見たくないものを見る
今更ながらよんでいるのが、『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』
新興宗教にハマり、人生を棒にふる。半生を失うケースというのは確かにある。また、なぜハマるのかを研究する研究者もたくさんいる。
しかし、ハマった人が報告し、自らの体験を客観視するのはなかなか難しい。なぜなら自分の苦しみから逃れるために宗教にハマるのだから、見直すことは自己をえぐることになる。
本書は、自己の体験から見えてくること、脱会支援から見えてくること…神秘体験から生み出される危険思想にも触れている。体験を証と捉え、正しさを求め依存していくあり方への危険性を指摘している。
まだ読んでいる途中だが、既成宗教はそうではないと簡単には言えない。本書を虚心坦懐に読み、日蓮遺文を読む時、我々はかなり考えさせられるであろう。
今、私は友人たちとオンラインでデスカフェや読書会を開催している。過日その参加希望のかたとも話たが、そこには多様性と自らが考える時になっていると思う。
意見が異なることが悪いのではない、違いを認め、その上で考えること、違う意見や視点が人生のヒントになることは多い。
布教が自分は正しくて教え諭すというのならば、どうやら自分はできない。考えそれぞれが答えを見つけて貰うならできるかもれない。
だから、私はこう考えている。あなたはどう考える?と問い聞くこれらのワークショップは自分にとって大切な時間だと思う。
また、法事の前に故人の人柄を聞いたり、亡くなられてからの時間で感じてきたことをお聞きしてからお経を説明し、読経を促すが…私はお経はこう言っていると思う。それ故にあなたは賛同するならお経読みませんか?となる。もちろん宗派や宗旨が違うなら強制はしない。
結局、仏教が世の理なら生老病死を問うことが、仏教につながるし、布教になると個人的には思う。日蓮宗だ仏教だでなく、一人の人間としてあり方を問うことをしつづけること。だから聴くと考えるを促すデスカフェや『生老病死を考える15章』
を読むワークショップが、私にとっては布教に当たるのだと思う。
人によっては信仰がないと言われるかもしれないが…