ネット時代の功罪
コロナ禍となり、今までこのノートでも書いてきましたが、交流方法の主がSNSやオンライン会議となった。また、Twitterの功と罪?がかなり見え始めている。法案改正へのTwitterの炎上状態は、ある意味功なのかもしれない。しかし、TwitterなどのSNSの影響で亡くなられた可能性がある方も出ている。
Twitterの無記名での中傷のリスクの大きさに驚いている方もいるかもしれないし、またかと呆れているかたもいるかもしれない。佐々木閑先生は『ネットカルマ』の47頁で業の三原則を次のように触れています。
第一原則 人がおこなった善悪の行為は、すべてが洩れなく記録されていく。 第二原則 記録された善悪の行為は、業という潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす。 第三原則 業のエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない。
佐々木閑先生が本書で危惧していたのはブッダ時代の業の考えが、インターネットの発達で現代によみがえってきた点です。すべてがさらされている世界の恐ろしさに、我々は遭遇していると言えます。
ネットという業の中で
すべてがさらされる、記憶される。さらにはフェイスブック、アマゾン等で我々の思考をアルゴリズム化し、提案される世界にいる我々はどう生きればよいのでしょうか?
ネット検索の便利さと怖さの中に我々はいる。色眼鏡でみられたり、新たに生きなおすことが困難な世界は、かなり窮屈と言えると思います。
では、どう生きればよいのか?
先の佐々木閑先生はこのネット時代の苦悩にも、いや時代だからこそ、仏陀の教えは役に立つと述べています。
インド人が恐れた、業により生じる結果を越える方法を仏陀は教えてくれているというのです。簡単にいうなら処世術としての仏教と言えましょうか?佐々木閑先生は『ネットカルマ』145頁で下記の如くに述べています。
「自分はどういう生き方で真の安楽を手に入れたかを他者に示すこと」、それだけがブッダがやったことであり、ブッダが創設した仏教という宗教の本質であり、そしてそれが2500年にわたって、何十万、何百万という人々を救ってきたのです。
簡単に言えばよりよく生きることを述べているのですが、そのよりよくとは何かということは第四章でブッダの言葉を用いて述べています。詳しくはお読みください。(笑)
さて、佐々木先生の意見を断片的に捉えるとボランティアが悪いなんて捉える方がいるかもしれません。ここで言っているのは、善いことするぞ、善いことをしているという認識をして行うと自我意識が増大し、自己の都合でものが見やすくなるという意味であり、他者との関係性を否定しているわけではないということも併記して置きます。
自戒を込めて
ブッダが我々に残した心がけというべき戒は、法律というべき律に比べてかなり少ないものです。その中でもこの時代に個人的に気を付けたいのは・・不妄語と不悪口です。
うそをつかない。悪口を言わない。実は簡単に思えて難しいです。
嫁さんに良く怒られますが、子供に説教して、次の瞬間同じミスをしたりしている・・これってできていないのにも関わらず文句を言っている訳で・・嘘つきです。そう考えると修行も同じかな?行きつけていないのに先達として振る舞う、共に道を求めるならまだよいが・・そういうことも気もしないで認めて貰おうとする。危ないし怖いと個人的には感じます。できてないから告知しないがベターだし、言い訳したくないですよね。よくよく考えて告知もしないとと考えます。(笑)
あとは、悪口すなわち批判が無責任でかつ相手のためでないなら良くないとは感じますが的確な批判正しい意見は受け入れたいと思います。ブッダは『真理のことば』で次のような述べています。
(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。-隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。その人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。
批判を受け入れないでなく、よき生き方をしている友人の意見は聞くべきだという話です。
一方で、もしそのような友人がいなくなったら・・それはそれは恐ろしい。これが理由でつぶれた国家や企業はどれ程あったか・・『貞観政要』の中で出てくる太宗は名君ですが、晩年、苦言を呈する魏徴を失うことで失政を行います。無責任な批判は聞く必要はないですが・・
間違うかもという恐れと真の友人がネット時代にも必要だと感じる今日この頃です。
なんだ普通じゃん(笑)
でもそれが難しい・・
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