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葬儀と来世観の話をしたが、現在いきている人間だけの問題として葬儀はあるのか?といわれるとそれはそれで違和感もある。

来世観がなくても死者という存在はある。来世があるなら会いたい死者は自分にも存在する。願望のようだが…それは確かにあるのだ。

それは、大切な存在であり、自己を支える存在だ。

そこにあるのは、死者であり、来世で待っているとともに我々とともにいる。我々の心の中に存在し続けているとも言える。

仏教は2500年前、ゴータマシッダールタから始まった。その思いを引き継ぎ今があり、その精神を引き継ぎ今も仏教や僧侶が存在している。

末木文美士博士の『仏教vs倫理』では

法華経見宝塔品では、釈迦牟尼以前に悟ってなくなった多宝如来が、現在法を説いている釈迦牟尼仏を正しいと証明し、塔のなかで共に座るシーンがある。これは、我々が過去の人々に背中を押されることであり、死者とともに生きていることを示しているということを述べている。

とすれば、死者は来世にも赴くが、現在にもともに存在しているとも言えよう。

人によっては生きている時以上に我々に影響を与えたる死者もいる。先の『仏教vs倫理』では、広島・長崎の原爆で亡くなられた方々や靖国に祀られている死者などにも触れている。

我々に平和な世界を求めて、それによって今があるとも言えないだろうか?死者は来世に赴いたままではない、形を変えて我々に影響を与えている。

そこにあるのは、死者のMessageを受け取る受信する力であろう。声なき声を聞くちからと言えようか。

葬儀を来世のためとだけ考えるのでなく、人生の終焉を受け止め、次世代へのMessageと考えるなら、亡くなられた方それぞれの人生に合わせた戒名や引導文があってよいはずだとおもう。それ故に人生を集約し、Messageを受け止めるのを促すための引導が必要であり、仏教すなわち諸行無常を共に考える形を目指すべきなのではないだろうか?そんなことを考えて、引導文を作成し読んでいる。

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