ローマ歌劇場「椿姫」。これぞ総合芸術だと全身が喜びに震えた_2023年9月16日
あまりにも素晴らしい「椿姫」を体験し、これぞ総合芸術だと全身が喜びに震えた。これからしばらくは椿姫を見たくない。これを超えるものにはなかなか出会えないだろうから。
ローマ歌劇場「椿姫」。圧倒的な美しさに涙が溢れ、四幕では嗚咽をこらえねばならないほどだった。会場を出てもしばらくは涙が止まらなかった。
ソプラノのリセット・オロペサの歌唱力と、まさに目の前にヴィオレッタが実在していると確信させる、繊細で豊かな表現力。
才能を存分に発揮していた、フランチェスコ・メーリの立体的な甘いテノール。
本作が「歌劇」であることを実感させてくれたオケの音。舞台上に現実世界を立ち上げた、その他の出演者たちとソフィア・コッポラの演出--。
控えめに言っても最高のオペラだった。
■まるで天界と現世をつなぐ階段。回想であることの視覚的イメージ
私は新国立劇場で見ることが多いので、椿姫の冒頭といえば、回想であることを示す、実在するヴィオレッタの顔が映し出された薄いヴェールがかった舞台。序曲の終わりとともにヴェールが上がり、現代のパーティ会場で物語が開始する、という演出に慣れていた。
しかし今回は、舞台の中央に配置された真っ白い大階段が目に飛び込んできた。序曲の進行とともに高いところからヴィオレッタがゆっくり降りて来る様は、すでに天に昇ったヴィオレッタが現世であるパーティー会場に戻ることで回想のイメージを伝えてきたように感じられた。
先日見た「パレルモ・マッシモ劇場」の椿姫では、初日だったこともありフランチェスコメーリだけが目立っていたが、今回は彼が才能をいかんなく発揮して、オケやソプラノとのコラボレーションを楽しみながらのびのび歌っている気がした。
私の目当てはフランチェスコメーリだったが、彼はもちろん、リセット・オロペサの才能の豊かさと実力に圧倒された。また、オケと歌手が対等で、ともに互いの音を活かして「歌劇」を作り上げているのが分かったのだ。
■声の響かせ方で、言葉に隠した本当の感情を訴求してくるソプラノ
思えば、こんなにも字幕を見ず、声の響きに身を委ねたことはなかった。
それほどリセット・オロペサのソプラノは、声の響きで言葉に隠された本当の感情を訴求してきたのだ。そして、オケの音や世界と完全に調和しながら、声が消える瞬間までその輪郭を保っていた。
一幕、アルフレードの告白を受けた二重奏「幸せなある日、天使のように」では、言葉でこそ愛を拒みながらも、テノールとソプラノの声の絶妙なハーモニーで、すでに二人の心が通じていることがありありと伝わってきた。
続く「おかしなことだわ! おかしなことだわ!」におけるヴィオレッタの「JOY!」という歌声を、私はこれまで彼女が自分にかける発破だと思っていた。けれど今回は、己を含む世界の変化に怖気付くヴィオレッタの悲鳴に聞こえた。
そして、ベルカントの揺らぎはとても立体的で、高級娼婦の職業的理性と個人の恋の芽生えとの間で揺れる、彼女の心のように聞こえた。
二幕で、アルフレードの父親に別れを迫られた時の「なんてことを!(おっしゃるの)」と悲鳴を上げる箇所も、一幕の「JOY」と同じ響きが私の胸を突き刺した。
その後、アルフレードに別れを告げる悲しみを胸に、自分を愛しているかと何度も確かめた二重奏「『なにをしていたの?』『なんにも』」でも、声は懇願するようなか細くも強い響きで、聞き手の感情がかき乱されるようだった。
特筆すべきは四幕、「さようなら、過ぎた日の美しい喜びの夢よ」。病床でアルフレードを待つヴィオレッタの、伸びやかな高音の透明さだろう。
彼女自身が発しているにもかかわらず、その声はどこか遠くから聞こえてきて彼女の胸に届いたような響きで、過去と現在をつなぐようでもあり、天からの声のようでもあった。
オロペサはヴィオレッタそのものだったと思う。
歌唱はもちろん視覚的な演技も素晴らしく、たとえば、窓の外から聴こえる謝肉祭の楽しげな歌声を頼りに、窓際まで身体を引きずっていくヴィオレッタ。そして窓辺で祭りの風景を眺める彼女は、衣装や朝日(照明)の効果と相まって、すでに半分透けているように見えた。
「道を外した女」と過去に対する自責の念に囚われながら、せめて命がつきる瞬間だけは楽しい光景を目に映していたい--。
それは、声に出さないだけで、アルフレードの愛を何度も確かめた二幕の二重奏と同じ、祈りという名の懇願であるように見えた。
■衝撃を受けたアリア「これは過ぎた日の私の肖像です」。
ヴィオレッタの心音のようなオケの演奏。
オーケストラの演奏もエモーショナルで、これまで何度も聴いてきたメロディがまったく違う音楽に聴こえた。それは作品の本質を僅かも損なうことなく、むしろ本質を生々しく伝えて来る。
その表現は曲の中でも同様で、同じフレーズを繰り返しながらそれぞれ違う印象を与える演奏だった。すべての音作りに指揮者ミケーレ・マリオッティの手腕を痛感し、こう言ってはおこがましいがと先に断りたいくらい、心から脱帽した。
たとえば二幕でアルフレッドの父親が登場した場面は、不穏な音楽に聴こえた。現代の映画でいえば、まるで「スターウォーズ」のダース・ベイダーの登場を思わせる迫力で、こんな演奏は初めて聴く。
衝撃を受けたのは四幕、「これをお取りになって、これは過ぎた日の私の肖像です」だ。
ヴィオレッタが遺言を語っている時のオケの演奏が、まるで彼女の心音のように聞こえたのだ。
過去に聴いた同曲では得られなかった発見で、ヴィオレッタの歌唱は続いていても、オケの音が止むだけで「命が尽きたのではないか!?」と緊張が走った。
■大きなベッドに枕を並べ、片側に眠るヴィオレッタ--。
恋人の幻影にすがる姿を一瞬で伝えた、ソファ・コッポラの演出。
ソファ・コッポラの演出も、映画監督の才能が余すことなく発揮され、作品の世界を現実として着地させる効果が大きかったように思う。
二幕の田舎の屋敷は開放的なサンルームで、外には山岳風景が続いている。これだけで、二人が暮らす地が山奥であることに実感がともなった。
三幕のパーティー会場では、バルコニーの外に広がる夜空に花火がいくつも上がっては消え、パリ市街の屋根々々を染める。その光景は華やかさにも、儚さにも感じられた。
とりわけ四幕のヴィオレッタが伏せっている寝室が切なかった。
今まで見てきた椿姫では大きなベッドの中央に1人で寝て孤独を表現していたのに、今回は枕を二つ並べて、片方のスペースに寝ている。
--もう何年、彼女はアルフレードの幻影にすがって生きてきたのだろう?
咳きに苦しみながら傍に寝返りをうつとき、まるで見えないアルフレッドにしがみついているように見えた。
こうした目に映るもの、見えないもの。聴こえるすべての音と聴こえないすべての間が、実に細部まで世界を構築していた。
大袈裟でなく、私の人生はローマ歌劇場の「椿姫」を体験した前後で変わったと思う。
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