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読むという行い
読書会のインタビューの中で、物事の見るということを論じた。読書会を行う行為は、仏教そのものと繋がるとは言い切れないが、そこへと導くドアにはなりうるのではと感じている。
個人的には本を読むという行為は、ほぼ日常のなかであたりまえの行為となっているが、改めて確認したのは下記の本での表現である。
「読む」とは、言葉である死者とまみえることだといえる。別な言い方をすればみなさんが心のなかで死者を感じるということ、それだけで十分創造的な営為なのです。 さらにいえば、みなさんが真剣に隣人と死者を語ること。それだけで大変創造的な営為なのです。創造的と申しますのは、単に何かをつくることではありません。その営みを契機に私たちは真理に近づくことができる、ということです。(141頁)
若松さんは読書を通した、死者との対話が真理へ近づくことと考えています。
個人的には、仏教という宗教に限らす、ほぼすべての叡智は過去の死者たちの努力や精進から生み出されてきた知恵を引き継ぐことから生み出されてきたと考えています。
仏教で言うなら、経典は死者の語りであり、我々の受け止め方が大切となります。時代に影響をうけながら常にテキストは存在します。
戦中は、国家を擁護し、戦争肯定的に運用されたり、戦後は環境問題として捉えたり、いくらでも解釈は変わっていきます。であるからこそ、より大きな視点、自己の欲望、願望をなるべく反映しない視点が必要になると思われます。
であれば、批判を冷静に受け止められる環境を担保すること、一方で好き嫌いで意見をいわないで、責任ある発言をすることが、必要不可欠になります。
一方で、歴史は繰り返すではありませんが、科学技術が進歩しても、人間の本質は簡単に進歩しません。
失敗を糧にすることは、大切ですが、人間は失敗する。都合でものを見るという視点は失ってはならないと思います。
多くの問題で考えるべき点は、技術の問題ではなく、この我々の都合で見る考え、癖ではないでしょうか。過去の叡智というと成功の歴史だけを重視します。しかし、本来は失敗こそ学ぶべきことであり、こうすると失敗するという事実を学ぶべきという考え方もあります。
下記のビジネス書では、成功の共通項はないが、失敗の共通項はあると指摘しています。
さて、死者の声を聞き学ぶという点では、末木文美士『反仏教学 仏教VS倫理』の考えは大きい
ヒロシマ ナガサキ 靖国の鎮魂、そこに存在する納得いかない死とどう向き合うのか…簡単ではない死者との対話が論じられています。
近年なら関係ないと感じがちですが、納得いかない死は身近にいくらでもあるでしょう。子供の突然死、交通事故死などそれをそのままにしないで改善し、よりよい形に変えて行く努力は忘れてはならないものでしょう。
法華経では、見宝塔品で死者である多宝如来が、今お説教している釈尊を肯定し皆に証明するシーンがあります。死者が生者の後ろ盾になる。あたかも合体するかのようなシーンです。
今を生きるとは、過去を引き継ぎ、つぎへバトンタッチする存在とも言えます。生者である我々もいずれ死者となる。そういつか多宝如来のような存在になる。その時に何を渡せるのか…考えながら悩みながら…今を生きるしかないのでしょうね。