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「真の歴史教科書のネタシリーズ4」 〜宣教師の目的とは?

 今回はやや地味なネタ。

1.宣教師の目的は?
2.豊臣秀吉がバテレン追放令を出したのはなぜ?

の2つにスポットライトを当てる。

 私の頭にある仮説は、

「スペイン国王は、イエズス会と結託して日本の侵略、略奪、植民地化を狙った。イエズス会=キリスト教は侵略のために送り込まれた先遣隊だった。」

だ。

 「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」(三浦小太郎著)に書かれている内容を中心にまとめる。


1.イエズス会とは?

 1549年4月、スペイン生まれのイエズス会のフランシスコ・ザビエルが、宣教師として初めて鹿児島に上陸し、薩摩の守護大名・島津貴久から布教の許可をもらい、布教を開始する。

 イエズス会がどの様な思想を持った組織なのかを端的に示すものが、イエズス会創始者であるイグナティウス・デ・ロヨラの代表作である「霊操」に集約される宗教思想だ。

 ロヨラは16歳の時に騎士として、城主ドン・ホアン・ベラスケスの宮廷に仕えた。騎士がベースにあるのである。

 騎士として戦って大きな怪我をし、その回復を待つ間に偶然手にした本が、聖人伝とイエス・キリストの生涯についてのもので、ここからロヨラの信仰への目覚めが始まる。
 この後、ロヨラは騎士から信仰者への道を歩むことになる。

 パリ大学に1528年に入学、約7年間に渡り、神学、哲学、人文学を学ぶ。この過程でロヨラの代表作「霊操」は書かれたようだ。
 このパリでは、後に日本布教の第一号となるフランシスコ・ザビエルをはじめ、多くの人がロヨラに従い、1534年、ザビエルを含む最も中枢のメンバー7人でイエズス会が結成される。ロヨラの宗教的情熱とその学識の深さはローマ教皇にも評価され、1540年にイエズス会が正式に認可される。イエズス会はその後、学校経営などで業績を上げ、さらには諸国への布教活動の精鋭部隊となった。騎士であり戦争体験もあったロヨラは、イエズス会をある種の軍隊組織のように作り上げていく。

 「霊操」には以下の様な言葉がある。

「私は、全世界と全ての敵を征服し、「我が父」の栄光に入ろうと思う。これが私の揺るがぬ意志である。それであるから、私に従おうと思うものは、私と共に働かなければならない。私と労苦を共にするものは、私と栄光を共にするであろう」

 当時は「キリストの国」が、キリスト教以外のすべての宗教を邪教、悪魔の思想とみなし、宗教や文明の多様性を認めず 「二つの旗」という神と悪魔という極端な二分化の思想として修道士たちには受け入れられていたことも、また一つの歴史的事実として認めねばなるまい。
 霊操とは、一人一人のイエズス会修道士を「異郷の国をことごとく征服」し、キリスト教をあまねく広げる、さらに現実的に言えば、ローマ教皇を頂点としたカトリックの世界観のもとに統一することを目指す戦士に改造するためのものでもあった。「キリストの国」とはそれ以外を現実的には意味しない。イエズス会がしばしば強烈な陰謀集団として語られたのも、彼らが会の行動の正当化や宣伝のために、しばしば誇張や虚言をも行うなど(後の天正遣欧使節の記録に私たちはそれを見ることになるだろう)目的のためには手段を選ばないような性格を有していたからである。
(中略)
 もちろん、ロヨラは、神への感謝と、それによって世界のすべてが肯定されるような美しいイメージをもって『霊操』を閉じ、そのような宗教的体験の実現を人間性の完成にみているが、このような美しさが、政治的に実現されようとするとき、その理想に沿わない現実に対しどれほど暴力的にふるまうかを、二十世紀を経て人類は経験したのである。

 これがイエズス会の基本思想である。

 西洋文明以外を野蛮な民族として、残虐な侵略を繰り返してきた西洋列強の思想背景に、このイエズス会の持っていた思想がそっくりそのまま見られる。
 実際がどうであったかに関わらず、イエズス会=キリスト教が、植民地化を目指す国と実質的に一体化していた、つまり、「キリスト教が他国の侵略のための先遣隊の役割を果たしていた」との仮説は、この段階で正解と言っていいだろう。

 ではここから先は、イエズス会が実際にどの様に動いたかを見ていく。果たして「霊操」の思想通りの行動をしたのだろうか?

