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ハッパと少年

青いなぁとぼーっと見ていられる空、日は眩しくて暖かい、遠くでサイレンが鳴っていて街はいつもの毎日を動いている。二杯目のコーヒーと、体がもういらないと言うのを知っていてタバコを吸う。心臓が微かに痛い。狂ったような語りを聞いていると突然電波が途切れて背伸びをする。深いリラックスと内側の奥の奥がダムの放流のような勢いでせめぎ合っている。日の当たる右半身だけが暖かくて心臓を温めなければと思う。待ち人は予定通りにはやって来ずに待ち人ですらなかった。異常な食欲がこの体を維持している。機械のように動ければ良いのに。油を差したって変わりはしない。街は平然と動き続けている。動くことをやめられない止められずに、それは死ぬまで続く。死ぬこともない、それを知る者がいないから。やけるように熱くなった体から火が上がって湿った落ち葉の心が白い煙をあげる。そのまま風に混ざったそれは誰も知らないところを探して流れ流されていく。しかしこの世界にはもうそんな場所は残されていない。

緑の丘のなだらかなてっぺんで少年はそこが好きで、仕事に疲れたらそこに座り丘の下の緑とまばらに点在する赤っぽい家々を眺める。遠くには小さく海が見える。羊の世話もその丘の上の時間も同じくらい好きだった。丘のてっぺんに落ちていた落ち葉を拾う。茶色でカリカリに乾燥したそれには似つかわしくない生命力を少年は感じて、手にとって表も裏もしばらく観察したあとにチェックのシャツの胸ポケットにしまった。ハッパは少年の優しい心臓の音に安心して優しく目を閉じた。久しぶりの安心だった。風ともここでお別れだ。さよならは言えなかったがそのうちまた会えるだろう。寂しくはなかったこの音があるから。丘を下って最初に出会う家が少年の家だった。その二階の窓からも丘の下の景色が見通せて、でも丘のてっぺんとはまるっきり違うように見える。その少年の部屋と丘のてっぺんが繋がった場所だと少年には思えなかった。手作りの小さなギターは三年前に作ったもので大切に扱っていたから毎日弾いているのに傷ひとつなかった。少年とギターの過ごした時間の感触だけをギターは纏っている。ポロんと流れた空気の揺れでハッパは目を覚ました。どこかから優しいご馳走の香りがする。シチューだきっと。ハッパはお腹が減らないし一度も食べたことはなかったが鼻はよかった。だからか美味しいがわかったし優しいもわかった。少年とギターの奏でる音はとびっきりに優しかった。ハッパは嬉しくなった。少年の心臓の音と少年とギターの音がある、ここにいる幸運に感謝した。
少年の名を呼ぶ声がした。母親の声だった。軋ませながら階段を降りると食卓には大鍋に入ったシチューがでんと真ん中に置かれていてそれを挟むように小皿とパンが二切れずつ置かれていた。テーブルの端には編みかけの編み物があって少年はそれが何の編み物なのかまだ知らない。母親は編み物が好きだった。というより父親がいなくなってからは編み物ばかりしていた。少年は父親といる時の母親を知らないし見たことがないから編み物をする母親しか知らなかった。母親が絵を描いていたことや馬の世話が好きだったことも少年は知るはずがなかった。シチューを食べ始めると少年はすぐに羊のことを母親に喋りだした。29匹の羊が30匹になっていた。元々30匹いた羊が29匹になったのは一昨日のことだった。それが今日数えると30匹になっていた。数え間違いのはずはなかった。今日も一昨日もそんなはずはないと、何度も何度も少年は羊を数えたからだ。羊は一昨日には29匹で今日には30匹だった。少し興奮しながら喋る少年を母親は黙って見守っていた。母親は少年の話を聞くのが好きだったし、少年の弾くギターの音も好きだった。父親が死んでから母親は音楽を聴かなくなった。代わりに風の音を聞くようになった。風が庭に立つ一本の木の葉を揺らす音を聞いた。聞きながらこれは風の音なのか木の葉の音なのかどちらだろうと考えた。それはギターと少年のように、二人の音なんだとあるとき気がついた。それからまた音楽を聴くようになった。食事を終えて部屋に戻ると少年はすぐに本を開いた。半分より少し手前まで少年のうねる文字で埋められたそれは◯◯と名付けられ、毎日それに書き足していくのが少年の日課だった。今日書くのはもちろん羊のことだった。少年は消えた羊のことをそして帰ってきた羊のことを考えた。しかし思い浮かぶのは父親だった。会ったことも見たこともない父親を少年は時々思い出すのだった。その父親はいつも笑っていた。実際父親はよく笑う人だった。よく冗談を言っては自分で一番に笑いだした。風の音も葉っぱの音もかき消すほどの大きな声で笑った。母親はそんな父親が大好きだった。少年は父親が帰ってくるような気がした。消えた羊が帰ってきたように父親も丘の向こうから、当然のように。
少年は本を閉じた。そして思い出したように胸のポケットからハッパを取り出した。それはきれいな金色になっていた。少年にはそう見えた。不思議なハッパをまたしばらくその表と裏を眺めてから、少年はタバコに混ぜてそれを吸うことにした。ゆっくりとハッパを裂いて紙の上に敷いたタバコにまぶした。窓を開けてマッチで火をつけ深く吸うと少年はゴホゴホと咳をした。風に混じったその煙はゆっくりと丘を下り、やがて海に行き着いた。それはいつか雲となり雨となって丘のてっぺんを優しく濡らす。

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