茶の間に.
現場後にひょっこりと茶会へ. 素敵な方々と過ごした夜, 味わい深かった. 持って行った茶で点てさせて頂いたけれど, やっぱどんな茶器でも立てられるようになりたいと.
ところで最近のアイデアが, 今日繋がっていろいろと考えてた. 現代の茶器, メディウムについて.
茶道具は, 身近で自然の物から削ったり見立てたりしているけれど, それとは異なり現代ではまた違ったやり方をやっていきたいなと思ってる. それはある意味で, 「けしからん.」方法なのだろうとも.(ここも文化の盗用と尊重に関わるよな...)
もともと, 「見立て」の美意識である. 気づけば僕自身も使わなくなったテレビはメモ用のブラックボードがわりにしているし, ギターケースは棚になってと身の回りの物質を見立てることをよくやっているのである.
見立て合わせた物質, その間. そうした関係性の中でやがて薄々と霧が晴れるごとく見えてくる誰かの面影を尊く思ってしまうのも日本っぽさなのかもしれないなと.
それにしても今あるもので“行う”を「臨機応変だ.」と言うには烏滸がましくないだろうか. 自分が用意したわけでもない, ましてや生成したわけでもない“それ”と“あなた”, “わたし”が今この空間に“在る”という今. そうして振り返る時, 思い出すのはやはりベートーヴェンのメモ.
咲いてしまった花を, もう名の知らない蕾の時と同じように見ることはない.