2.宣教師の思想・行動

 まずは最初の宣教師であるザビエルの発言を見てみる。

 山口の守護大名・大内義隆の前で、ザビエルはキリスト教の教義を述べ、日本人の「偶像崇拝」を非難し、さらには男色の罪を犯している者は禽獣よりも下劣だと罵倒した。そして山口城下でも、日本人は自分たちを創造した全能のデウスを忘れ、デウスの大敵である悪魔が祭られている木石や物質を礼拝していること、男色という忌まわしい罪にふけっていること、子殺しや堕胎が行われていることなどを非難した。

 また、ザビエルは真言宗の僧侶たちに対し、「仏僧たちは大日を最高で無限なる神と称し、幾多の誤謬や矛盾」に陥り「笑うべくあらゆる根拠を欠いている」とみなした。 そして、三位一体やキリストの十字架での犠牲などを説き、受け入れようとしない僧侶たちを「呪うべき存在」とみなし、街角で、大日如来を拝んではいけない、彼の宗派はあらゆるほかの日本の宗教同様、悪魔が考案したものだと説教した。

 これでは、僧侶たちがザビエルたちを敵視するようになったのもやむをえないだろう。

 これらの発言を見ると、ザビエルがロヨラの思想をそっくりそのまま受け継いでいることが分かる。

 宣教師の中には、コスメ・デ・トルレスのように、日本人や日本文化を理解して寄り添う人格者もいたにはいたが、多くは、日本人を劣等民族とみなし、支配対象と考える偏見を強く抱いていた。

 スペインとの貿易を目当てに、布教を許可したいわゆるキリシタン大名は、宣教師から、あらゆる偶像崇拝や崇拝を根絶するよう要求され、その結果、庶民や僧侶に対して改宗を要求したのである。
 宣教師は、キリシタン大名を通じて、寺社や仏像の破壊を信者に要求し、僧侶に対しては改宗を要求。従わない僧は追放を覚悟しなければならなかった。

 仏教における神と、キリスト教の神の概念は極めて近いものであり、表現の違いと捉えた僧侶に対して、宣教師たちは寛容ではなかった。
 自分たちの信仰を受け入れない人間は、悪魔を信仰する者と捉えた。

3.なぜ豊臣秀吉はバテレン追放令を出したのか?

 秀吉のバテレン追放令には、スペイン商人による日本人奴隷貿易が関係していたので、当時行われていた人身売買について説明しておく。

 当時の戦国大名の軍隊は、仮に百人の兵士がいても、騎馬武者はせいぜい十名、残りはその武士に奉公する、若党、足軽などと呼ばれた「侍」、そして戦場で主君を助けて馬を引き、槍を持つ「下人」、さらには、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」たちであった。戦場において「雑兵」として「乱暴狼藉」を働いたのは彼等、つまり騎馬武者を除くほとんどの勢力だったのだ。さらに、戦場を略奪や金儲けの場と考える、山賊、海賊、商人たちも含まれる。
 この「雑兵」たちにとって、戦場とは乱取と言われる略奪の場だった。 実例として藤木は武田氏の資料「甲陽軍鑑」を挙げる。確かに、そこには戦場の略奪を戒める指摘もあるが、それは戦場において勝敗を無視して略奪にふけってはならぬとするもので、略奪それ自体を否定したものではない。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P23

 雑兵たちは、敵を倒せばその刀や武具を奪い、馬や女性などを「乱取」し「よろしき身廻り」つまり豊かになろうとしたのである。武田氏の領内で待つ雑兵たちの家族や同じ村人は、彼らが持ち帰る略奪品によって豊かになり、国は活気にあふれ安泰だった。 武田氏に連れ去られた被害者を親戚が買い戻すことはできたが、これもまた雑兵たちを富ませることになる。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P24

 このようなことが起きる背景には、農民の貧しさがあった。二毛作のできない越後では、年が明けて春になると、畠の作物が獲れる夏までは、端境期と言って、村は深刻な食糧不足に直面した。冬場の口減しは切実な問題であった。

