『怒り』とは
私は小学5年生の担任をしている2年目の教員です。
学校現場というのは、不可思議な出来事がたくさん起こる場所のようです。
私は最近ちょっとした悩みがあります。
それは、『怒れなくなった』ということです。元から怒ることは苦手で、どのように怒れば良いのかわからない状態でした。怒りの感情が沸いてくるとむしろ涙が出てくることもありました。怒りというよりも悲しい、そういう状況です。気持ちがいっぱいいっぱいになってしまって押し黙ってしまう。そして溜めて溜めてどうすれば良いのかわからなくなる。そのような経験をされた事がある人もいるのではないでしょうか。
しかし、最近はそれすらもなくなりました。児童が不可思議な行動をおこすと、怒るよりも『呆れて』しまうのです。『怒り』ですと感情としては燃え上がるような熱さを感じますが、私のこの感情はどこまでも冷え切っているのです。
この感情がどこから来ているのかはわかりません。児童達に対する期待感の喪失であるのか、不適応行動の頻度を減らすことができない自分に辟易しているのか何なのかはわかりません。ただ、気持ちの良い感情ではないんだろうなぁということだけはわかります。結果として児童達に対する指導は冷静にできているようです。怒りで感情的になることもありませんからね。ただ、そこに人としての暖かさである感情は伴わない、そんな感じがしています。この感情が伴わない、どこまでもヒンヤリとした心に危機感を感じています。
やはり、児童に対する指導というのは人間的な暖かさが必要だと考えています。担任と子ども同士の感情の共有と感情表現が豊かな担任との触れ合いは、児童の感性を豊かなものにするでしょう。信頼関係構築の力を養うには、心がある指導が必要だと考えています。
しかし今の私はどうでしょうか。合理性と効率ばかり求めてしまっている雰囲気です。淡々としていて暖かさも何もない法治主義一辺倒の人間になってしまっているようです。
傍から見れば、アンガーマネジメントができているように見えるかもしれません。実際私は、大学で特別支援教育を専攻していたものですからアンガーマネジメントについて少しだけ学んでいます。しかし、現場に来てから、感情のコントロールに困難を抱える児童が予想より多い事に気付き、昨年度アンガーマネジメントに関する資格を取得しました。ですから、浅学ながらアンガーマネジメントのスキルを身に着けるために多少なりの勉強はしていますし実践はしております。
しかし、この『呆れる』というのは、どうもアンガーマネジメントの訓練の賜物ではないような気がしてなりません。良くも悪くもこの教育という現場に見切りをつけ、諦念を抱いてしまっているようです。
結果的に、怒るよりも良い方向に向いているような気はしています。しかし、『呆れる』というこの感情を1日に何度も何度も経験すると心が死んでいくような気になります。本当に『呆れ』であるのかすらわかりませんが。
書いててふと思ったので少し記しておきます。
私の価値観の中に、善悪を簡単に判断しない、という考え方があるようです。そもそも物事を全ての色眼鏡を取り去った視点から眺めた時に、善と悪というのは物事に存在しないような気がしています。究極、善というのはある環境やある時代の人間にとって都合の良いもので、悪というのはある環境やある時代の人間にとって都合の悪いものなのではないでしょうか。善と悪のどちらかで物事を捉えることは、その人の環境や成育歴に左右されるはずですし感覚的なものですから簡単なことでしょう。あの人はモノを盗んだから悪い。あの人はポイ捨てされていたゴミを拾ったから良い。このように、物事を善と悪で捉えることは簡単なことだと感じます。しかしこれは同時に危険性を孕んでいるようにも私には見えるのです。この単純な善悪の二元論は、物事の裏側に隠された本質を考えることを放棄していないでしょうか。
もしも物事を根本的に解決したいのならば、簡単に善悪の判断しないことが大切だと感じます。その行為の是非を問うことはひとまず置いておいて、その物事が起こった理由と背景に思いを馳せることが重要なのではないでしょうか。我々は神様のように全知全能な存在ではないのだから、本当の意味で物事を善と悪に分けることなどできないはずです。悪事に思える行為も判断の是非は神様(いるのか知らないけど)に委ね、私ら教員はどのような児童のことも赦し行動の改善に手を貸すことが重要なのではないかと考えています。
話が飛躍しすぎてなんの話かわからなくなりました。そうだ、怒れなくなったって話でしたね。
夜も更けました。おやすみなさい。
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