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【カトリック信仰】「村上春樹ブーム」に対する最強の殉教者(エクソシスト)
『イクトゥス』(魚)を火炙りにする「村上春樹」に対してカトリック信仰の殉教者(エクソシスト)が聖戦を挑む物語!
村上春樹ワールドとは『イクトゥス』(魚)を血祭りに上げる仕組みがトリックだった
例えば村上春樹作品「羊をめぐる冒険」に於いて『鰯』と名付られた「猫」の意味とは『イクトゥス』(魚)は「弱い」とする象形文字(呪術崇拝から形成される偶像崇拝)を示していた。
そして同様に村上春樹作品「ノルウェイの森」に於いて『鴎』と名付けられた「猫」の意味とは「烏賊」(devilfish)を示している。
水産庁のサイトではイカに襲われる対象を「烏(からす)」としているが「海の鳥」であれば「鴎(かもめ)」の方が正解であるだろう。
この「烏賊」(devilfish)は「海の生物」であり「烏(からす)」とは「鴎(かもめ)」を示していると考える方が自然である。
「海の生物」は一般的に「devilfish」とされている。
何故なら『イクトゥス』(魚)は「海、川、湖、池」にも生息します。
要は『イクトゥス』(魚)は「海水」にも「淡水」にも生息しているのです。
しかし「devilfish」とされる「イトマキエイ、タコ、イカ」とは「海」にしか生息しません。
「devilfish」は「海水」にしか生息できないのです。
このように「淡水」へ適応することを「バプテスマ」(キリスト教化)だとしているのです。
そして「淡水」へ適応できない生物とは「キリスト教化以前」を示している。
このような「海の生物」(devilfish)とは「海の民」(devilfish)を示し「キリスト教化以前」の劣等状態を指し示している。
又、そういった劣等状態とは『イクトゥス』(魚)に対する「黒ミサの儀式」(バフォメット)なのです。
そういう意味で「海の民」(devilfish)とはアンチキリスト宣言と言えます。
そして「海の民」(devilfish)はペリシテ人ともされその末裔とはパレスチナ人とも言われています。
有名な旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」とは『イクトゥス』(魚)と『ペリシテ人』(devilfish)の戦いと言えるでしょう。
※聖織田信長の『イクトゥス』(魚)に対し「黒ミサの儀式」(バフォメット)を執行した豊臣秀吉とは「海の民」(devilfish)と見做せます。
最後に「死海文書」の考察です。
死海とは塩分濃度が濃くて『イクトゥス』(魚)も「海の民」(devilfish)も生息できない死の海です。
その意味とは「知識の廃棄」と「知識の鵜呑み」のあり方です。
イマヌエル・カントの純粋理性批判(第二版序文)の指摘です。
要は村上春樹作品「ノルウェイの森」に於いて『イクトゥス』(魚)殺しは「烏賊」(devilfish)を示していて、その暗示として「猫」に『鴎』と名付けるという仕組みが行われている。
そして「猫」が「烏賊」(devilfish)に殺されることは水産庁のサイトによると中国の古書『南越志』に記されている故事から来ているらしい。
「烏賊」の語源
イカは漢字で「烏賊」と書きます。
最初の文字は「鳥(とり)」ではなく「烏(からす)」です。
海の生き物であるイカになぜ烏(からす)の文字が使われているのでしょうか。
これは中国の古書『南越志』に記されている故事が由来となっています。
死んだふりをして海面にぷかぷかと浮かんでいるイカを烏(カラス)がつつきに来ると、イカは突然腕を伸ばしてカラスを絡めとり、海中に引きずり込んでしまった、という話から「烏」を襲う「賊」という意味で「烏賊」という漢字が当てられたそうです。
実際には、イカがカラスを襲って食べるという生態は今のところ確認されていません。
でも、イカは頭がいい生き物なので、我々が見ていないどこかで、死んだふりをしてカラスを襲って食べているかもしれませんね。
見かけた方は是非教えてください!