 この農村の貧しさには、戦場における「苅田狼藉」による被害も大きかった。戦場になれば田畑は蹂躙されたのは想像に難くない。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P26


 上杉謙信は、1566年2月、常陸小田城(現在のつくば市)を陥落させたとき、城下はたちまち人の売り買いをする場となり、二十文から三十文で人間が売られていった。これは軍と人買い商人の結託によるものだろう。彼らの多くは、人質として金銭による買戻しの対象となったり、あるいは下人として労働をさせられ、また女性の場合は売春などに従事させられたこともあった。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P27

 このようにして連れ去られた者の中には、ポルトガル船を通じて、海外に奴隷として売られたものもいた。

 1587年、秀吉により、宣教師の退去を命ずる「覚」という文書が発布される。内容は以下の通り。

 個々人がキリスト教 (伴天連の教え)を信仰すること自体は否定しない。
 ただし、キリシタン大名が、家臣や領地に住む住民に信仰を強制することは道理が通らない。
 大名がその領地を治めるのはあくまで一時的なことで、交代することもありうるが(国替えなど)、住民(百姓)はその地に住み続けるのだから、大名がその意のままに住民に自分の意志を押し付けるべきではない。
 庶民の信仰にはその義務はないが、領地を持ち、 社会的にも地位を持つ大名の場合は、キリスト教に改宗する場合は公的にその旨を報告しなくてはならない。
 かつて一向宗が、寺社で領地を持ち、大名に年貢を納めることもなく、また加賀では大名を追放し、さらに隣国にも攻め込もうとしたことは、天下の平和を乱すことになった。大名が家臣にキリスト教信仰を強制するようなことは、かつての一向宗以上にあってはならないことであり、今後は大名はその家臣に信仰を強制してはならない。そのような行為は処罰する。
中国、朝鮮、南蛮に日本人の人身売買を行っていることは許しがたいことであり、今後人身売買は禁止する。
ポルトガル人が、牛馬を殺して食べることは、これもまた許しがたいことである。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P171

 さらに同日夜、秀吉は以下のような詰問状を宣教師のコエリュに送り、返答を迫った。

 その内容は、第一に、汝らはなぜ仏僧のように決まった寺院で法を説くのではなく、各地に赴いて、扇動して信徒を増やそうとするのか。今後は九州を出ることなく、仏僧のような静かな布教に努めよ。第二に、なぜ日本では耕作用の家畜として大切な牛馬を殺して食べるのか、それは許されないことである。 第三に、ポルトガル人が多数の日本人奴隷を海外に連行していることは許せない、彼らを日本に戻すか、 それができないならせめて現在日本でポルトガル人が奴隷として購入した日本人を解放せよ。おおむねこの三点であった。 表現の違いはあっても「覚」と重なる内容であろう。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P171

 そして翌日、正式なポルトガルへの通達としての「伴天連追放令」が発布された。内容は以下の通り。

 日本は神国であり、キリシタン国からの邪法を布教してはならない。
 大名が領国内で、キリシタン門徒に寺社を破壊させるようなことはあってはならない。大名はその領地を一時的に預かっているのであり、天下の法律に従わねばならない。
 伴天連(宣教師)たちが、信者を自発的に帰依させるのではなく、仏教寺院を攻撃し破壊することで信者を増やそうとしているのは許されないことであり、二十日以内に伴天連は日本を出ていくべきだ。(
ポルトガルの貿易船は貿易が目的なのだから、今後も今のまま貿易を続けてよいし、日本の仏法、国法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、日本に来ることはかまわない。

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」P174-175


 秀吉がこのような令を出した理由としては、戦国乱世を脱して平和な社会を作る強い意志があったからだ。

 戦国乱世における各大名の争乱は、簡単に言えば領土紛争の性格を持っていた。
(中略)
 戦国大名の紛争を「自力」の原則に任せていては、永遠に戦乱は終わらない。しかし、この領土争いを天下の裁判という中立かつ上位の機関により、平和的に決着をつけるシステムを作れば、平和は維持しうる。その裁判権は豊臣政権が責任をもって「天下」という公の名のもとに行う、これが秀吉の目指した最終的な「国分」領土紛争の最終的決着である。
 秀吉はこの「国分」によって、各大名の領域の固定を図り、国分を確定し、その裁定には命令に等しい拘束力を持たせ、従わぬ者、破ろうとする者には、平和侵害の罪として「成敗」「討伐」の対象とした。また、領土紛争の裁定を決定する際には、当事者の自力による武力や干渉を排し、職権的な強制執行の体制を取った。戦国大名たちはこうして、豊臣秀吉の体制下に組み込まれていった。

