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ムーさんのこと。

"ムーさん"こと、映画評論家・サトウムツオさんが亡くなった。先週の金曜日(3/1)、告別式で最後のお別れをしてきたけれど、なんだかやっぱり実感はない。

その週の月曜日(2/25)に"看取り"について書いたYahoo!ニュース特集の原稿がアップされたのだが、同日午後にマガジンハウスの食堂で倒れ、そのまま聖路加病院に運ばれ、亡くなったのだという。私の看取りの原稿は読んでないと思うけれど、とにかく自宅などでひとりで逝ったのではなかったことだけは良かった。

旅立ちを知ったのは翌日の16時ごろで、その日は誕生日前夜祭と称し、友人たちが20時から祝ってくれることになっていた。私はその時間までムーさんを知る友人たちに連絡したり、Facebookで情報収集をしたりしていた。友人たちと顔を合わせ、誕生日の乾杯とムーさんへの献杯を交互にするという、楽しくて寂しくてせつない夜だった。

以下は、自分の誕生日に書いたムーさんの思い出です。ムーさんとはクロノスで出会いました。クロノスのクロちゃんが逝って(つれづれ「シックスナイン集まる」に詳細あり)、ムーさんも逝って……。久しぶりにクロちゃんと映画談義に花を咲かせているだろうなあ。私もいずれ仲間にしてもらうから、待っててね。

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"ムーさん"こと、映画評論家・サトウムツオさんが亡くなった。昨日からいろいろなムーさんを思い出している。

出会いは25年前。当時私はSWITCH編集部のアルバイトだったか社員になったころで、クロノスという新宿2丁目のゲイバーでひとりで飲んでいて、声をかけられた。お互いに映画好きだし、共通の知人などもいて盛り上がり、連絡先を交換した。

本当に仲良くなったのは、15年くらい前。確かクロノスで再会し、そのあとに始めた異業種交流会ホーリーナイトによく参加してくれた。ムーさんはHさんやTさんという自分の年齢に近い同性の友人ができて、非常に喜んでいた。ホーリーナイトでは飲み会以外にも、花見や花火大会、ギタリストの友人によるギターコンサートや能楽師によるお能を見る会を企画したけれど、それらにも足繁く通ってくれた。家飲みも、誘えば予定がないかぎり来てくれた。

一度だけ、仕事をしたことがある。2008年に出版された、ジョニー・デップの写真集だ。クリエイティブ・デザイナーの山下リサさんがデザインを担当し、私は資料集めや校正などを手伝った。リサの事務所兼自宅に集まってものすごく細かい年表をつくっていたのだが、「カリブ海の小さな島に別荘を購入」というところを私は「カルビ海の〜」とタイプしてしまい、校閲からの指摘に3人で笑いこけた。リサが「さすが肉好き!」と言い、ムーさんが「ホーリーならカルビの海で泳ぎそうだよね」と言った。

たぶんこのころだったと思うが、ふたりで渋谷で映画を見たあとに居酒屋で食事をし、駅に向かってスクランブル交差点を渡っている途中で、「ホーリー。40歳になって結婚してなかったら、僕と結婚しようよ」と言われたことがある。私は「そうだね、40歳になっても独身だったらお願いします」と笑って返事をしたが、その実、「ムーさんと結婚しないためにも本気で婚活しよう!」と誓っていた(笑)。本当に表裏のない人で、映画に熱くて、ジゴロと駄目男の両面持った、可愛くて憎めない素敵な人だけど、「夫」にはまったく向いていなかったからだ。

実際のところムーさんは当時バツイチだったが、離婚した際に「自分が原因だから」と、別れた妻に家具やら電化製品やら1千万円の貯金やらを渡し、すっからかんになった、とちょっとだけ自慢げに言っていた。まったくムーさんらしい話だ。

そのころはまだ仕事も潤沢で、夜は絶対にどこかの飲み屋で飲んでいたのだが、そのうち映画批評だけで食べていくことは厳しくなり、ゴールデン街や新宿2丁目などあちこちの店でツケ払いをするようになった。ある店では出入り禁止となっており、店主に理由を尋ねると、「溜まったツケを払ってもいないのに、隣に座った女の子にお酒をおごったので、それも今夜のツケになるのかと思ったら頭来ちゃって」とのことだった。これもまたムーさんらしい話だと思う。

あるときは電話があって「いま、スタバにいるんだけどね。コーヒーを頼んだんだけど財布を開けたらお金がなくて。申し訳ないんだけど、1,000円、僕の口座に入金してくれないかな。今度返すから」と言われたこともある。正直ちょっと呆れたけれど、私も本業だけでは稼げなかったときに友人に飲み代をこっそりご馳走してもらったり、割り勘のはずのタクシー代を「ホーリーはいいよ」とさりげなく言われたりしたことがたくさんあった。誰かの密やかな情けや愛によって、みんなと普通に付き合うことを赦されていたのだ。しかも、私はムーさんが入院したときに忙しくてお見舞いに行けなかった。それで「お見舞いで渡そうと思っていた5,000円を入金するね」と言って電話を切った。

ムーさんは数年前にお酒が原因で慢性腎不全となり、透析を受ける身となった。すっかり痩せて、ゆっくりでないと歩けなくなってしまったけれど、それでも精力的に試写会に出かけ、ムック本などのアイデアをなんとか形にしようとしていた。そうやって頑張っていたのに、私はお金の貸し借りの件や、飲み会などでオレ話に終始してしまうムーさんに対して、ちょっと距離をおいてしまうようになった。脚の悪い中、ホーリーナイトにも来てくれたというのに、隣に誰を座らせようか思案し、「もうちょっとしっかりしてよー」という本音がそのままそっけない態度につながった。幸い私の友人たちはみな優しく、ムーさんの話を聞いたり笑ったり楽しんでいたのだが。

最後に会ったのは、昨年12月23日のホーリーナイト忘年会。10年前とはぜんぜん違っておとなしいムーさんを心配に感じつつも、自分の楽しみを優先した私は、二次会でビールを一杯ご馳走しつつ「最近どう?」みたいなことは聞いたけれど、ちゃんとした会話はしないままその日を終えてしまった。自分が優しい人間ではないことを痛感する。友達なら、仕事のことととか、病気のこととか、一度くらいはきちんと向き合って話を聞くべきだったのではないか。「悩んでいることとかない?」と飲みに誘うべきだったのではないか。こうして相手が天国に行ってから悔やんでも本当に仕方ないのだけれど。

訃報が届いたとき、私は驚きのほうが大きすぎて、涙のひとつもこぼさなかった。まずHさんに連絡して、どうやって情報を集めたらいいのかを相談し、そのあとFacebookに投稿した。LINEでもムーさんと付き合いのあった人に個別に連絡した。

そんな一種の高揚状態が過ぎ、友人たちのそれぞれの書き込みを読み進めるうちに、ムーさんとのいろんな思い出がどっと脳裏をかけめぐり、涙があふれ出た。涙が出たことで、「これは本当のことなんだ」と思った。本当にムーさんは逝っちゃったんだなと。

ムーさんのお葬式に行くなんて思わなかったよ。なんか行ったら、本人も喪服を着て、自分のために集まった友人や仕事仲間をいそいそと嬉しそうに案内してくれるんじゃないかな。もう一度、美味しいお酒を飲みながら、映画の話とかクロノスの話とか恋やら愛やらについて、ムーさんと話がしたいです。

*写真は2012年8月、工藤家サマーパーティにて。

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