女王の教室 その2(2005年07月24日)
2005年07月24日 記
初めて「女王の教室」を観た。結論から言えば「観る価値のあるドラマ」だと思う。昨日は第4話だったのだが、見る限り、それほど女教師の行動が「過激」とは思わなかった。もっと体罰とか虐待とか、びしばしやってるのかと思ったが、そうしたシーンは一度もなかった(もっとも過去の放送であったのかもしれないが。それはよくわからない)。基本的にこの女教師は、指示は出すがそれ以外は何もしていない。言ってることは正論。教育と言うのは、突き詰めると「洗脳」であるという話を聞いたことがあるけれど、彼女はそうした教育の「正論」を戯画化した存在ということなのだろう。今回の4話で言えば主人公らしき生徒の自宅付近にいきなり出現するシーンなどは、それをよく象徴していると思えた。彼女の存在は幻、幻想ということだ。
やっかいなのは、それを幻想と捉えず、大真面目に学校教育の現場に取り込もうとする教師が実際にいる(いた)ことであろう。例えば僕の中学時代はいわゆる「校内暴力」全盛期で、それに対抗すべく学校側は「管理教育」という手段を用いた。愛知県はとくに管理教育のメッカと呼ばれたものである。頭髪検査、服装検査が日常的に行われ、違反した生徒は容赦なく叩かれた。直立不動の生徒達の間を、裁縫用のラシャバサミを手にした教師らが徘徊する。違反と断じられた生徒はその場で、前髪を切られ、スカートを切られる。異様な光景だが、それが日常になると、生徒達は誰一人文句を言わなくなる。どこかの国の収容所のシーンのようだが、当時はそれが当たり前だった。鎌田慧がのちに「教育工場」と名づけたのは、じつに的を射た表現だと感じ入ったものだ。
それでも前の日記にも書いたように、僕の通う中学はまだ鷹揚なほうだった。男女交際はぜんぜんOKだったし、わりと生徒と教師の信頼関係も篤かったと思う。個々の教師達は「いい先生」が多いのに、なぜか学校全体では極端に異様な行動に走るというのは、当時としても不可解だった。僕が初めて愛知の管理教育の凄まじさを実感したのは、高校生になってからのことだ。修学旅行先で、とある愛知の高校と一緒になったときのことである。そこはいわゆる「新設校」と呼ばれる学校で、徹底した管理教育が「売り」と噂には聞いていた。びっくりしたのは、そこの生徒達がバスの中から2列縦隊でずらずらと降りてきたのを目にしたときだ。バスの乗降さえ管理するというのは、異様というより、むしろ可笑しかった。何かの冗談かと思った。
「女王の教室」を観て感じたのも、このときの可笑しさである。結局、この物語はパロディなんだろうと納得した。だから、やれ子供の教育に悪いだの、なんだの騒ぐ必要もない。所詮、ドラマなのだから。子供の教育に悪い、という点で言えば、その前に放送されていた「ごくせん」だって教育には悪い。毎回暴力シーンが頻出するあのドラマは「暴力肯定」とも取れるわけだし、ある意味、『女王の教室』よりもタチが悪いともいえる。でも「ごくせん」にクレームがついたという話は聞いたことがない。「ごくせん」がよくて「女王の教室」はダメというのは変な話だ。話は飛ぶが、主人公の女の子の演技はすごい。逸材だと思う。
2024年03月28日 付記
本文で「逸材」と書いた鬼教師に対峙する小学生を演じた、志田未来さんのご活躍は周知のとおり。昨年は『どうする家康』にも出演されていた。今年三十歳。知らない間にご結婚もされたらしい。いろいろびっくり。天海祐希さんのほうは、全然変わってない。それもすごい。