如是我聞
法華経も含め、多くの仏教経典での始まりのことば、「如是我聞」(私はこのように聞きました)という表現から始まります。
仏教の八つの正しい実践徳目の第一番目は「正見」が挙げられています。意味はその字の通り、正しくものを見ること。ところがこれは難しい。
我々は自分の都合でものを見てしまう。アバタもエクボという表現がありますが。嫌いな人はアバタに見えても、好きな人ならエクボにみえると言います。さように我々の認識は、好悪や苦手得意などに左右される。正しく見るは難しいのです。
さて「如是我聞」もそう見ると、自分を一歩引いて見ていると言えないでしょうか?あくまで私の理解であって、それが絶対正しいではない。捉え方は様々だと言っているのではないでしょうか?
私は絶対正しいとは、考えない。他者の価値観もあってよいと言外に伝えているようにも感じます。
みんな違ってみんないいとは、金子みすずの言葉ですが、それに近い精神だとも言えないでしょうか?
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