悲しみ
お盆の棚経が始まっている。住職になったのが平成10年もう二十年を超える。この時期のお経周りは1日数件なので、ゆったり話もする。コロナ禍だからマスク越しだが…檀家さんと話すのは、三十分程度だとしても二十年も経つとそれなりの時間になる。
とあるお宅で、早逝したお子さんの話になった。写真が飾ってあり、位牌もある。法事もして来たが、棚経でお施主さんから話されたのは始めて…
いつもこちらからは言えない話なので、黙っていた。ご夫妻がいや、年を取って無理がきかないと言う話から、長男が今生きていたら…○歳だと言われた。
自分も同じ病気で近親者(子供)を亡くし、葬儀、枕経をして感じるものがあったが…と言う話に…
結局、悲しみを忘れることはできないし、したくないと言う話に…
生きていくということは、悲しみを背負うことでもあるなーと改めて感じる時間でもあった。
若松英輔『悲しみの秘儀」では岡倉天心が亡くなる前に書かれた詩をとある女性に送った話の中で、以下の表現がある。
悲しみの花は、けっして枯れない。それを潤すのは私たちの心を流れる涙だからだ。生きるとは、自らの心のなかに一輪の悲しみの花を育てることなのかもしれない。(176・177頁)
さらに、違う章(若松先生が奥さんと死別されたことを記載したもの)では、神谷美恵子の『生きがいについて』でイギリスの詩人テニスンの一説に触れている
愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。(神谷美恵子訳)184頁
悲しみと共にあることそこから見えてくるもの、それは誰かに教えられるものではない。ひとそれぞれ感じるものがあるだろうなと思う。
我田引水ではあるが、法華経には「常懐悲感心遂醒悟」という言葉がある。常に悲しみを懐くことにより心が遂に目覚め悟るという意味ですが、悲しみを得ることにより見えてくる世界があるということなのでしょう。
私自身、親族の枕経をし引導を渡すことで、自身を省みることなりました。今を丁寧に生きることは、亡くなられた方々の思いを引き継ぐことであるとともに、その命と共にある時間を大切にすることでもあります。
だからこそ今このいのちを大切にすることが必要なのであろう。