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「日本人」になりたくて仕方なかった私
以前の記事「北京語に興味を持った思春期」で、私に台湾人としてのアイデンティティがどう芽生えていったか、を書いたのですが、今回はその前の話をしたいと思います。
小学校低学年の頃、クラスのいじめっ子に台湾人であることを馬鹿にされ嫌な思いをしていたので、どこかで「私は日本人なんだ!」と必死に日本人社会に日本人として溶け込もうと足掻いていたように思う
と、記事内でサラッと書いている、この部分の話です。
いじめっ子との出会い
多様性や個の尊重が叫ばれて久しい今でも、きっと小さい頃は「みんなと一緒」がいいと思うんじゃないかな。私の育った時代は特にそうでした。
「あれ、私はみんなと違うの…?」と思い始めたのは多分小学生の頃から。
小学校の行事では先生だけでなく、お母さん達が持ち回りで引率したり協力をしていたので、私の母の日本語が他のお母さんと違うことはすぐバレるわけです。
私が何の気なく自分から言ったのか、母の日本語アクセントから知られていったのかは覚えていませんが、何となく、「あの子の両親は台湾人らしい」という情報がクラスに広まっていきました。
小学校の頃の友達作りって、名簿が近いとか席が隣とかそんなところから始まると思うんですが、「帰る方向が同じだから」という理由で一緒に居たのが運悪くいじめっ子の女の子だったんですよね。
彼女は運動神経が良くて足が速いので一目置かれてる存在で(何なんだ、小学生の足の速さカースト!!!)、ことあるごとに私を馬鹿にしてきたり、他の子とは違う対応をしてきました。
母がよく覚えてるのは、お芋掘りで学校が運営してる農園に行った際、彼女のお母さんが手伝いに来ていて、土まみれの子供たちの顔を持参したおしぼりで拭いていたそうなんです。で、私の顔を拭こうとした時に彼女が「だめ」と拭かせないようにしたと。(私も僅かに記憶あり。この時から彼女は私の母のデスノート入りですもちろん)
ほかにも、「日本人だ」と主張する私に「お母さんに聞いたけど、台湾人と台湾人の子は日本人にはなれないんだよ」と言ってきたり。(まあ、DNA的にはそうなので彼女のお母さんも間違ったことは言っていない。ただ私の両親は日本に帰化していて私は日本国籍しか持ってないので書面上は日本人な訳で、ともかく彼女の言い方が馬鹿にしていたわけです)
私が金髪ならこんなこと言われないのかな
お受験して入った国立小学校、みんな優秀なので、私の成績は中の下くらいだったかな。体育に至っては50m走が9秒台だと遅い部類に入るような学校で、跳び箱が飛べず身体が硬い私は肩身が狭かった。(小学校時代の50m走ベストタイムは8秒前半で、社会人になって自分が運動出来ない部類ではなかったことを知る。井の中の蛙ってこわい)。
いじめっ子の存在を知った母は、「馬鹿にされないためには、勉強で勝て」と、教育ママ方向に舵を切ります。異国で子育てしていて娘がいじめられるなんて、内心はさぞ葛藤があったことでしょう。
そもそも進学校(内部進学はあるが足切りあり)なので周りも教育熱心な家庭ばかり。みんな塾や水泳教室、音楽などの習い事はやっていて当たり前。私も一通り通わせてもらいました。
まあ、だからっていきなり優等生になれるわけもなく(苦笑)、幸運なことにその時の担任の先生がとても気にかけてケアをしてくれて、いじめっ子と距離を取って他に仲の良い友達ができていきました。
それと同時に、テレビや雑誌でもてはやされるハーフタレントを見たりすると「私の両親がアメリカ人なら違う反応だったのかな、私の見た目が金髪でモデルみたいだったらこんなこと言われないのかな、なぜ台湾ってだけで…」と考えることもありました。
台湾=イケてない
当時の日本と台湾は今のような相思相愛な関係ではなく、普通に「台湾ってどこ?タイ?」って聞かれたりして(国違うがな!)、いじめっ子から受けた扱いも相俟って「台湾=イケてない」と幼い私には刷り込まれてしまいました。
今でも申し訳なく思ってるのは、台湾に帰省した際の私の態度。
前の記事「ゆらぐ台湾語、言語の区別と切り替えと」でも書いたように、毎年母と台湾に帰省していたのですが、台湾人アイデンティティが芽生えるまでの私は、とにかく日本人になりたくて仕方がなかった。
台湾の帰省も親戚も大好きなのに、台湾人だと言われると「私は日本人だもん!」と、ことあるごとに日本の方がイケているとマウントを取ろうとしていたと思います。台湾を馬鹿にするようなことも言っていたかもしれません。子供の言うこととはいえ、聞いていて気持ちいいものではなかったと思うので、おじいちゃんおばあちゃん叔父さん叔母さんお兄ちゃんお姉ちゃんみんな、(もう覚えてないことを願うけど)ごめんなさい!!!
クラス替え、親友との出会い
私の小学校では、4年生に上がる時に一度クラス替えがありました。
これまた「帰る方向が同じ」という理由で仲良くなったのが、初めて同じクラスになったMちゃん。Mちゃんは運動が得意で、ものすごくアクティブな女の子。
ある日、何の話の流れかは思い出せないけれど、私の両親が台湾人であることをMちゃんに打ち明ける機会がありました。
その時のMちゃんの反応が、
「かっこいいね!」
だったんです。
そんなこと今まで誰にも言われたことがなかったので、今でも鮮明に覚えています。え、かっこいいの?かっこいいんだ…!え?え?と、初めて感じる気恥ずかしさ。
家も割と近所で、放課後に遊びに行ったり、遊園地に一緒に行ったり、低学年まではいじめっ子の存在もあって大人しかった私の、お調子者な本質を解放してくれたMちゃん。
その後、「北京語に興味を持った思春期」にも書いた、台湾人としてのアイデンティティが徐々に形成されていくわけですが、私自身のアイデンティティを確立するのに、Mちゃんの存在を抜いては語れない。
ありがとうクラス替え。ありがとうこの出会い。
Mちゃんとの出会いから、「私は日本人なんだー!」って気負ってたシールドのような殻はパキパキと少しずつ剥がれていったんじゃないかな。
出会いが人を変える、って本当にその通り。
いじめっ子との出会いは無くてもよかったけど、あの時の葛藤や理不尽を経てMちゃんに出会えたことで、誰かに認められて受け入れてもらえるだけで救われることってあるんだな、と心に刻み込むことができた。
そんなMちゃんとは、今でも親友です💚