくつか作品を掲載した。Twitterもやっている。そしていまはこのnoteだ。
いつか、本間舜久という肉体が現実のものとして存在することになるのだろうか。それはおぞましいことなのか。それともおもしろいことなのか。いまはまだわからないけれど、私のひとつの未来である。
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