枠を外す、外し続ける
人間をやっているとどうしても守らなくてはならないものというものがある。それが悪いというわけではない。むしろ、それがあるから生きていける成り立っているというものも沢山ある。
しかし、一方で枠の中にいるからこそ厳しいというものだってあるし、とある枠の中では、正統的ではあるが、他方からみると問題のある見方というケースも存在する。
その場合多くの問題は、どの角度や位置から物を見ているのか?が問われるような気がするのだ。
テンプルモーニングラジオでは、ヒューマンコンポスティングの話になっているが、この枠を外す考えがあるような気がしている
このnoteでも個人的に発言をしているが…
枠を外すというなら、コロナ禍になりリアルな対面での対話は難しくなったこともよい例であろう。それを受け入れ、どうあるべきか?を考えることが必要だろう。オンライン会議や研修会も増えたし、ワークショップも個人的には行っている。これとて行いたいという目的がありそれに対する手段があるからであろう。
目的と手段が新しい局面を作り出す。仏教における布教も同じではないか。
リアルな法話や座禅はできなくなった、そこでYouTubeやラジオでおこなわれている。目的は布教であり、手段が変化しただけであろう。
一方で、それも加齢による思考の硬直を避けることができるか?という部分があるのかもしれない。
本日、取り置きしていた100de名著ボーヴォワール『老い』の第二回をみたが、政治家の老いに関して書かれた文章でチャーチルに対する評価が辛辣だが、自分も陥りそうだなと感じる。
もっとも彼にはそれはなしえないことだった、というのは彼は時代とともに進まず、新しい課題についてよくわからなかったからである。しかし彼の老年期をとくに暗くしたのは取り返しのつかない生理的衰退であった。(46頁)
某研究所でも今年はオンライン会議にシフトしたが、昨年はオンライン会議に懐疑的であり、更新できていなかった。結局、時間の無駄だったと思う。目的に合わせて手段があるのはおそらくわかってはいるのだろう、しかしその技術に適応できなくなる。残念だが、自分も同じだ・・・
子供たちの会話やSNSでの動向にはついていけていない・・・常識が変わると適応できないのだ。となれば、一定年齢になれば次世代に席を譲るを考えねばならない。果たしてそれが自分はできるのであろうか。
人生五十年というなら、来年その年になる・・・考え深い。