最後に書いたのは12月でしたね。 私は錠剤をのみ自殺未遂まがいの事をしましたが、あの後数週間勉強ができず放心状態が1週間と少し。 また勉強を始めてからは2時に起床し働き勉強をするという日々を過ごしました。 そして1月、合格しました。 試験中は沢山勉強をしたお陰か、落ち着きながら進める事が出来、余裕をもって合格した。 やっと勉強から解放される。 そして1月、仕事を辞めた。 おいおい、どうしたんだよ、大丈夫か。と思われそうだけど、 私は前職を元々二年で辞めると決めていた。 その前
こんばんは。 皆様は、自分の人生を自分の意志により終始点を打とう。 そんな風に考えたことはありますか? また、それを実行しましたか? 私は三月から、勉強と仕事を両立してきました。 実家に帰る時も、私は飛行機の中や家族が寝静まった後。 恋人とデートに行く前や行った後、 本当に一日も休んだことがありませんでした。 まず私は秘書検定の資格を受けました。 確か四時ぐらいに起床、朝勉というものをしはじめた。 同時にメンタルヘルスマネジメントについても勉強していた。 秘書検定はあっさ
それは突然の事です。 いえ、もしかしたら予兆というものがあったのかもしれない、私は気がつきませんでしたが。 数週間前の事、私には恋人ができました。 少し変わった方でした。 私は彼の名前を片仮名でしか知りません。 それ程に私は彼を知りません。 なぜそんな方が恋人だったのか、という疑問は追求しても意味がありません。 彼が何をしているのか、そんな事も知りませんし 今となっては彼の年齢や家族、恋人の有無も確かではありません。 ただ彼の口癖は知っています。 彼の好きな事も知っています
僕は脳に酸素がいかず確かな苦しさを感じながら頭がくらくらとする妙な快感に安心して眠りにつく。 徐に一本のひもを手に取り首にかける。 それを交差させ僕の力最大に引っ張るとその快感は得る事が出来た。 上京して何年の月日がたった時だろうか。 僕は死と生の狭間にいた。 気づけば真っ暗だったんだ。 雑踏の中をかきわけ予定通りのバスに乗り次に電車に乗る。 ヘットフォンをし、周りの音を遮断し携帯を開く。 何の情報にも興味がわかない。 ただ僕はひたすらに死について検索し続け、その度に出て
私の孤独という意味での独りは、誰かにより埋められるものでもなく埋めたいものでもない。それは侵食だ。
冷たい風が僕の身体を通り抜けていく。 煙は白息と混じり合い、僕は君を抱きしめようと手を広げてみたけれど 僕の手はすり抜け、その刹那どうする事もできない虚無感に襲われるだけであった。 世に執着する君と 死に執着する僕、 生きているのはどちらなのだろうか。 僕は君に触れたいだけ
自分の感情。 私は母と色んな話をし、 いつからか自分の感情が死につつあった。 いや、蓋をしつつあったという方が正確か。 要は、相手がこう思うであろう言葉を察し相手が言いそうな事をあたかも自分の意見のように伝えた。 母がそう仕向けたのではない。 私がそうしたいからしたんだ。 だけどそれは反抗期という形で歪なものに変わり 私はそれが終わる頃 伝え方を変えた。 「あなたならこう考えるかもしれないけれど、今の私はこうしたいと思っている」 「これは解決したいというより話を聞いてほ
私は母と深い話をする事を避け 家ではあまり話さなくなった。 反抗期という言葉で片付ける方が自然かもしれないが、それはあまりにもざっくりとし過ぎていて好きではない。 その言葉は後付けぐらいが丁度良いのではないか。 私は中学3年生になった。 中学2年生の頃仲良かった子と同じクラスだった。 だけどその子には1年生の時に仲が良かった子がいて その子も同じクラスだった為 私はその輪には入らず自ら1人になった。 なぜそうしたのか、 確か何か決定的出来事があったはずなのだが思い出せず正確
中学2年生、私はいらないプライドを捨てるという 割と簡単な方から意識し、(本質は理解していない) それはイジられるという分かりやすい結果として現れた。 程よくというのが分からなかったのもあり 相当なイジられ具合だったような気がする。 だけど私はヘラヘラとし続けた。 クラス替えもしたが、やはり最初は居心地の良いものではなかった。 それでも私は変わりたかった。 この面白い程に嫌われている状況を変えたかった。 そしてそれはクラス替えをした今しかない。 「嫌いな人に嫌われたくない
