問うという行為
本日読み終わらせたのは『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書 549)』
本書は、100分de名著で講義された『全体主義の起源』を新書化したもの。中古本でもなかなか値崩れしないものです。メルカリで格安で購入し、よんでましたが…最近読み終わらせた『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』
ともリンクする部分が多々あります。
驚いたのは、『なぜ人はカルトに惹かれるのか』には、『悪と全体主義』の著者でもある仲正先生が統一教会に入信していた過去があることが、述べられている。両書を読むとわかるが、仲正先生がハンナ・アーレントに興味を持つのはある意味で当然だと思う。
そこには、他者の視点の重要性、多様な価値観と向き合うことの重要性が指摘され、立ち止まって考えるの重要視している。
以下は『悪と全体主義』の文章であ自分が考えていることや信じ込んでいることが間違っていた場合、それを自分一人で考えて正すことは、かなり困難です。複数の人と共に考えたとしても、同じ意見や考え方の人ばかりが集まっている場では、結局同じものしか見ていないものです。物事を他者の視点で見るという場合の「他者」は、異なる意見や考え方をもっていることが前提となります。 アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な 「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。(189頁)
私個人としては、複数の人と考える、多様な価値観と出会うのを目的にしてやっているのが、オンラインでのデスカフェや『生老病死を考える15章を読む』ワークショップだと思う。視点を変える、異業種と交わることで自分を見直す。単一の価値観でものを見ないということの重要性さてあり、様々な方々、また職業と接することで見えるものがある。
その上で立ち止まって考える時に大事なのは、誰かが正解を持っているわけではないということであろう。
『なぜ人はカルトに惹かれるのか』では、信者も悩んでいるが、自分の神秘体験を裏打ちしてくれる師を必要としていることを指摘している。それ故に師の絶対性、無謬性を求めてしまう。
その点では『悪と全体主義』の指摘通り、多くの人々が悩んでいないとするなら全体主義は、より恐ろしいとも言える。
しかし、考えてしまうのは今のロシアの問題である。ロシア国民は本当にプーチンを支持しているのであろうか?支持率が高いとも言われているが、それも統計方法でもあるから鵜呑みにはできない。何れにせよ情報を与え、考えるが行うことが始まりであろう。
また、宗教もだが指導者が無謬と考えることの危険性を忘れてはなるまい。それはカルトで我々は違うと言えるかというと実はこころもとない。
とある機会で後輩の僧侶に宗祖も人間、ブッタだも人間、我々とある意味で変わらない。間違えもあるだろうし、モデルケースだと考えていると言ったことがある。でも相手は「日蓮聖人や仏陀に間違えがあるとは思えない」と述べられ絶句した。これってカルトと変わらないとおもったのだ。
()づけをつくらないは難しいのだろうか?ある意味で聖域なのかもしれないが危うい。
こういう時思い出すのは『銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)』
本書には、ルドルフという専制国家を生み出し、圧政をしく指導者が出てくる。なぜその存在がうみだされたかは以下のように言っているシーンがある。
息子の質問に彼はこう答えた。 「民衆が楽をしたがったからさ」 「楽をしたがる?」 「そうとも。自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖者なりが現れて、彼らの苦労を全部ひとりでしょいこんでくれるのを待っていたんだ。そこをルドルフにつけこまれた。いいか、おぼえておくんだ。独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪 だ…
カルトも全体主義も思考停止を促す。その世界で違和感を持たないなら楽になれる。問いつづけるは楽ではない。でも、おそらく楽にならないを選び続けなければ、それは自業自得的に返ってくるのではないだろうか?
ちなみに家庭生活は妻に頼りきっていて依存している。それこそ「楽」をしているのではあろう。言うは易し行うは難しか…
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