見出し画像

寒さの中で

お経回り

昨日から代務寺院の善徳寺の正月のお経回りが始まっている。

お茶を飲まないので、かなり短時間なお経回りであり、かつ昔からのお檀家さんしか回らない。お盆、お彼岸のお経回りの6割程度の数なのもあり、1日半で終了予定。

千葉なんで比較的温かいのですが、今年はさすがに寒さを感じます。しかし、こんなご時世になると、一軒一軒を伺いお経を読むことの大切さを感じます。

不景気がこれから社会を覆うと思います。宗教の希薄化が叫ばれている中で起こってくる、大波に我々もさらされます。

僕がお経回りをしコミニケーションをとる一軒一軒の状態を知る。大波には一見無力にしか見えません。

しかし、ともに生きていることを感じ、ともにあろうとすることは大切なのだと感じるのです。

『自分ごとの政治学』を読む

Kindleでよんでいたのが本書、カンディーや『大衆の反逆』にふれ、政治と宗教、政治と死者の関係性を論じている。そこには、いわゆる政治家まかせの政治でなく、日常や習慣のなかにあるものである。

『大衆の反逆』に関しては、100de名著で見て、死者が我々を規定し生かしていることを学んだ。その考え方は、末木文美士『仏教vs倫理』でも述べられ、法華経とも関わりがある。一方でカンディーの宗教活動が政治活動であり、今の法律を超えた大きな価値観、倫理思考には驚きとヒントが隠されていると感じた。

コロナによる逼迫を特定の宗教で解決しようとすれば、妄信を進ませ、過激化し必ず問題になるだろう。現実に不景気になり、人の心が荒れれば、カルト的な宗教が起こるかもしれない。人の弱さをつつくものは現れるから…

しかし、ガンディーのように特定の宗教でなく、どの宗教でも、無宗教者でも行える行為を大切にし、その背景に個人的に宗教があるならば、(ガンディー自身はヒンドゥー教徒であったし、そこから離れていない。)反発もないし、布教も必要ないし、妄信も生み出さない。むしろ謙虚さを生み出すのだろう。

現代においてそれは何なのか?を考えると、個人的にはテンプルモーニングや布薩がそれに当たるのではないか?と考えている。

これらの特徴は習慣や日常であり、あり方への問いなのではないだろうか?掃除も懺悔も宗教性を感じる人は感じるし、感じない人は感じない。大事なのは行うことであり、その人の心の中での位置づけではないだろうか?

これはボランティアにおいても同じだと思う。行為は同じでも、それぞれの心のあり方は異なる。それは心持ちが違うからと否定されるものではない。行為が一致できればそれでよい。キリスト教であろうとイスラム教であろうと仏教であろうと一致して行動ができそれが、他者に貢献できるならば…

現実に若いころがんセンターでボランティアした。キリスト教の教会が作ったシステムの中で坊さんである私が車イスを押していた。それを自分は疑問に思わなかったし、問題ではなかった。ボランティアさんにもキリスト教に改宗したらなんて言われたことはなかったし、むしろ仏教に関する質問やリスペクトがあった。

今振り返ると極めてポストレリジョンな現場だったと感じる。諸般の事情で辞めることになったが…

そう考えると本書は、自分の行為の中にあるポストレリジョンとレリジョンを教えてくれたとも言える。これからの政治、これからの宗教を考えるにはよい本だと感じる。ぜひ読んで頂きたい一冊です。


いいなと思ったら応援しよう!