17年ぶりの江國香織
夜遊びしたい。
そう口に出したら肩の力がスッと抜けたような気がした。
夫は仕事の日、大抵帰りが遅い。
息子達と3人でいつものように夕食をとる。
「今一番何がしたい?」
8歳の長男が私と次男を交互に見る。
「アースグランナーがみたい!!」
5歳次男が即答。
日曜朝に放送されていて最近ハマっているヒーローものの番組だ。
「ぼくは自転車におもっきり乗りたい。」
長男は先週買ったばかりの新しい自転車に夢中。
「お母さんは?」
そう聞かれ答えたのだった。
つくづく私は影響されやすい人間だなあと思う。
17年ぶりに再読した江國香織の「号泣する準備はできていた」。
たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。
そして、それは確かにそこにあったのだと思う。
~あとがきより~
かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの短編集。
そう締めくくられている。
二十歳の時に読んだこの本は正直共感とはかけはなれていた。
大人って大変やなくらいに思っていた。
ところが37歳になって読んでみたら胸が締め付けらるみたいに苦しくなった。
この短編集に出てくる女性達と同世代になったから、というのももちろんあるだろう。
でもなんて言うのかな。
ずっと一緒ではいられないのだ。
みんなそれぞれ過去があり、本人にしか分からないことがたくさんあり、その延長線上の最先端にいてこの先のことは分からない。
この短編集の中の「どこでもない場所」というお話。
長旅から戻った自由な友人とシングルマザーの主人公。
女二人バーで飲む。
常連客の男性とお店のマスターと、旅先でのロマンスについての会話に花を咲かせ、そのまま流れで深夜にチェーン店の牛丼を食べに行く。
バーの薄暗い照明ではなく牛丼屋の蛍光灯の下で見る彼らは小説や映画の登場人物に会っているような感じ。
あるいは旅先にいるような感じだ。
ここをでれば、私たちは私たちの場所に帰るだろう。
普段の生活を知らない人との時間。
ふわっと少し現実離れしたその空間は、1日の大部分を占める「日常」を生きるための力になったりする。
この感覚を知っている。
それは江國さんがあとがきで言うところの「かつてたしかに所有していた時間」であり、現在喪失したものだ。
外飲みができなくなった=喪失なんて大げさな!と思われるかもしれないし、もちろんそれで号泣したりもしない。
でも母親になったからといって別人になったわけではない。
「あー外で飲みたいなー」と思うのも自然なことだ。
お母さんは一番何がしたい?という質問に
「夜遊びがしたい。」
と言ったらそれってなんなん?と聞かれた。
「夜に遊びに行くことやで。たのしいでー。」
「夜に遊べるん?めっちゃ楽しそうやな。」
息子二人が目を輝かせた。
しばらくは叶わないだろう。
行けるようになったら行こう。
楽しそうな大人で、母親でいたいな。
夜遊びしたーいと口に出したっていいじゃないか。
皆さんの今一番したいことはなんですか。