要は村上春樹作品の場合、魚編の右側の漢字部分を使って『イクトゥス』(魚)を殺す仕組みを形成したり、「devilfish」(イカ)を使用して『イクトゥス』(魚)に対しアンチキリスト宣言を形成している。
村上春樹作品「海辺のカフカ」があります。
フランツ・カフカ賞を村上春樹は2006年にアジア圏で初の受賞をしている。
カフカとはチェコ語で「烏(からす)」を意味しているらしい。
ここに於いても『イクトゥス』(魚)殺しとして「烏賊」(devilfish)が暗示されている。
要は「烏(からす)」には「烏賊」(devilfish)と言う意味がついて回るのです。
「烏賊」(devilfish)とはアンチキリスト宣言となっています。
フランツ・カフカ賞(フランツ・カフカしょう、チェコ語: Cena Franze Kafky)は、チェコの文学賞。
2001年創設。チェコのフランツ・カフカ協会がプラハ出身の作家フランツ・カフカにちなんで創設した賞であり、「現代の世界文学における最も偉大な作家の一人であるカフカの作品のように、自らの出自や国民性、属する文化といったものにとらわれない読み手たちに向けて書こうとする現代作家の、芸術的に特に優れた文学作品を評価すること」を指針として受賞者の選定が行われる。賞金は1万ドルであり、カフカにちなんだブロンズ像が副賞として贈られる。授賞式はプラハの旧市庁舎で行われる。
2004年にオーストリアの女性作家エルフリーデ・イェリネク、2005年にはイギリスの劇作家ハロルド・ピンターが受賞し、両名はいずれも同年にノーベル文学賞を受賞した。2006年には日本の村上春樹がアジア圏で初の受賞、2007年にはフランスのイヴ・ボヌフォワが詩人として初の受賞を果たしている。
^ 「フランツ」がドイツ人の名であるのに対して、「カフカ(kafka)」はチェコの姓である。kafkaは、チェコ語でコクマルカラス(コガラス)を意味するkavkaに由来する。ここから、カフカの父ヘルマンの店の商標には、カラスの絵が用いられていた。1788年に、ヨーゼフ2世によってユダヤ人皆姓令が下された際、他の多くのユダヤ人が支配階級の言語に合わせてドイツ名を選ぶ中で、カフカの祖先はチェコ名である「カフカ」を選んだ。この姓を選んだ理由は定かではないが、ヤコブ(jakob)のイディッシュ語の短縮形ヤコブケ(jakovke)から来ている可能性もある[4]。
村上春樹作品中に登場するイカ料理とは「devil・fish」(悪魔の魚)を示している。
『イクトゥス』(魚)殺しとして「devilfish」(イカ)を賛美している。
他にも『イクトゥス』(魚)が空から降って来ると言うテキストが村上春樹本人から指摘されていたがそれは「天から降るパン」のことであって意図的に新約聖書を改変し倒錯(冒涜)をしている。
参考までに「猫」はイカ料理(特に生のイカ)を食べると消化できず重篤な症状となり死ぬ可能性もあるらしい。
「猫」は『イクトゥス』(魚)を好んで食べ、一方で「猫」は「devilfish」(イカ)を嫌って食べないとも言えます。
又、単に「猫」は『イクトゥス』(魚)をムシャムシャ食べ、一方で「猫」は「devilfish」(イカ)には絶対に手を出さないとも言えます。
村上春樹ワールドとは全てが『イクトゥス』(魚)を貶していく世界観として成立している。
それは村上春樹作品がアンチキリスト宣言によって作り込んだ作品群である事を示している。
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devilfish
◆noun (plural same or devilfishes) any of a number of marine creatures perceived as having a sinister appearance, in particular a devil ray, a stonefish, or an octopus or squid.
◊sin・is・ter /sínəstə(r)/
—a.
