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偽札ブリコラージュ

毎日をぶつ切りにして書いていたが、これまで書いたことは自分から自然と出てきたものだし、書くことで半強制的に取り出されたものを自然というのかは別として、わたしの意思とは関係なくこの世に生まれ今生きていることも自然だとされるだろうから、意思も強制されたかも関係がなく自然は存在するのであって、それは奇跡とも呼ぶかもしれないが、書いたものはやはり自然なものなのだ。その自然に生まれたものはつまりわたしが蒔いた種であってそれに水をやり手間をかけるのはわたしの仕事とも言える、勝手に世話をしてくれるお人好しはいない、その成長を見守る珍奇な人は大事にすべきである。毎日種を蒔くばかりで一向に手を掛けずにいても、耕せる土地も限られているだろうし、収穫もなくひたすらに鍬を振るう日々は体も心も持ち堪えられない。種ばかりでなくわたし自身も水や栄養が必要だ、時には人の手の世話の温かみなしでは生きていられない。度々自己啓発がキーワードのようにわたしの書いたものに登場し、その度に親殺しのように忌み嫌われ罵倒されている。実際わたしは自己啓発本と一括りにされる小手先のテクニックで人生や人格を変えてしまえと叫ぶ本のいくつかに影響され、結果必要のない遠回りをしたという被害者意識を持っているのが罵倒の原因かもしれない。本当のところ、ずっと本当しか書いていないのだけど、何を読み何を実行するのかはわたし自身が決めたことであって読書に限らずすべての行動において被害者にはなり得ず加害するのはわたし自身だ、そして加害にもなり得ない、行動の責任として降りかかる苦しみや悲しみから新しく光る小さな喜びを見つけ出すのもわたし自身だからだ。こう書くとむず痒い、嫌った自己啓発本にそっくりそのまま載っているような言葉ではないかと言うわたしがいるからだ、そのたびにまた皮肉ることでそのむず痒さを消し去ろうとする。ここで終わるとまたいつものパターンになってしまう、皮肉のその先へ行くには、その裏側まで見なければならない、何もそこにはないとしても。遠回りさせられることもない、近道がないように遠回りもないからだ。結局人の話に振り回されて戻ってきた場所は自分が元居た場所だった、だとしてもそこに立つ自分は以前とはまるっきり違っているのだ。自己啓発とは自分自身の潜在能力を引き出すための訓練だ。こだわるわたしは自らの潜在能力を信じているのだ、沢山の人と同じように、そして信じているからこそ多くの人が怪しいセミナーに騙される。しかしどこか風向きが変わってきてはいないか、自分自身を信じてお金を稼ごう、よりも直接的な怪しいバイトに手をつける人間が増えてはいないか。あくまで憶測でしかない、そこに肌感覚はないが、世の中には今や余裕な空気が瓶底数センチしか残されておらず、底にへばりついた人間は口を鯉のようにパクパクとさせて残された空気を吸い込むのに必死だ、上に這い上がろうという希望はもう見えていない。一歩間違わずともその道を歩いていたかもしれないと事件のニュースを見る度わたしは思う、幸いわたしは臆病だった、弱点が人を助けることはやっぱりあるのだ。逃げに逃げた人間が行き止まりに突き当たり何も持っていない手のひらを見つめ初めて自らの手で掘り進めようと考える、その必要を思い知る。そこから本当の自己啓発が始まる。書くことはその一手だ、何も持っていない人間だって手元にあるものから始めなければならない、ブリコラージュだ、何もないからこそあるもので。漫画家は紙にペンで漫画を描いて金をもらう、加藤伸吉は原稿は偽札だ、紙幣を造っているんだと言っていた、究極のブリコラージュじゃないか。ここに書いたことは一銭にもなっていないが、わたしから生まれてきた、パソコンと電気を使って生み出されたものだ。沢山の人が沢山書いて、その人だけから生まれたものは読まれても読まれずともいつかは消えて、その人も消えるのだ。なんの話だ、わたしにもわからない。だから好きなものを書け、というのは簡単な着地点で、わたしが言いたいことではない。そうか、簡単な着地をする自己啓発本が好きではないのだ、投げられたら投げっぱなしで、放り出された人体模型のように脱力して四肢があらぬ方向にのたうちながらどこまでも無重力を飛んでいきたい。よくわからない話に行き着いて今日は止まってしまった。

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