見出し画像

心の宝箱から捨てたものをリサイクルしても良い。

大衆的退廃さを考えながら歩くと飽きてくる。問題は常に、人が持ち得ているユニークやキャラと言った個人の可能性が廃れていく点だ。自分が何を好きだったかを忘れ或いは美しいと感じていたものを捨て他人が決めた指標に自分を測って生きる様。悲しきかな、その指標に同意するがゆえに個性が個性ではなくなっていく。

またその反面、カウンターカルチャーとしてのユニークさが芽生える点もあるわけで。結局のところ、亡個性を反映して個性を生み出すと考えると自嘲せざるを得ない。いわゆる自己投影であると言える。

“埋もれる”ということと“同調”するということは異なる。

殆どの人々は他人と違うと言うが、その違いが軽薄になっている生き様とやらに口が籠る。なぜなら、数々の同意してきた指標はマジョリティへの同意であるからだ。その服、その日用品、その食べ物それは本当に自分で選んだものなのか?

文化背景で培った付和雷同な共感性を下げてみれば楽になるかもしれないが、多分殆どが出来ないだろう。


自分が好きなものを好きと言って許容される自由と育む環境が苦しく窮屈に感じる社会で、

画像1

それでも

たとえ誰も同意してくれなくても自分だけが美しいと言える

そんな人達と僕は生きたいと思うし、子供達に精一杯伝える。そんな天命感を感じる土曜の夕方。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?