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北京語に興味を持った思春期

私が北京語を話せるようになったのは、高2の夏。
それまで全く出来なかったか、というと、うん、本当に単語とか、「ごめんなさい」「どういたしまして」とか、トラベル会話以下くらいだったと思います。

もちろん、夏休みに台湾に帰った時や、両親が台湾の友達と北京語で話しているのを聞いているので、普通の日本の子よりは中国語に触れていたと思いますが、そんな程度でした。

北京語の必要性を感じなかった

親は、やっぱり将来のことを考えて北京語を覚えてほしくて、ちょこちょこアプローチをしてきました(笑)。

台湾の北京語教育は中国と違って「注音(ツーイン)」という独自の発音記号を覚えるところから始まるんですが、注音の練習帳みたいなのを台湾から買ってきたり、私の台湾語が上手になってきたら、それは北京語でこう言うんだよ、と北京語を言ってきたり。

正直うざかったですねwww
だって、必要だと思ってなかったので。

祖父母とは日本語でも会話できるし、親戚達とは台湾語でコミュニケーション取れていた上に、「台湾語できるのー?すごいねー!」と褒めてもらえてたので、これ以上何か要る?って感じでした。

それに、台湾に帰るのは夏休みと冬休みで、まだ幼い私は母と親戚ががっちりアテンドしてくれるので、1人で出かけることなんてなく。

子供の私に、10年後の中国の発展や、語学によって広がる可能性なんて見えるわけなかったのです(笑)

付かず離れず、両親の割り切りは有り難かった

でも、うちの両親の北京語アプローチはしつこくないのが良かったです。

そもそも、両親は「親が言語を教えるのは無理」って考えの持ち主なので、先述した注音の練習帳買ってきたはいいけど、一緒にやらないし(じゃあ勝手にやるわけないじゃん!!w)、北京語での読み聞かせどころか読み聞かせ自体人生でされたこと無いし(絵本は買うが自分で読め、スタイル)。

台湾語は浴びせる(=勝手に覚えさせる)ことで私の第二言語にできたけど、「教える」となると、それは素人には無理だと割り切ってました。

色々な考えがあると思いますが、個人的にこの考えには全面賛成してます。だってネイティブって教えられないもん。
自分が今ドイツ語をやっていて、ドイツ人の夫に「この接続詞はポジション1?0?」と聞いても、「は?」しか返ってこないし、逆に夫に「これは『僕が』『僕は』どっち?違いは?」と聞かれても「うーん…」としか返せない。

本気で学ばせるなら、横浜に中華学校もあるのでそこに通わせるという方法もあったけど、両親は(将来この子は日本人として日本で生きていくことになるだろうと判断し)私をお受験させて日本の学校に入れたし、家庭内言語を台湾語にして台湾語はある程度身についているのだから、これでまあ十分じゃないか、と思ってくれたんだと思います。

北京語をやれ!とも言われないし、逆にもうやらなくていいとも言われず、程よく放置してくれてました。

「推し」との出会い。金城武とビビアン・スー

私が中学生になった頃、転機は訪れます。

ビビアン・スーが日本のバラエティ番組で大ブレイクするのです。タイミング、縦長のシングルCD買いました…!

そして同時期に金城武も「神様、もう少しだけ」で主演するなど、日本の芸能界が台湾づいていたのです…!!!

金城武はすでに香港台湾で大人気で、もう、物心ついた頃からの私の永遠の推し(お願いだから一生独身で頼む)なのですが、ビビアンがウッチャンナンチャンの番組で頑張っている姿、あの透明感ありすぎて透けて見えそうな可愛さに一気にファンになったのです。(今も大好きです)

当時はテレビ全盛期でしたから、学校での話題は昨日見たバラエティの話。皆がビビアン可愛いよねーって言うのを見て、台湾人としての自分が嬉しくなっているのを感じました。(実はビビアンの出身地は私の両親の出身地と同じ)

「台湾人」としてのアイデンティティ、芽生える

その頃から、自分が台湾ルーツを持つことを躊躇わずに言えるようになった気がします。

小学校低学年の頃、クラスのいじめっ子に台湾人であることを馬鹿にされ嫌な思いをしていたので、どこかで「私は日本人なんだ!」と必死に日本人社会に日本人として溶け込もうと足掻いていたように思うのですが、金城武やビビアンの活躍もあって

台湾人であることは恥ずかしくないこと、むしろカッコいいこと

って思えるようになったんですよね。

ここから、今まで親戚との繋がりだけだった「台湾」をもっと知りたくなっていきます。

両親大歓喜、全力サポート始まる

はい、そんな娘の変化、もちろん両親は嬉しいわけです。

父は月に1度台湾に出張に行っていたのですが、その時に「ビビアンのCDを買ってきてほしい」と頼むと、なんかアルバム5枚くらい買ってくるんですよ(笑)

自分と同じ境遇の子にも会いたくなって、両親からよく話を聞いていた、父の友人の娘さん(C子さん)に会ってみたいと言うと、すぐにアポを取って、大宮のお家まで会いに連れて行ってくれたり。

多分その後、C子さんに私から連絡した気がするのですが、たまにご飯したりお茶するようになって、台湾親戚あるあるで盛り上がったり、すごく仲良くしてくれたんですよね。C子さんは私より2歳年上で、北京語も上手で、彼女が参加した台湾のサマースクールに私も行ってみたいな…と考えるようになってました。

サマースクールについては別途記事を書こうと思いますが、私が両親に「C子さんが行ったサマースクール、私も行きたい」と言うと、気が変わらんうちに!!!と言わんばかりに超爆速で申し込み書類やら諸々の手配を進めてくれました(笑)

このサマースクール、高2の夏休みに参加したんですが、アメリカの夏休みに期間を合わせているので、開始日が日本だとまだ夏休みに入っていないんです。そのあたりも学校の先生に説明するために、中国語で書かれた概要を全て日本語に翻訳して持たせてくれたりしました。

結局夏休みを待たず2週間ちょい学校を休んで台湾に行くことになったんですが、休むことについて一切咎められることもなく、学校休んでいくんだからちゃんと勉強しろとかプレッシャーをかけられることもなく、両親から大旗振られて送り出されました(笑)(あ、手続きあるから父か母が一緒に台湾まで来てくれた気もするな、いや、親戚が待ってたんだっけな、覚えてないやw)

私が北京語やるの、そんなに嬉しいんだ、ってなんか面白かったです。
個人的にはもう16歳だったし、今から北京語やって親の期待するようなレベルになれるのかな、と思ってたんですが、なんか両親からの「お前ならできる!」って感じがすごかったです(直接言われたとかじゃないけど、感じてました…笑。
(今となっては16歳なんて何語始めても可能性しかないですけどねw)

このサマースクールでの7週間(だったと思う)が、私の北京語だけでなく、その後の進路に大きな影響を及ぼすのでした。

続く!

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