《古》 故意に人を誤らせる〈情報・忠告など〉; 《古》 偏見のある, 好意的でない, 敵対的な〈意見など〉; 《廃》 誤った, 正道からそれた〈考えなど〉.
sin・is・ter/sÍnəstɚ/〓
〖初15c;古フランス語 sinstre またはラテン語 sinister (左側の, 不吉な, 不運な)より〗
〓
1 悪意のある, 邪悪な〓
2 不吉な, 縁起の悪い〓
3 ⦅古⦆不運な, 災いとなる.
4 〖紋章〗(盾(たて)の紋地が)左側の《◆向かって右側の》(↔ dexter).
5 ⦅古⦆左の, 左側の.
dévil・fìsh
―n. (pl. ~, ~・es)
1 ⦅米⦆ 〖魚類〗 イトマキエイ (⇨devil ray).
2 〖魚類〗 オニダルマオコゼ (Synanceja verrucosa) ⦅オニオコゼ科の魚⦆.
3 タコ (octopus); (一般に)大きな頭足類の動物⦅イカ (cuttlefish) など⦆.
〖1709〗
dév・il・fìsh
—〓 (複 ~, ~・es) 〓 いとまきえい; たこ, いか.
dévil・fìsh〓
〓(〓→ fish¹ 〓)
1 〖魚〗オニイトマキエイ類《トビエイ科オニイトマキエイ属(Manta)のエイの総称;devil ray, manta (ray), sea devil ともいう》.
2 タコ(octopus), イカ(squid).
3 ⦅英⦆〖魚〗アンコウ科キアンコウ属(Lophius)の魚の総称(cf. anglerfish).
4 〖動〗コクジラ(gray whale).
5 〖魚〗=stonefish.
ダイオウイカ
Architeuthis japonica; giant squid
軟体動物門頭足綱ダイオウイカ科。日本最大のイカで胴長 1.9m,全長は触腕を伸ばすと 6.5mに及ぶ。外套は長紡錘形,背面先端にある鰭は左右に広げると卵形になる。腕は細く長く,触腕は特に長く胴長の 3.5倍もある。また腕の吸盤も直径 2cmに達する。なお,ダイオウイカ科 Architeuthidaeは太平洋と北大西洋から約 10種が報告されているが,分類学的に多くの混乱が残されている。最大のものでは全長 15m以上(触腕を伸ばした長さ)にもなる。台風のとき海岸へ打上げられたり,マッコウクジラの胃の中から発見されたりする。
イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ἰχθύς 発音 [ikʰtʰýs]) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。
英語では、イクサス (ichthys, ichthus[ˈɪkθəs][1]) のほか、ジーザス・フィッシュ (Jesus Fish) やクリスチャン・フィッシュ (Christian Fish) とも呼ばれている。
イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもある。
「神罰」は最高悪サタンに下る
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エクソシスト【exorcist】
キリスト教で、悪魔祓いをする人。
ex・or・cist [éksᴐːrsist,―sər―]〓
―n.
1 悪魔払いの祈祷(きとう)師,悪魔払い師,エクソシスト.
2 〖ローマカトリック〗 祓魔(ふつま)師:下級聖品4段のうちの第2段に属する聖職位. cf. ACOLYTE 2,LECTOR 2,OSTIARY 1.
◊[映画]The Exorcist『エクソシスト』W.Friedkin 監督,米国のホラー映画(1973,II は1977,III は1990).
[c1384.中期英語<後期ラテン語 exorcista<ギリシャ語 exorkistḗs.⇀EXORCISM]
村上春樹ブームは「堕天使ルシフェル」の召喚だった!
村上春樹のストイックな日々
村上春樹は人気作家として世界中で名声を恣にしている。
しかし私は彼の翻訳家としての評価をよくは知らない。
何故それが重要であるのでしょうか?
