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寂しさは共に生きるもの
昨日、久々にサウナに行った。
自分があの人のように生きたいと願い、ゲイであることを自分の中ではっきりと認める決心をすることにつながった、あの人はサウナが好きだった。
最初はその人に話を合わせたくて通い始めた。だんだんとサウナの良さを知って、彼はもう自分の世界にはいないが、それでもたまに通っている。
彼のことが好きでたまらない頃、どうやったら彼と話す時間を持てるか、今よりも少しでも近い距離になれるか(友人になりたかった)、そんなことを昼夜考えていた時期、サウナにこもっている約10分間も、その後の空を眺める外気浴の時間も、そのことが頭から離れなかった。苦しかったし、愛を成就できない寂しさもあった。
昨日、寒空の下、サウナ椅子で寝そべっている時、久々にその感情を思い出した。胸がキューっとなるような感覚。
寂しかった。涙も出てきた。
ただ一方で、こうも思った。
おそらくこの感情とは一生の付き合いなんだろうなと。そして、きっと自分だけではなく、誰もが何かしらの寂しさを抱えている。
それでも日々を歩んでいくしかない。ありがたいことに、この寂しさを紛らわせることが、日々の中にはある。仕事や趣味や友人との付き合い。
そのどれもが、この辛い感情をゼロにはしてくれないけれど、一時的に忘れさせてくれる。
そうやって誰もが生きているのだと思う。
人は基本一人なのだ。
配偶者や子どもは持ったことがないので、わからない。ただ姉のことは頼りにはしているが、それでも自分の人生は基本一人で生きていくものであることに変わりはない。
一人だけれど、でもいろんな人が、関係性の濃淡はあるけれど、少しずつ助けてはくれる。
一人であることを受け入れて、それでも助けがあることを理解しているのと、本質的に救われることを他人に求めるのは違うと思う。
自分の感情もコロコロ変わるので、そこまでの自信はないが、そのことに少なからず気づけたことは、自分の中で大きな変化だと思っている。