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勉強という限界効用を真逆に持っていく遊び。

主体的な学びに変えるには対話なのか環境なのかを適材適所で思うのだけど主体的行動した結果、後ろめたさのバケツリレーを始める大人が主体的な学びとか言ってたらどうしよう。

遊びはストレスのかからない環境下で自由に抜けることができ、自発的に参加することだと僕は捉えているけれどフィードバックも内省も戦略もない遊びはたぶん息と変わらない。主体的であるということ、自らの足で立って思考して試行錯誤してという姿勢を作るのに遊びはもってこいだ。であるならば、できる限り没入させる状況に持っていきたい。

遊びに効用を持ち込むという下心はもはや遊びではないのではないかと言われればそれもそうなのだけど、時に織り交ぜることでより一層没入し易くなる。これに似て、なんで勉強しないといけないかを伝える時、将来役に立つという言い方は僕は好きじゃない。これは単なる感情論だけではなくて事実、答えのない課題に対して勉強が役に立つという名のスコップは折られる。

生きている世界を直視するなら、学んだことが必要になる。それは何を直視するにしても学ばざるを得ない結果として勉強しているからだ。

折れたスコップを目にして、絶望してしまうこともあるだろう。その時一緒に掘る我々も一緒に考えられる環境でありたい。


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