何故ならばカトリック信仰に対する村上春樹の姿勢が如実に現れるからです。
村上春樹の翻訳した作品が「オリジナル信仰」であるか「ヲタ芸」であるかによって翻訳能力に必要な文章読解能力が量れるのです。
それは後に詳述します。
又、村上春樹は自分の作品を執筆することと英語文学の日本語翻訳をすることを日々の通常業務としている作家らしい。
しかし私はカトリック信仰から形成される啓蒙芸術性が作品の価値を生むと考えている。
それは世界の知性に於けるイマーゴ(神の似姿)であり「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)の軌跡です。
そういった軌跡は「信仰生活」を示し世界を浄化する奇跡(カタルシス)を生む。
しかし村上春樹にとって日々の通常業務は毎日早朝から続くルーティーンとなっているだけでそこにカトリック信仰は垣間見られない。
村上春樹の日々のルーティーンは「信仰生活」とはなっていないのです。
何故ならば村上春樹の生活スタイルはカトリック信仰から自閉した安全地帯でありイノセントとして形成されている。
しかしそれはおかしい。
その理由とはカトリック信仰に検閲されることがない安全地帯に成立したイノセントは詐欺性でしかないからです。
それはまるでベースボールプレイヤーのイチローのようなストイックな生活スタイルを想起させ、又同時にイチローの身勝手なプレースタイルを容認させる詐術と同じあり方をしているように見える 。
だからそこには真剣勝負(誠実と真実)への信仰が存在していないのです。
イチローの日々のルーティーンも「信仰生活」ではないのです。
確かに彼らは数字的結果と人気を誇っている。
しかし彼らはカトリック信仰を「神の門(砦)」によって閉ざし自閉した「安全地帯」で「犯罪の巣窟(砦)」を形成している。
彼らの数字的結果と人気もインチキが罷り通った結果にすぎないだろう。
彼らは「犯罪の巣窟(砦)」を繊細な内面における「イノセント」のあり方として宣伝している。
又、今時のトレンドワードで言えば「自己肯定感」とされ宣伝されている。
自己中心的な「自己肯定感」は最高悪の人間を想起させる。
カトリック信仰から検閲されないと言う「自分感覚」によって自らの「ギルティ」を自覚できないと言う主張は随分ふざけた言い訳であるように思う。
又、私には自らの「ギルティ」を自覚しない「自分感覚」は人間の狂気と劣等のあり方に見える。
カトリック信仰を拒絶し自らの「ギルティ」を認めないことが「イノセント」の存在証明だとする主張はかなり幼稚で無理な要求であると感じる。
それは「マンガ的なんでもあり」なのです。
「思い込み」で全て実現すると言うことです。
しかしこのような「doxa」の強い奴が勝つ社会は人間存在の劣等の証となる。
そのようなバカが勝つ社会とはマンガを読み過ぎたバカが大威張りのサブカルチャー社会となっているのです。
「ギルティ」を「ギルティ」と認めないで「イノセント」を「イノセント」と認めることはできない。
逆も然り。
そして「ギルティ」を「イノセント」とすることは「イノセント」を「ギルティ」とすることである。
それは「ヲタ芸」と言われ「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)と呼ばれる。
だから彼らには「真実のイノセント」は存在しない。
そして彼らには「真実のギルティ」も存在しない。
しかしそこに「認識の陥穽」がある。
そのようなあり方は「ヲタ芸」と言われ「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)とされると先程指摘しました。
だからそのようなあり方は最高悪サタンとの契約となりカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する「最大のギルティ」となるのです。
要は、カトリック信仰に於いて「黒ミサの儀式」(バフォメット)を行うということは「堕天使ルシフェル」を召喚することになる。
それは「最大のギルティ」としてカトリック信仰から神罰を受ける対象となる。
彼らは「最高悪サタン」の存在を呼び出しその下僕となることを欲している。
それが「魔女」の存在なのです。
そしてアドルフ・ヒットラーのネオ・ナチズムと同様です。
敵対心への「共感」は不純と言えます。
このようにカトリック信仰を信仰弾圧する「イノセント」は無根拠である。
これは「doxa」の危険なあり方だろう。
その「doxa」はカトリック信仰の「白ミサ」に検閲されることに対し一々敵対心となって「共感」を形成している。
その「共感」を彼らは「イノセント」と強硬に主張している。
