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「人それぞれ」は、あなたの意見じゃない

「メダパニ食らった麻原彰晃みたいなこと言うんじゃねえ!」

明け方の駅前、意味不明な悪態をつくほど酷い記事を目にしてしまった。

――というわけで、この問題については人それぞれで考えていくべきだ。

大雑把だけど、こんな結論で締めくくられていた。

私は物事を「人それぞれ」「多様性」という言葉で片付ける人が好きではない。無責任だからだ。この締めの言葉に苦言を呈す記事も過去に何度か見たけれど、それでも粗悪な記事が無くならない。

駅前で変な悪態をつく悲劇が繰り返されないように、なぜ結論に「人それぞれ」を用いる記事が問題なのかを書いていく。逐一書く。

コールセンターで働いていた頃、私は人の感覚が「人それぞれ」であることを痛感していた。それも毎日。来る日も来る日も、思うことは「人それぞれ」だった。

私が勤務していたネット通販の場合、商品の配送に3日待てる人もいれば、1日も待ちたくないので自ら倉庫に取りに行くという人もいた。

たとえばだけど、気の短い顧客から「配送が遅すぎる。もっと迅速に対応すべきだ」という要望(意見)があったとする。

このとき、オペレーターは「そうですか、まあ感覚は人それぞれですよね」と返答するだろうか。それで顧客は納得するだろうか。

これは私の主観だけれど、間違いなくその会社は炎上すると思う。

他人の意見を「人それぞれ」で片付けるのは、「あなたと対話する気はありません」と表明するのと同じなのだ。こんなに無責任で恐ろしいことはない。

そもそも「人それぞれ」は対話をする前提として用いられるべきだ。

「配送が遅すぎる。もっと迅速に対応すべきだ」と言われたら、まず「感覚は人それぞれなんだな」という前提があって、「では両者が納得する落としどころ(結論)はどこかな」と考えるのが健全な対話だ。

顧客はどの程度なら待っても良いと思っているのか。そもそも日数の短縮はできるのか。仮にできるならどれくらいコストがかかるのか。そのコストを顧客に負担してもらうことは可能か。

こういうことを一緒に考えていくべきなのだ。正直、面倒くさい上に時間もかかる。だから、つい「人それぞれだよね」で片付けたくなる気持ちもよく分かる。痛いほど分かる。

分かるのだけど、これが常習化すると主体性のない人になってしまう。「人それぞれ」は意見ではないし、結論にもならない。

「何が正しいかは、人それぞれが考えれば良い」が意見として成立するなら、たとえば安楽死問題のように、賛成派と反対派が真っ向から大喧嘩することになる。

――というわけで、この問題については人それぞれで考えていくべきだ。

改めて見てみると、やはりこの結論は「考えるのがめんどくさくなったので、それっぽいこと言いました」感が拭えない。

何か反論があったとしても「人それぞれだから」で簡単にあしらえるようにしてるだけじゃないのかと思う。あたかも受け取り方に問題があるかのような論調だから、無責任に感じるのだ。自分が言ったことなのに。

「被害者が悪いから自分は無罪だ」などと被害者に責任をおっかぶせる主張をした、メダパニ食らってるとしか思えない麻原彰晃みたいな言い草なのである。

だから私は「メダパニ食らった麻原彰晃みたいなこと言うんじゃねえ!」と悪態をついたのだ。メダパニ食らった麻原彰晃みたいだったから。

「人それぞれ」は意見ではない。意見はその先にある。

コツコツと資料を読んで、色々な人の主張を聞いて、お互いが納得する結論はどこにあるかを考えて、やっと出た自分なりの答えが意見なのだ。

もし、記事を書いていて「人それぞれ」「多様性」といった文言を結論にしようと思っている人がいたら、それはスタート地点なので、ぜひその先の答えを見つけてほしいなと思うのである。

うん、人それぞれだけどね。

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