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総裁起用が固まった植田和男氏と今後の政策運営の考察

 日銀の黒田東彦総裁の後任に植田和男氏が起用される見通しとなりました。植田氏は日本の代表的な経済学者で、1998年から7年間、日銀の審議委員を務めました。その後、再び学界に戻りました。ときどき新聞等で金融政策に論評することがありましたが、露出の少なさから広く知られる存在ではないかもしれません。改めて植田氏を紹介すると同時に、植田体制の政策運営を考察してみたいと思います。

 植田氏が金融政策について広く注目集めたのは、1990年代前半に起きた「岩田・翁論争」でした。当時、上智大学教授だった岩田規久男氏(リフレ派、後に日銀副総裁)は「公定歩合操作は有効ではない」としてベースマネーのコントロールを主張。これに対し、日銀側は翁邦男調査統計局課長(当時。現在は法政大学教授)が公定歩合操作の有効性を主張しました。

 この論争が起きた原因は、1)ベースマネー(当時、大宗を締めたのは銀行券)の制御性に関する岩田氏と日銀の時間軸の捉え方がズレていた、2)岩田氏が日銀オペ実務や銀行資金繰りに関して十分な知識がなかった-などが原因だと私は思います。基本的に岩田氏の難癖に近いのですが、この論争をうまく仲裁したのが植田氏(当時は東大助教授)でした。

 植田氏は「岩田氏の主張するベースマネーコントロールは現実性が低く、短期金利を出発点とする現行の運営方式が有効である」と日銀側の主張に軍配を上げています。もっとも、日銀に対しては「貨幣の供給量に中央銀行はもっと注意を払い、責任を持つべきである、という岩田氏の主張には、日本銀行も耳を傾けるべき」と注文も付けています(注)。

 「マネーを制御する」という大枠の考えは当時の学界的には主流だったはずで、そうした中、マクロ経済学者として日銀側に(ある程度の)理解を見せるのは勇気ある行動だったと思われます。ただ、日銀の調節実務や銀行の資金繰り行動に理解があったからこその裁定だったのでしょう。この実務への理解があったことは日銀の審議委員時代に生かされます。

 速水時代に審議委員となった植田氏は、私が最も取材した重鎮幹部の一人です。基本的に、当時の経済情勢については、不良債権問題の重さを念頭に「ハト派」であり、2000年8月のゼロ金利解除には、(リフレ派の元祖であった)中原伸之審議委員(故人)と共に反対票を投じます。ただ、量的緩和については、実務上の観点から懐疑的であったため、2001年3月は賛成していますが、積極的なものではありませんでした。

 植田氏が審議委員を務めた速水時代は、金融政策の運営史において、その後、主要な中央銀行が採用する非伝統的政策の原型を作った、という意味で画期的でした。経済苦境であるからこそ生まれた政策ですが、ゼロ金利後の「時間軸政策」(フォワードガイダンス)などの理論構築で植田委員が果たした功績は大きく、内部では広い支持がありました。

 ここから先は、審議委員時代の植田氏の思考を踏まえた政策論となりますが、もともと金融政策の限界を熟知しているため、現行のイールドカーブコントロール(YCC)をいつまでも続ける発想はないでしょう。一方、金融市場の反応にも気を配ることの重要性も分かっているため、とりあえずは現行政策を継続しつつ、注意深く正常化に向かう、と予想されます。

 なお、右腕となる副総裁には内田真一理事が起用されるようです。企画畑のエースであり、現在のYCCに精通した金融政策立案のプロです。植田総裁の政策運営のかじ取りはまったく不安がない、と言えます。もう一人は、氷見野良三前金融庁長官です。金融行政と金融システムに精通するプロです。次期総裁含みでの起用でしょう。

 実務に詳しい経済学者の植田氏、政策運営のプロである内田理事、プルーデンス方面のスペシャリストである氷見野氏は国際関係も強いと言われます。なかなか強力な布陣と言えるでしょう。植田日銀総裁は、早くに実現してほしかった人事です。私には、遅過ぎた起用ですが、いずれせによ、大変に喜ばしいです。植田審議員の取材ほど楽しいものはありませんでした。

 総裁として戻ってくるのは、うれしいサプライズです。

注) もとより、マネーサプライ操作は現実的ではないものの、その後のリフレ派の台頭、政治的な食い込みよって日銀がリフレ政策を強いられた経緯を見ると、敵対的な関係になるのは防ぐ、という知恵は必要だったかもしれません。不幸なすれ違いではありました。

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