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『父の恋人、母の喉仏』──プロローグ全文公開(期間限定2025年4月末日まで)

3月19日に出版する『父の恋人、母の喉仏 40年前に別れたふたりを見送って』のプロローグと第1章の1話を、期間限定で全文公開したいと思います。まずはプロローグから。

プロローグ──リビングに並んだ仏壇と祭壇


 鎌倉から京都に越してきて、もうすぐ三年になる。住んでいるマンションは南向きのメゾネットタイプ。階下は暗いが、上階のリビングダイニングには陽が燦々と差す。
 その光のさなか、上下は本棚として利用しているメタル製スティールラックの真ん中に、四十年以上も前に離婚した両親の仏壇と祭壇が隣り合わせで置いてある。
 右が母の仏壇。もともと母本人から譲り受けていたもので、先祖代々の位牌や母の写真が並んでいる。左は父の祭壇。といっても小さな宗教画っぽい油絵の前に、喉仏の入った小さな骨壺と父の写真を飾っただけの簡素なものだ。
 私は毎朝、双方にお水を供え、仏壇の蝋燭に火を灯し、二本の線香を焚く。そして、りんを鳴らし、「お母さん、おはよう。お父さん、おはよう。今日も仕事、頑張るね」とかなんとか言う。
 人によっては、なかなかシュールな光景かもしれない。本人たちだって、死んだあとで娘の自宅のリビングに仲良く並ばされるとは、よもや思ってもいなかっただろう。

 父は石川県金沢市に生まれた。母は静岡県下田市の生まれだ。
 年齢差は五歳で、それぞれ建築設計士と舞台女優の卵として、二十代のときに東京で出会い、結婚して金沢に移り住み、三人の子をもうけた。私はそのうちの長女で、下に二歳下の妹、三歳下の弟がいる。
 だが、私が小学四年生のときに、ふたりは離婚した。
 母は三人の子を引き取り、新宿・歌舞伎町のクラブでホステスとして働いた。子どもを大学に行かせたい一心で、それはもう懸命に。だから私にとって「ホステス」は、尊敬こそすれ、疾しい職業ではなかった。なんなら二十歳になってすぐ、母の働いていたクラブでアルバイトを始めたくらいだ。賢くて、情に厚く、涙もろく、私と違ってとっても真面目(シリアス)な人だった。映画と演劇と小説を愛し、後年は自ら文章を書き綴っていた。
 父はというと、母と離婚後に数人の女性遍歴を経て、再婚、離婚、再婚と繰り返し、三番目の妻とは三十年続いたが、脳梗塞を患ったことが災いして晩年に離婚した。母への仕送りは、ほぼゼロに近い。仕事的には設計のセンスはあったものの、経営者の器ではなく、「借金と女をつくるのがことのほか上手」と娘に言わせてしまう残念な男だった。だが、いわゆる人たらしというか、女性だけでなく、同性にも親戚筋にも「仕方ないな」「手を貸してやるか」と思わせる何かがあった。私の楽観的で適当な性格は、嫌というほどこの父に似ている。

 一般的には育ててくれたほうの親──つまり私の場合は「母」なわけだが、その親の介護や看取りにのみ関われば十分だろう。ところが、父が三度目の離婚をし、七十七歳にして独り身となったことで、私は父の見送りも手配する羽目になった。
 弟と協力して、可能なかぎり頑張った「母の看取り」。
 なんとかかき集めた情けから関与することとなった「父の見送り」。
 そのふたつの行為をそれぞれなんとはなしに綴るうち、私は自分が思いのほか、たくさんのことを記憶していることに気がついた。死にゆくふたりの中には、その数十倍の時間をかけて生きてきた、ひとりの女と男がしっかりと存在していた。
 そのふたりは、子の贔屓目はあるにせよ、だいぶチャーミングだった。私はほかでもない彼女と彼から、人を愛すること、人を許すことを、いつの間にか学んでいた。


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