342 言いたいことの危険性
言いたいことに押される
Xでもnoteでも、ふと「これが言いたい」と思ったときに手軽にそれを書いて表明できる。素晴らしい時代になった(皮肉ではない)。誰もが言いたいことを言えるのだ。こんな時代が来るとは1970年の大阪万博を経験した人でも、きっと予見できなかっただろう。私は本気でアマチュア無線をやろうと考えていた時期もあって、世界中の人たちと会話するならそれしかない(語学力もないのに!)と思っていた。結局、その努力はしなかったのだが、近所で熱心にやっているおじさんが、家の四倍ぐらいの高さのアンテナを誇らしそうにしていたのを、憧れて見ていた。
書くことを仕事にしはじめて、記者とかライターの仕事ってなんだろうな、と思うこともあった。自分にはとくに言いたいこともないけれど、なにか言いたいことがあるらしい人に取材して、その言い分をまとめて記事にする。「自分で書けばいいのに」と思ったりもした。実際、とても器用な人たちも多く、書いてもらうとちゃんといい記事になったりもした。
一方、どうにもならない人もいた。学歴や経験の問題か、あるいは読書量の差なのか、などとも思ったのだけど、要するに「言いたいこと」があるからこそ、うまく書けないのである。
「ああ、これって恋愛で相手に今日こそはこれを言おうとして失敗するのに似ているな」と気づいた。自分だってそうだった。言いたいことの半分も言えないのである。さらに、「じゃあ、手紙にしよう」と思っても、最初の一行でもうギブアップだ。
他人のことを記事にできるのに、自分の言いたいことについては、そんなにうまく書けない。言えない。
大統領にはスピーチライターがいる。なぜだ。スピーチの原稿をつくる時間がない、というのもひとつの考えだろう。適切なジョークを書けないというのもある。論文みたいになっちゃうかもしれない。説教になっちゃうかもしれない。言いたいことだけ言って、それじゃ、なんにも伝わらないってことだってある。
要するに「言いたいこと」が強すぎて、それに押されてしまって、言葉や文字を冷静に組み立てることができないのではないか。
言いたいことを放り出す
またまた変なことを言うようだが、「言いたいこと」があったとして、それをそのまま表現するよりも、とりあえず放り出しておいた方がいい。そいつは生々しくて荒々しくて時には醜悪で危険だからだ。
言いたいことは危険なのである。
適度に力を失うまで放り出しておく。干物になってしまうとさすがに勢いが足りないけれど、せめて高級な寿司屋の職人のような仕事はした方がいい。寿司の職人になろうとしても、いきなり握らせてはくれない。鮮度を保ちつつ、美味しさを引き出すためには仕込みの時間が必要だ。それも材料にふさわしい方法でやらないとダメになってしまう。そのために修業を必要とする。
そこまではいかないにせよ、言いたいことを放り出して、そいつがどんな顔つきをしているのか、チラチラと眺めながら確かめて、どういう寿司にするのがいいのか考える時間を持ちたいのである。
忙しい人にはその時間がないので、記者やライターに任せた方がいい結果になる確率は上がる。記者やライターは、放り出された材料を調理する技術を持っているからだ。技術はそれほどなくても、こちらの「言いたいこと」との距離感はかなりあって、せいぜい共感されるぐらいだろう。同調されることは少ない。むしろ批判的だったりする。だから、いいのである。
結論として、「言いたいことがないときに書く」のが一番いいことになってしまうけれど、それはあまりにも捻りすぎな気もするし、ある意味ストイックすぎるので、もう少しナマっぽい感じでもいいんだけど、自分が言いたいことを書く時って、それぐらい危ういってことを自覚していれば、それなりに伝わる可能性は高い。
言いたいことを言ったのに、伝わらないと感じるなら、一度、試してみてはどうだろう。頭のいい人に限って、ハラスメントな発言をしてしまう傾向もある。言いたいこと(頭のいい人はいっぱいあるのだろう)に押されるままに口にしちゃうとどれほど危険か。一度、放り出してその「言いたいこと」の全容を眺めてから表現を考えてみてはどうだろう。