 この「自力原則」の否定は、大名だけではなく、各村々の紛争に於いても貫かれた。有名な刀狩り令も、この視点から見るべきものだろう。戦国の村人たちが、戦上では「雑兵」として、掠奪に明け暮れたことも、秀吉の平和構築のためにはなくさなければならなかった。

 秀吉は、刀狩りと密接にかかわる法令として、浪人停止令、海賊停止令、そして喧嘩停止令も出している。

1.浪人廃止令

 戦国時代の農民は、農閑期には生きるために戦場に赴き「掠奪」する雑兵となった。大名に武家奉公先として雇われ、戦場に赴いた農民はともかく、主人を持たず、村での耕作にも従事しようとせず、戦場での掠奪のみを求める浪人たちは、平和な時代には不要の存在であった。同時に、村々が武装し、お互いに土地や水源を巡って争い、勝者に権利が認められるような乱世を終わらせ、平和な秩序をもたらして生産性を向上させることも、この浪人停止令の目的であったろう。

2.海賊停止令

 1588年、刀狩りと同時に出されたこの法令は「海の平和令」「海の刀狩り」と言われ、諸国の船頭、漁師など、海で生活するものを全面的に調査し、各大名は、彼等から今後決して海賊行為を行わないという誓約書を取ることを命じたものだった。戦国時代、海賊船は平然と「通行税」を航海中の船から取り立てており(フロイスの『日本史』にも、宣教師を乗せた船が襲撃される模様がしばしば出てくる)、これを禁じ、「海の平和」を取り戻すことは、民衆に航海の自由と平和を保障することだった。


3.喧嘩停止令

 藤木久志は、秀吉が「村の平和」を実現するために、それまで村同士が水源地を巡って衝突することを全面的に禁じる「天下ことごとく喧嘩御停止」の法を発し、それに逆らうものに厳しい処罰を加えたことを、いくつかの実例をもって証明している。
 例えば一五九二年、日照りの夏、摂津の二つの村の間で、用水路を奪い合う争いが起きた。それぞれの村はまた近隣の村に援軍を求め、武装した村同士の衝突により死傷者が出た。これは戦国時代には当然のことで、このような場合も、用水は勝利した村の側に属する「自力」の論理がまかり通っていた。
 しかし、秀吉はこれを許さなかった。関係したすべての村から代表が京都に呼び出され、多くの責任者が処刑された。同時に、秀吉は用水の問題解決のために使者を送って実地検分を行い、両村の言い分を聞いたうえで裁定、用水権を図面に残し、争いを今後起こさぬよう定めた。

 ということで、

 武力による奪い合いは厳しく処罰され、同時に、公的機関は裁定という形で問題を解決するという、豊臣政権の基本姿勢は、大名から民衆に至るまで貫かれたのである。
 このような「平和構築」と、豊臣秀吉のキリシタンに対する態度、特に伴天連追放令には密接な関係がある。

 このように社会の平和を目指す秀吉にとって、自分たちの思想に合わないものを否定して破壊しようとするイエズス会の姿勢は許されないものであり、またキリシタン大名の領土においてそれなりの力を持つようになっていた宣教師の存在は、全土を共通の法律で管理し、平和を構築しようとする秀吉にとって、危険な存在と見られた。

