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コンテンツに全粒と精白の概念を

ちょっと前にツイートしたこれについて、もうちょっとしっかり書いておきたい。

けんすう氏が最近よく言っている「コンテンツの原液」とは、長時間のライブ配信やポッドキャストなど、編集前の「素材」としての生のコンテンツを指す。彼のPodcast「ハイパー起業ラジオ」で行う対談は「濃い原液」であり、熱心なファンが摂取するものである。そしてファンはその「原液」を使って切り抜きなどのコンテンツを作り、ライト層はそれを楽しむのだ、と。

このコンテンツ戦略そのものについては特に異論は無い。配信者があらゆるチャネルへの配信やそれに合わせた編集をするのは大変なので、そこをファンにやってもらうのは賢い。昔読んだ『ファンベース』でも、「いかに熱心なファンを運営や活動に参加させるかがポイント」とあった。

俺が気にしているのは「原液」という比喩である。「原液」という言葉は活用するために希釈することをイメージさせる。しかし、実際の二次創作は「情報の濃縮」や「焦点化」であり、希釈とは逆のプロセスだ。それにコンテンツの源となる配信が「濃い」とは限らない。

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