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なぜ生きねばならぬのだ

ここは水の惑星といわれる地球にあって、うしお巡る太洋は、ひろつ流れ海の、しかも赤道の真下である。
はてさて、いまし、蛇神の護る島々のひとつ、ラボーレ島に基地をすえしあしかび国の、農民あがりの兵士、喜平に目を向けよう。

喜平は、火砲隊に属する兵士であり、戦に加わったときはよわい40しじゅうを超えるところであった。その戦はもはや5年目に入った。兵でいえば「古兵こへい」と呼ばれる古株である。
その喜平あわれにも、乗っていた輸送船が沈められ、ひろつ流れ海をいま漂っている。

そもそも喜平が漂わねばならなくなったきっかけは、喜平をはじめ2,00人近くをのせたあしかび国の輸送船が、hyutoposAMERIGO(アメリゴ)国の潜水艦の「魚雷」に沈められたからだ。

魚雷が船に命中するや、看板にいた喜平は、とっさに暗い海に飛び込んだ。
沈められたのは、巨大なくじらのごとき船で、真夜中過ぎであった。幸いなことに、喜平は救命胴衣を身に付けていた。
巨体が海中に没するとき、船の重さで生じる大きな渦に巻き込まれぬよう、喜平は、なるべく船から離れた。
その時であった。輸送船は、真っ逆さま、さまざまなものを飲み込むように、大きな波とともに沈んでいった。刹那、「終わった」と喜平は観念した。
波が鎮まったころ、真っ暗な海のあちこちで、助けを求める声がしている。
「おお、わしのほかにも、生きているものはいるぞ」
喜平も、ともに輸送船に乗り込んだ5人がいないか見回した。

通信を担う若い幹部候補生の工藤幸一の姿は? ない。
「そういえば、工藤は泳げないといっていた。では立花は?」
船で出会ったばかりの同年代の火砲兵、立花栄二の姿も見当たらなかった。
立花は、喜平と同じ隊ではなかったが、喜平の幼なじみの中島金治の最期を語って聞かせてくれた。
蛇神大島で玉砕した壮絶な金治の最期、それに比べ死ねずに「生」をひろったものの後ろめたさ。立花は生き残ったゆえの、複雑な思いを正直に喜平吐露とろした。
喜平は、立花に己の姿を重ねたのだった。
それは、もうほんの少し前のことだった。
「だれかいないか」と喜平は声を出して、呼びかけたが、暗い海の上では見つけることができない。

つかず離れず輸送船を護っていた、駆潜艦くせんかんが、海に浮かぶものたちを遠巻きに航行している。
駆潜艦は、小さな船ゆえ、浮かんでいるものをすくいあげることはできない。
何人くらいが漂っているのかを見極めると、駆潜艦は去っていった。それは救助のための大きな船を連れてくるためで、むろん兵たちは、それを知っている。
喜平は、これまでひろつ流れ海を何度となく行き来した。ときに嵐にい、船乗りの口癖「板子いたこ一枚したは地獄」の恐怖も味わった。が、今回、船が沈み、はじめて「地獄」を知った。

わだつみの神べるといううしお巡る太洋。それは、限りなき広さと底知れぬ深さをもつ。
そして、たとえでなく本物の鮫がいる。いま、血のにおいを嗅いで、鮫は目覚めたはずだ。
そんな海を漂う心細さよ。
どうやらともに航行していたもう1隻の輸送船も沈められたようだ。
海上は、沈んだ輸送船の残骸がいろいろ漂っている。
船室にはいるための扉、ハッチ。ドラム缶。そして、ドラム缶をのせていた「すのこ」状の板。喜平は、流れて来た「すのこ」をつかんだ、そして力をふり絞ってい上がった。それは、かっこうのいかだになった。喜平は、「筏」に乗って初めてあたりをうかがう余裕がもてた。

天に星があふれている。頭上に白く帯のように掛かっているのは天の川だろう。そのなかに、すっかり見慣れた十字星がまたたいている。そして、下には点々と漂う黒い影、ひとの頭だろうか、浮き沈みしている。
船の残骸につかまっているもの、救命胴衣を着て頭だけ出すもの。
喜平は、救命胴衣のほかは、軍服がわずかばかり残っている程度で、裸同然だった。
「はだか? もしや」と思い、胸に下げた護り袋を確かめた。
それは、たしかにあった。
「良かった」
手でにぎりしめる。

