ニュートラル
朝日新聞の11月11日の朝刊鷲田清一先生の『折々のことば』は「どっち側? 側って何?」という言葉であった。そこには
高校生と教師が心ない報道で死へと追いやられた事件を取材中、意図的な編集に加担する同僚に抗うと、「お前…どっち側なんだよ?」と逆に責められて。
とある。社会的立場や都合で立ち位置を変える。しかし、それでは事の本質には行き着かない。
何度がこのnoteでも触れたが、仏教は欲望をコントロールし、正しく見ることを求める。それは見たくない現実もありがままに見るということであろう。
ただ、仏教は世間を生きていくには難しいと考えていて、出世界、すなわち僧侶に求めていた。都合を超えるにはある意味では、利害関係者でないからできるとも言えよう。
本日、とあるアンケート調査報告書の作成のための会議に参加した。八年前の調査に比べ、人口減少の影響が明確化した。個人的には脱宗教化も見えてきていると思う。その傾向そのものは…
『宗教の凋落?:』 100か国・40年間の世界価値観調査から
でも書かれている。世界的な動向とも合致している。となると今後も人口減少の影響と脱宗教的な傾向は続くと考えられる。
そんな中で寺院が生き残るとしたら、人口減少しても存在する地域がまず生き残る。もしくはコンスタントに寺院に人が訪れる存在になくてはならない。ただし、人口減少すれば、自然、公共交通が使いづらくなる。それを超えて来ていただける魅力を創造することも必要になる。
しかも、コロナが一過性ならばできる方法とウィズコロナ時代では出来うることは変わってしまう。今までとこれからは同じではない。
環境と状況が異なれば、アプローチも変わる。自然淘汰されないで生き残れるのか?我々は問われていく。おそらく正解はない。むしろ、正解をつくるになる。そのために必要なのは、欲望のコントロールであり、都合でものを見ない。冷静な分析ではないか?と思われる。