しかしそういった「イノセント」はカトリック信仰への「敵対」という最高悪サタンの証しでしかないだろう。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)への「共感」であり「最大のギルティ」となっている。
その構図は「トートロジーと循環論証」(神と聖書のパラドックス)によって捏造される。
「トートロジーと循環論証」(神と聖書のパラドックス)による「黒ミサの儀式」(バフォメット)はカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対心となる人の「doxa」を形成しその「共感」は「最大の躓き」のあり方となっている。
「私に躓かない者は幸いである。」
しかしカトリック信仰への「共感」が本来であるだろう。
「芸術性」への「感情移入」は「カトリック信仰のあり方」への鑑賞として行われる。
そして「芸術性」の鑑賞とは「カトリック信仰のあり方」への「共感」となっている。
その場合、この「最高のイノセント」への「共感」は「最大のギルティ」への「共感」と徹底的に対立することになる。
何故ならばカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する行為として形成された作品は「芸術性」を貶め冒涜する「ヲタ芸」だからです。
それは観賞するに値しない。
「黒ミサの儀式」(バフォメット)を司った悪意だけの作品である。
そのような作品は「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)への「共感」を生むかもしれない。
しかしその「共感」は「堕ちた人間」の証明でしかないだろう。
烏合の衆と化した愚民の群れとなるのです。
芸術性への「共感」は純粋と言えます。
それに対して「カトリック信仰から形成されたオリジナル」(唯一性のペルソナの確立)は「カトリック信仰のあり方」を鑑賞することを「芸術性」を見い出す。
それは「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)への「共感」である。
そして「最高のイノセント」への「共感」と言える。
ではこの両者の違いは端的に何だろうか?
カトリック信仰を持った存在(共感)とその「白ミサ」へ一々敵対する行為を崇拝する存在(共感)に大別される。
カトリック信仰はイマーゴ(神の似姿)に従順であり、敵対者は一々「白ミサ」へ敵対するヤンキーの存在となっている。
ヤンキーとは「地域的エリート主義(ヤンキー)」でありカトリック信仰の代表的敵対者となっている。
ヤンキーをカッコいいとするバカな暴走族が日本人のキャラクター形成ということです。
そしてそれは「地域的エリート主義(ヤンキー)」でありカトリック信仰を信仰弾圧する魅力のないキャラクターとなっています。
何故ならばカトリック信仰の「白ミサ」に検閲されることによって可能となる倫理性が魅力を生んでいるからです。
魅力あるキャラクターとは倫理性を持っていることなのです。
しかし「地域的エリート主義(ヤンキー)」の倫理性はカトリック信仰に対する信仰弾圧によって不可能となっている。
だから彼らは魅力を持つことができない存在なのです。
ここに「聖なる天使」と「醜悪な堕天使」の聖戦が行われているのです。
ヴィム・ヴェンダース「ベルリン天使の詩」では「醜悪な天使」と「聖なる堕天使」という逆転を司った「黒ミサの儀式」(バフォメット)が決行されていました。
本来であれば「聖なる天使」と「醜悪な堕天使」の「白ミサ」となっている筈なのです。
これは庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」と同等です。
ヴィム・ヴェンダースは明らかに危険人物なのです。
日本人の「地域的エリート主義(ヤンキー)」の証拠(グラーゼナップの報告)
岩波書店「カント全集18 諸学部の争い 遺稿集」より
グラーゼナップ
Glasenapp, Helmuth von
[生] 1891.9.8. ベルリン
[没] 1963.6.25. テュービンゲン
ドイツのインド学,比較宗教学者。ケーニヒスベルク,テュービンゲン両大学教授。明快な解説をもって知られた。主著『ヒンドゥー教』 Der Hinduismus(1922),『インドの宗教』 Die Religion Indiens(44),『インドの哲学』 Die Philosophie der Inder(48)など。
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日本国内におけるカトリックとは?