これまで順調に、毎日投稿してきましたが やはり行き詰まってしまった。 それは私の後悔は中学に詰まっているからです。 だけどこの時期がないと今の私はいないと断言できる程に大切な時期でもある。 中学入学した頃と卒業する頃とでは私は別人のように性格も何もかもが違うので どう書けば良いのやら、私にはやはり難しいものです。 「お前ら一生笑うなや」 これは一軍女子グループ6人(ぐらいだったかな)に呼び出され私が最後に言い放った言葉。 次の日から笑えなくなったのは勿論、私です。 あ
私の家の構造は少し変わっていて、 隣の父方の祖母の家と屋上が繋がっていて、 家自体は完全に別なんだけど 2階から屋上に行く階段を突っ切れば祖母の家の2階にそのまま行く事ができた。 そこには曽祖母と祖母、たまに父の妹がいて ある時曽祖母が入院した。 きっかけは転んでしまっただけで 体が悪かったわけではない。 曽祖母は耳が遠く、私は話しかける時口を大きく開け、ゆっくりと出来る限り大きな声で話す。 何かある度に「ありがとう」と言う 本当に優しい人だった。 転んで入院していたはず
「人に期待をするな」 (私の6%の続きです) 私はさきちゃんの話をした。 なぜあんなに酷い事を沢山それたのに それでも一緒に遊ぼうと必死になるのか理解ができない、と。 そして私はついでかのように、 私にあんなにベッタリとついてきていたのに、 話しかけなくなったし、避けられている。と付け加えた。 母は少しの沈黙の後見返りを求めてはいけないと言った。 人に期待してはいけないとも言っていた。 なぜそんな事を言われなければならないのだろうかと、 腹が立つ気持ちが、無意識の間にも
私は共働きになるまで父との思い出があまりない。 本当はあったのかもしれないが覚えていない。 それも、生活スタイルがまるで違ったからだ。 父は夜中に帰ってくるため私は眠っていたし 私が学校に向かうとき父は眠っていた。 母は父の事を大切に思っていたから 私はあまり知らない父を嫌いになる理由もなく、同じく大切に思っていた。 だけど、実際に生活してみると私は父とのコミュニケーションの取り方があまりわからず 口数の少ない父との会話は母との会話の五分の一にも満たないものだった気がする
小学3年生、両親は共働きになった。 独立して自分の美容室を建てたんだ。 それまでは母が1時までパートに出ていたが、私が学校から帰る頃には家にいた。 休日は姉がいて、 午後1時になると母が帰ってくる。 なのにある日を境に小学校から帰ると誰もいなかった。 姉とは二つ差のため、私の時間割と違い 私の方が早く帰ってくる。 それでも前よりは必然的に姉と過ごす時間が増えた。 私は姉が苦手だった。 母がいない時の姉はとても怖かった。 帰ってくると優しくなるのだけれど、 私は切り替えがうま
「最後は温かい握手を」 母は私を強く叱った後1時間ほど、 いやもっと長い時の方が多かっただろうか 私が泣き止み、冷静になった頃合いを見て話を始める。 言葉足らずな部分に対しての補足や 真意。 これからどうしていくのか、についても。 私はこの少し面倒な時間が嫌いではなかった。 そして最後に母の大きな手と私の小さな手を重ね合い 握手をする時間がたまらなく愛おしかった。 とても強く叱られてしまった時は、もう許してもらえないのではないか。 見放されてしまうのではないか。 この世の終
「どうして泣いているの?」 私が覚えているのは小学生低学年からの記憶だが おそらくもっと小さい頃から母は私に問いかけていただろう。 小さい頃は私が泣き虫だった事もあり 叱られた時に泣かなかった事は一度も無い。 これは大袈裟な表現ではなく、 事実でしかないんだ。 そして泣いている私に母から毎回発さられるものがある。 それは「どうして泣いているの?」という言葉だ。 これに対し 「ごめんなさい」と返す事はご法度だ。 最終的に辿り着いた答えは 「理由は自分でも分からない」というも