オンライン
この頃はインタビューを受けたり、研修を受けたりするのは、オンラインになりつつある。マスク越しにしか話せないリアルより画面ごしとは言え、顔がしっかり見えるよさがある。
あと経費と時間のコストがないという点は優れている。
一方、リアルは途中電話が入ったり、来客対応したりがなく、集中ができないケースが少ない。全身から伝わる情報があり、人柄や雰囲気まで伝わる。
そこでオンラインを用いる場合も安心を担保するために、会ったことがある人とか、紹介がある人とかでワークショップや読書会を組んできた。
リアルミーティングの経験があってのオンラインとの考えです。
一方、寺院ではコロナ禍以前は不特定多数に告知していました。場という縛りは、そこへわざわざ来てもらうという熱意が必要で、それだけで時間や手間というある種のコストがかかります。また、そこに身体がありますから発言は、ある種の個人として責任がともないます。
インターネットなら人、リアルなら場所のいずれかで縛りをかけてきました。なにも縛りがないというのは、一見自由に見えますが、安全性を担保できません。参加者の安全性を重視してきました。
読書会などは、ツイッター等で告知し、不特定多数と関わる方法もあるでしょうが…
フェイスブックの良さは、こちらがある程度信用できる友人たちとコミニティを築き関わることが可能と言う点ではないでしょうか?
コロナ禍で見えて来る関係性の構築方法…ユーチューブやラジオも含め、僧侶・住職の挑戦も一時で消えたもの、今も続いているもの様々です。長く続く続けられるは、工夫や力量が問われます。
もろもろのことがらは過ぎ去っていく。怠ることなく修行を完成させよ。
は有名なブッダの遺言です。まだ道の途中ですが、コロナ禍で問われているは、人間として、僧侶としてのあり方ではないでしょうか?
毎日、聞いている横田南嶺老師のラジオでもそのことが書かれ、話されています。
修行と布教という僧侶の使命を、コロナ禍で行いつづけるその根本が変わらなければ、技術を用いて変わっていってよいのだと…私も読書会やワークショップの経験から近頃つくづく感じます。
それを気がついたとき思い出したのは…下記の本
そうか…生物は我々は分子レベルでそれを行なっている。それが生き残る根本なんだと…したたかにしぶとく進化しつづけ、生き残れるのか、今寺院も僧侶も問われているのかもしれません。