ウォーキング
近頃、ウォーキングをしている。そのおり、コテンラジオを聞いているのだが…今朝はマルクス・エンゲルスの回を聞いていた。
マルクスが新聞の編集者となり、社会と向き合うなかでヘーゲル左派の理論だけの批判を嫌うようになる箇所を聞きながら…日蓮聖人もそうだったのかもと感じた。
認識を変えることを考えたヘーゲル左派、それでは社会は変わらないと考えるマルクス。啓蒙思想が思想・イデオロギーベースからの改革だとすれば、マルクスが考えた唯物史観とは生産力、生産関係が社会を動かす言動力と考えたものである。頭に基ずくのか、実生活に基づくのかの関係ともいえるのかもしれない。
これって仏教の認識の変化、メタ認知を求める仏教、それでは救われないと考えた日蓮聖人とにていないだろうか?
仏教は基本的に認識の変化により、苦を超えることを求める。しかし、それでは、虐げられている民衆の生活は変わらない。理論上救われると言っても、実生活は戦争、飢饉などにより牛馬は巷に倒れ、人々は死んでいく。それ故に、日蓮聖人は為政者の精神構造を変え、実社会の改革を目指した。
理論より実践を求める宗教であったのであり、インド発の仏教とは違う側面が見えてくる。此処まで言うとどちらかが良くてどちらかが悪いという。単純な判断をしてよいのであろうか・・・
おそらく二項対立で考えるべきではないと個人的には思う。認識を変えることで苦しみが止む場合はあるし、マインドフルネス瞑想や禅などで精神的安寧を得るもあるだろう。しかし、食い物や身の安全がはかれなければ結局この世では地獄をみることになる。精神的世界のバックボーンとしての社会の安全性を求めたともいえる。
個人的には、どちらが善でどちらが悪という考えではなく、メタ認知するならその間で平衡を求めていくことを求めていくことが必要なのだと感じる。
ちなみに、松本紹圭さんのテンプルモーニングラジオで現代にもし日蓮聖人がいたら、あなたはなにをしたと思うか?という質問にわたしは、ジャーナリストと答えた。
奇妙な符号だが、マルクスは新聞の記事や編集を行う。すなわち現在のジャーナリストに相当する。そこからヘーゲル左派批判に展開していく、空理空論をもて遊ぶのではなくて、現実を重視したと言えよう。
そんな祖師が宗祖である我々はそこからどう考え生きるべきか?考え行動すべきなのだろう・・・考え深い。