命が惜しい、ゆえにすがるものがあればわらでもすがる。
これは命あるものとしてあたり前だ。
「のせてくれ」
喜平の乗った筏にひとの手が、次から次とかかる。
喜平は、反射的に、その手を払いのけた。
ひとをのせれば、その重さの分、筏が沈む。
「だめだ、お前をのせると沈んでしまう」
喜平は叫んだ。
手を払いのけたものは、まもなく海底に沈んでゆく。
「すまぬ、堪忍かんにんしてくれ!」
ここでは、軍隊の序列も先輩後輩も何もない、もちろん、どんな国に属しているかも。
生きるためならば何でもする。喜平はそんな己を呪った。そして、助けを待ち、漂った。

小さな筏の上にいると波の揺れがもろに身体に伝わる。波にもまれているうちに、酔ったのか、喜平は気分が悪くなり、吐いた。
1度、2度……。海水がどっと出た。そのうち、吐いても出すものが無くなった。
赤道近くとはいえ、海水に浸かったせいか、体温が奪われ、身体が震える。
己のかいなで身体を抱え、丸くなった喜平。意識が遠のいていく。
「救助船はまだか」
がたがた震えながら、喜平は祈った。

眠ってしまったのだろうか。夢が現れた。
「眠ってはだめだ」
喜平は己を奮い立たせた。こんな状況で眠ることは死を意味する。しかし、夢は消えない。

喜平さん、き・へ・い」
目の前にふくよかな女が現れた。
妻のつねに似ている。
いや、あれは最近どこかで見た顔だ。
「高山国の看護婦、さえさんだったか?」
女の顔の周りをぼおっと光が取り巻いている。
「なんだかとても良い心もちだ。いまならすっと眠って死ねる」

「お父ちゃん……」
女の顔は小さな童になった。おかっぱ頭、頬がまっかな女の子。
「靴ありがとう、これ何色?」
「見えんのか? 赤だよ、刺繍があって金色だ、きれいだろ?」
童は、喜平が高山国で買った赤い靴を手にしている。
「おまえは、早穂だな? 早穂、会いたかった。かわいいなあ……」
喜平は、女の子の顔へと手を伸ばした。が、顔に手は届かない。ぶらりと力なく垂れ、自分の顔を手でぬぐう形となった。
海水か、それとも涙か。冷たかった。
わしは、まだ生きている、だから冷たいんだ」

そんなことを考えた次の瞬間、童の顔は女神に変わった。
「おお、あなたは高山国で拝んだ女神……、たしか姚光子(ヨウコウシ)さまだったか」
女神は喜平に手を差し伸べてきた。そして、ほほえみ、喜平の頬にふれる。やさしく包みこむように。
姚光子さま」
その時であった。頬に猛烈な痛みが走った。
「いたっ!」

喜平の前から幻影は消えた。目を開けると、海原を真っ赤に染めて、大きな太陽が昇ってくる。
喜平はもう一度頬をおさえ、痛みのありかを探り、想い出した。
「小さき神……か」
喜平さん、おはよう! なんてかっこうだい」
それは、ことのはを風に伝える神、ほのほつみの声であった。
「また、おまえに生かされたな」
「ふふふ、今度は船の導き神、姚光子さんもいっしょだよ。もう少しの辛抱だ」
「そうだな、わしはまだ死ねぬ、生きよう」
喜平は、腕を支えに筏に身を起こした。

その時であった、水平線の向こうに大きな船の影が浮かんだ。
「救助船だ」船体にロープで組んだはしごが垂れるのが見える。
喜平は、筏を離れ、最後の力を振り絞って、救助船のはしごまで泳いだ。
波が高く、船は見え隠れするが、やがて鉄の壁が目の前に迫った。
「えい」とはしごをつかみ、昇る。
わしだって米一か月分を背負って昇ることができたんだ」
己に言い聞かし、最後の力を振り絞り、はしごを登ってゆく。
「がんばれ、もうひと息だ」
船の上から手が出て、喜平の手をつかみあげてくれた。
倒れこんだ喜平に毛布がかけられた。
「油臭いな……」
喜平は毛布にくるまり、濡れた護り袋をたしかめると、ぎゅっと強く握った。

【語りかけるもの】
ちらちら ちらちらと まぶたに語りかけるもの
なつかしく くすぐったい 朝の陽
遠く 鳴き交わす 鳥の声
とんとんとんと もの刻む音
そろそろ ご飯炊けたかな

もうどれくらい眠ったのだろう

ちらちら ぽつっと まぶたに語りかけるもの
いたずら好きで やわらかな あなたの指
やさしく くるおしい あなたの唇
温かく 濡れる あなたの涙
そろそろ 起きるからね 

まぶしく きらめく陽のなかで
身を起こす私のために
ふくよかなかいなで支えておくれ

・叙事詩ほのほつみ の物語のあらましは、こちら


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