
39 プロとアマの差
ジャンルによるのか、人によるのか
先日、「家、ついて行ってイイですか?」に日大芸術学部の女性が登場していて、周りに才能のある人が多すぎて苦しいみたいな話をしていた。確かにそうだろうし、世の中は基本的にそうだ。別に大学に絞り込まなくても。
以前、才能のあるなしについて、少し考えたけど、才能に加えて「プロとアマ」といった違いもありそうだな、と感じた。
たとえば、「差が付く」と感じる場面では、同じ年齢なのに、相手はデビューしてたくさんの仕事をしている、といった事実があるだろう。こっちはバイトしながらきゅうきゅうとして卒論書いているのに、相手はテレビや舞台に出てすでに芸能人じゃないか、というわけだ。
音楽の場合、確かに必ずしも音楽に関する最高学府を出てからでなければプロになれない、とは言えない。高校生でデビューする人もいる。あるいは三歳ぐらいでデビューしてしまうケースもある。なにも学んでいなくても、表舞台で仕事をはじめることのできてしまう人がいる。
最高学府を出ても、音楽だけでは食べていけずにほかの仕事を持つ人もいる。
となると、プロとアマの差は、ジャンルにもよるし、人にもよるので、一概には言えないよね、と感じてしまう。まして才能の差だけでもなさそうだ。
仕事にしない選択
ある人が「これは自分にとって最も大切なものなので、仕事にしたくない」と言っていた。つまり、プロにはならない宣言だ。才能を持ちながら、必ずしもプロにはならない。
プロになることで、なにか大切なものがダメになっていく可能性があると感じている人がいる。
たとえば、私は就職して会社員として「プロの営業とはこういうものだ」といった研修を受けたこともあり、わずか1年だったが、プロの営業になろうとしていたこともあった。大学を出たばかりで、それまで遊んでいた人間としては、名刺の出し方からすべてを研修で学んだ。おかげで、それなりに人見知りをせず話ができるようになったのは、ありがたかった。
そして先輩であるプロたちを見ていた。彼らは夏は旅行へ行ったりキャンプやバーベキューをし、冬はスキーに行く。その合間にゴルフをする。
「仕事ばっかりじゃね」と言うのだが、私はそれができなかった。
プロの営業になったら、遊びも一流だ、みたいなことを言うのだが、その遊びがことごとく、気に入らなかった。好きじゃないのだ。
「バーッと仕事して稼いだら、パーッと遊ぶ」と先輩たちは、遊びの情報交換をしっかりやっていた。
それがプロなのか。
いや、もちろん私が見せられたのは特殊な世界だろう。だとしても、そのプロは自分の進む道とは思えなかった。
その後、出版関係に転じてから、それまでもずっとやってきた「書く」ことを仕事にした。いわばプロになった。
もちろん、書くプロの先輩にも、以前の営業のプロたちと同じように、「バーッと仕事して稼いだら、パーッと遊ぶ」人たちもいた。しかし、そうじゃない人もいた。だから、私はそうじゃない人たちのおかげで、なんとかその後もプロとして生きながらえることができた。
悔しい気持ち
プロとなったあとに、フリーランスになった。組織向きではない人間としてはほかに方法がなかった。いまのようにフリーランスのための施策や組織もない頃だったし、社会的にもあまり理解はされていなかったように思う。そのため、何度か経済的な窮地に陥ったが、そのたびに、社員にして貰い、なんとか継続することができた。おかげで、もし職歴を正しく記したら、市販の履歴書では行が足りない。
悔しい経験もしている。
もっとも悔しかったのは、ある著者と一緒に企画し原稿づくりや今後の方針も語り合ったのに、ある出版社の社長から寿司屋に呼び出され「おまえ、今後、入ってくるな」と言われたことだろう。おかげで著者との関係も崩れていった。著者が私を騙したのかどうかはわからない。原稿はいまで言えば「共同著作物」であり、半分の権利を私が持てたはずだが、それを主張すればおそらく裁判になって、勝ったとしても得るものはなかっただろう。いまの時代なら、たぶん、戦ったと思うけれど。SNSのあるいまなら、こちらにもきっと得るもののある戦いになったはずだ。
プロなら、いつも優位な立場にいるとは限らない。仕事、という意味の中に、「売上」とか「経費」とか「利益」が含まれている。それが「人間関係」の上に乗っている。下手をすれば生き方にも悪い影響を及ぼしてしまう可能性がある。
お世話になった編プロの社長が亡くなったとき、「いやあ、あそこの仕事やってたらこっちも危なかったな」と笑っている人たちがいた。「あなたは仕掛かりはないでしょ、ならよかったね」と言う。私はてっきり社長と無二の親友だと思っていた人たちだったのでショックだった。
もしかして、それがプロなのだとすれば、確かにプロにならない方がいいこともあるだろう。
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