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それは非行可能性の排除か創造性の切削か。

現場の休憩時間中にトコトコやってきた男の子と雑談していると、「なんでツーブロックとか髪型まで禁止されるの?」とふと言ってきた。

彼の身内の話か何かは置いといて、まだ低学年から上がってきたばかりの子がもうこんなことに嫌気をさしている。彼の表情が曇りながらそう話してくれた。大人が勝手に決め付けた善意の集団的無意識な習慣によって全くもって創造性が妨げられている。宿題にせよ遊びにせよ彼ら彼女らが答えを前提にして聞いてくる度、或いは大人は答を知っていると言わんばかりの姿勢でいる時。植えつけられた場所、或いは環境ゆえに起きているものなのだと思いつつも、発問に徹する。

小さき者達の目線に立って何が見えているのかを考えるというよりも探す。時には思いも寄らないものが発掘されて笑う。

僕は先生ではないから、解き方は教えない。視え方を教えるのだけど児童館というポジションゆえにできることに感謝している。同じレンズで見ていると他のレンズの奥ゆかさを知れない。フィルターばっかり覗いていると現実に漂っている情報が遮断される。

そんな視点の問題を考えつつ、「僕もそれはおかしいと思う。」と言った。小さな疑問や、違和感はとても大事だ。髪型に抱いた疑問に僕は全力で共感しながら彼の言葉に耳を傾ける。

子供たちは小人であって大小の目線に縛られる。この無意識な違和感は子供という言い方を「小さき者達」と変えてから幾分と解き放たれた。小さきものたちへの敬意を示している呼び方を教えてくれたシンガーであり表現者な友人は今やブランディングのスタートアップに所属している。また、流れはあれど駆動している一部には逞しい先生方もいらっしゃる。ポジションは違えど、暗い未来じゃない世界を見ている同士がいることが嬉しい。

http://artsandscience-kipling.blogspot.com/2020/08/blog-post.html?m=1

自分たちが勝手に作り上げて覗いているフィルターに気づく。そのフレームは善意なる解釈のもと練り上げられたものであって実は誰かの可能性をクッキーの型のように押し付けている。消えていく創造性は見えない。見えないんだよね。

夏休みももう終わっているところもある中で、残りの冒険はどこに行こうか、なにを掘ろうか。そんなことを考えながらワクワク感を溢れ流して今を生きる。



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