PERCHの聖月曜日 108日目
名和は大正九年に自信ありげに日本に帰った。ブリューゲルやボッシュなど北欧中世のリアリズムを学びとって、ユニックな芸術を創始した。それは見事な名和薛治の完成であった。芦野の懼れていたことが、彼の意思に関係なく、着実に現実となったのである。彼は名和の従僕を意識した。名和の大きな面構えが彼の上に聳えていた。名和によって画家的生命を廃墟にされた彼は、憎悪をもってこの友人と三日にあけず往来していたと私は思うのである。
憎しみは、妻と名和との交渉を知ったとき変貌を遂げた。意識下の劣弱感にそれは接着して、陰湿だが、名和への襲撃となった。
私は改めて彼の「名和薛治」を読み返して、至るところに彼の戦闘を辿ることができた。例えば、妻と別れたであろう後も名和を頻繁に訪ねている。妻との離別の理由は、恐らく彼は名和に告げなかったであろう。その必要が無いためで、当人の名和がそれを誰よりも承知しているからだ。私は芦野と向かい合っている名和の苦渋に満ちた表情が想い浮かぶのであった。
年譜によれば、名和が青梅の奥に百姓家を借りて引込んだのは昭和二年である。名和の青梅転住は芦野による美術的な理由が書かれているが、それは表面の意匠だ。実際は芦野の来訪から名和は遁れたかったのである。
ーーー松本清張『装飾評伝』筑摩書房,昭和三十三年,p29
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