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紹介状
副鼻腔炎から来るものなのか、左の歯一帯が「面」として痛く、日によっては就寝も妨げるほど。そもそも昨年の副鼻腔炎ピークのときは、歩くこともままならいほどの歯の激痛だった。
その痛み、辛さの起源は歯の根っこから、最近が副鼻腔に侵入することによる炎症なのか、つまり、耳鼻咽喉科からすれば外的な要因なのか。あるいは、喉や風邪、アレルギー鼻炎に由来する内的な要因なのか。ここ1,2週間は大通を挟んで南北に位置する、歯科と耳鼻咽喉科を行ったり来たりした。
歯科で痛み止めをもらったが、その後も痛みが治まらず、早番薬が切れそうだったので、耳鼻咽喉科で早めの診断。レントゲンを撮ってもらうと、意外にも副鼻腔炎の症状自体は緩和されていた。その自覚はほとんどなかった。いまだに嗅覚はほとんどないし、味覚はリモートワークが続いている。「美味しいらしい」という感覚が、遠くの方に朧げに見える感じ。
昨日は自分にとっての地元である鍼灸院に、大雪の中、久しぶりに出かけた。先生も年末年始はコロナ及びその後遺症(病院に行けなくて、自らの判断)で味覚嗅覚がなく、大変だったらしい。「リモート」の感覚を治療しながら分かち合った。その対話の途中に、今の仕事場の近くで、身体を外側から破壊・創造し、内側のこりをほぐすような強い整体に出会ったと話した。
その話を受けて、先生は、ただ強くもみほぐすことが根本的な治療に繋がるかは分からないと私に告げた。整体も鍼灸もあくまで「商売」である。顧客を取られれば、それだけ売上(生活)に響く。強整体の先生も、根本から治療する院と、脳への刺激を麻痺させて一時的に楽にするところがあると言っていた。最終的に選ぶのは自分自身だ。
ただ、身体の調整を生業としている鍼灸や整体は、商売だけでは組み尽くせない社会的価値がある。なんだか、観光と似ている。どちらも、ビジネスから逃れる知性・技術だからこそ、ビジネスの格好の餌食である。
(鍼灸の)先生は、鍼灸院に依存してもよくならない、患者自体が自律的に体調をよくする姿勢やパフォーマンスをしなければ、いつまでたっても根本的な快方へは向かわない。鍼灸院は儲け続けられるかもしれないが、患者にとってはよくない。そんな話を真摯にしてくれた。大雪の中、先生が体調不良だったこと、鍼灸院と商いの関係について対話は続いた。
その中で興味深かった話が、経済力がある人は、セルフケアできるようになっていくので、鍼灸院に通わなくなるという話。無印良品よろしく、「丁寧な暮らし」はお金がかかる(のか?)。そして、本当に体調が悪く困っている人は、そもそも日常に困難を抱え続けていて、なけなしのお金で鍼灸院に通う。しかし、一時的に体調は快方に向かうが、日常自体を変えることは出来ないので、また鍼灸院に通う循環にはまり、いつまでも根本的には治らない。そこには、現代の格差が顕在化している。そんな話をした。
鍼灸院も今は「自律神経」というマジックワードを掲げれば客は来るが、いずれは、今本当に治療を必要としている人が通えなくなり、財力がある人はそもそも通わなくなるという事態になる可能性は大いにあるとのことだった(先生も自らが教えを乞いてる先生からその話を聞かされ、ぎくっとしたそう)。
それは、本当に恐ろしい社会(社会など存在しないような社会)だし、実際にはもう到来している。自分も当事者の一人だ。もうデモしましょうよと半ば本気で先生に行った。そんな熱い対話を繰り広げていくうちに、約1時間の時間は過ぎていった。
その中で、鍼灸院も、喫茶店の常連客のような存在を増やすことが重要という話になった。社会の比較競争原理に左右されない、その場所に通うことがそれだけで価値を持つこと。毎週通わなくても、たまにメンテナンスも兼ねて通う場所。秘境の温泉地のような場所。帰るときには、また通いたくなっている自分がいた。
話を副鼻腔炎に戻そう。今日は朝から札幌駅北口でCTスキャンを撮り、改めて耳鼻咽喉科で診察を受け、その画像と歯科の先生へのお手紙が封入された封筒を受け取った。その宛名には「御机下」という文言が添えられていいる。医者の紹介状や手紙は、当事者は開封しない状態で、次の先生へと手渡しする。ここには、「まちのかかりつけ医としての研究工房」をイメージするhomeportのヒントが詰まっている気がする。私の真摯な訴えに耳鼻咽喉科と歯科の先生(研究者)は真摯に応答してくれて、この大事な郵便がつくられた。だから開封しなくてもそこには確かな信頼がある。明日の仕事終わりに、私はまた大通へ向かい、この手紙を配達する。