 奴隷貿易に関しては、人身売買自体を秀吉が否定していたわけではなく、

 南蛮貿易を重視していた秀吉は、長崎の現場で日本人奴隷が売買される有様を知り、同情よりも民族的な屈辱感を抱いたのではないかと推測する。

との見方に賛成だ。

4.宣教師による軍事侵略計画

「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」の第9章に衝撃的な内容が書かれていたので紹介する。

 秀吉は、南蛮貿易を続けるためにも、また不要な争いを避けるためにも、宣教師を捕まえて強制的に退去させるような行動は控えていた。

 コエリュ司祭も、全国のイエズス会士を平戸に集め(イエズス会の領地だった長崎は秀吉により接収されることは確実だった)、追放令は無視して日本に残留する、しかし、秀吉を刺激することは極力避けることを基本方針として決定した。全国に散っていた宣教師たちが九州に集結し、充実した布教や教学を施すことができたので、改宗者が増え、質が上がったという報告もあるほどである。
 しかし、この裏で見過ごしてはならない計画が、コエリュを中心に日本の司祭たち(フロイスを含む)によって企画されていた。ポルトガル、スペイン軍による日本攻撃計画を、彼らが本国やマニラに打診しようとしていたのである。
(中略)
 既に1585年3月3日付けで、コエリュがフィリピンのイエズス会宛てに、日本へのスペイン艦隊派遣を求めた書簡が記録されている。

「(前略)総督閣下に、兵隊、弾薬、大砲、及び兵隊のための必要な食糧、一、二年間食糧を買うための現金を充分備えた三、四艘のフラガータ船を、日本のこの地に派遣していただきたい。それは、現在軍事力に劣るために抵抗出来ず、他の異教徒に悩まされ、平和侵犯されている何人かのキリスト教徒の領主を支援するためである。(中略)この援軍の派遣により、陛下にとっていろいろ大きな利益が生ずるであろう。第一に、これらのキリスト教徒の領主とその家臣は、これほど遠方から陛下の援助が与えられるのを知り、その庇護の下に一層信仰を強固なものにする。 第二に、異教徒はこのことから脅威と驚
きを抱き、キリスト教会に対する迫害や、新たに改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。 第三に、異教徒は、キリスト教徒が陛下から援助をうけるのを見て、これを好機に、改宗に反対する領主を恐れることなく改宗するであろう」

高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」

 この要請を、フィリピンのイエズス会は「軍事力不足」などを理由に断るのだが、イエズス会に日本侵略の意図がなかったとは言い切れない。なぜなら、

 この軍事計画のすべてを、コエリュが独断で行い実践したというのはあまりも不自然である。例えばフロイスは、1589年1月30日、イエズス会本部に向けて、この地域でイエズス会とキリシタンを維持するためには、日本に堅固な要塞を築き、迫害が起きたらそこに逃れることができるようにする必要があり、同時にその要塞を守る兵士が必要だと書き送っている。これは、実際には長崎を要塞化する計画であった。そしてフロイスは、一、二の例外を除き司祭たちはほぼ同意見だと述べている。モーラがヴァリニャーノに援軍を率いて日本に戻るよう求めたのは、最も親日的なオルガンティーノ司祭以外のほぼ全員の意志だったようだ。ヴァリニャーノとしては、このような無謀な試みを今後なくすためにも、この意見をコエリュ一人のものとして消してしまうしかなかったのかもしれない。
 イエズス会が組織として、この時期に日本への侵略や軍事作戦を考えていたわけではない。スペイン国王、フィリピン総督、そして当区の布教責任者であるヴァリニャーノも、いずれもそのような試みには反対だった。しかし、それは武力による征服を否定するものではなかった。当時のスペイン、ポルトガルの軍事力では、日本や中国大陸への戦争を仕掛けるだけの力量はないという客観的な分析、 また、スペイン軍の行動が、日本にイエズス会以外のスペイン系の修道士会流入を同時にもたらすことへの、イエズス会の警戒などの戦術的な面がこの選択を取
らせなかったのである。

5.結論

 一部に例外はいたものの、イエズス会の宣教師たちの思想としては、「西洋人以外は劣った民族であり、キリスト教という素晴らしい教えをお前たちに教えてやる」というものだ。
 一方で、その教えを受け入れない者は悪魔崇拝者であり、滅ぼされるべきとの考えを持っていたことだろう。
 アメリカ大陸の先住民に対して行なった残虐な行為がそれを証明している。少なくともあの行為は、慈愛に満ちた神の教えに基づく行為ではない。

 そもそも、「劣った人種」に親切心からキリスト教を教えようとするだろうか?

 もちろん、個々の宣教師の中には純粋に教えを広めたいと思って真摯に活動していた者もいるだろうが、組織としての目的がそこにあるとは到底思えない。

「イエズス会の宣教師は、スペインが送り込んだ、善の仮面を被った侵略のための尖兵だった」が私の出す結論である。

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