ただこの日本に関する重大なテキストは伝統的なイマヌエル・カントのテキストからではなく、新発見とされているグラーゼナップ「カントと東洋の諸宗教」のテキストから来ている。
よってこのテキストはイマヌエル・カントのテキストではなくグラーゼナップの捏造テキストである可能性を私は否定できない。
その理由として長崎出島に於いて封じていたオランダとは当時近代世界システム(イマヌエル・ウォーラーステイン)におけるヘゲモニー国家であったからです。
そしてオランダとはカトリックに敵対するプロテスタントであったのです。
そういう意味でオランダを長崎出島に封じる意味とはカトリックではなくプロテスタントを封じることであったと想像されます。
何故なら日本国内がカトリックへの信仰弾圧であったなら海外プロテスタント勢力のオランダを長崎出島に封じる理由はありません。
これは当時世界最強国だったオランダからの圧力により海外プロテスタント勢力と直接貿易を結ぶことになったカトリック信仰の徳川幕府体制が苦肉の策として海外プロテスタント勢力から鎖国を維持しながら長崎出島に於いてだけ開港を認めたことを示しています。
当時は完全に近代世界システム(イマヌエル・ウォーラーステイン)におけるヘゲモニー国家のオランダという海外プロテスタント勢力の大全盛時代だったのです。
海外カトリック勢力にとっては最悪の暗黒時代だったと言えます。
だから現在でも長崎カトリックは有名ですが本当はヘゲモニー国家のオランダプロテスタントの影響を受けた長崎プロテスタントであったと言える。
現在の長崎カトリック教会群は捏造であったわけです。
この認識が完全に転倒されたことで全てが可怪しくなってしまったと言えます。
何故なら日本国内において倒錯宣伝(冒涜宣伝)による宣伝効果が激しいからである。
徳川幕府体制とは聖織田信長を継承したカトリック信仰によっていたと想像されるのです。
アメリカの原爆が長崎カトリック教会群に投下されたことを激しく非難する風潮が多くありますが実際には長崎カトリック教会群ではなく長崎プロテスタント教会群に原爆は投下されたものであったと見做されます。
天草四郎による「島原の乱」についても「カトリックの乱」ではなく「プロテスタントの反逆」だったと想像されます。
しかしグラーゼナップのテキストでは日本国内に於いて皇帝(公方)はカトリックを激しく信仰弾圧したとされています。
これは明らかに矛盾したテキストであるのです。
何故なら長崎出島の意味が海外プロテスタント勢力を封じる政策であったのなら日本国内の鎖国政策とは世界近代システム(イマヌエル・ウォーラーステイン)におけるヘゲモニー国家のオランダプロテスタントから日本国内のジャパンカトリックを守護する意味があったと想像されるからです。
薩摩の島津家が長崎出島を通さず密貿易をすることで海外の知識をいち早く得ていたとされていますが実際には海外カトリック勢力ではなく海外プロテスタント勢力から援助されていたと想像されます。
何故なら海外カトリック勢力であるのなら徳川幕府体制と直接貿易をする筈だからです。
アメリカのペリー来航は海外カトリック勢力であって徳川幕府体制にとって非常に良いものだった筈です。
それに対する島津家の密貿易とは海外プロテスタント勢力が密貿易相手だったと想像されます。
幕末英雄伝とはカトリック信仰の徳川幕府体制に対し海外プロテスタント勢力と組んだ日本国内勢力が起こしたクーデターのことだったのです。
明治新政府とはプロテスタント勢力のクーデター政権であったのです。
では最後に日本の守護聖人とは誰だったのだろうか?
それは東照大権現である。
一般には東照大権現とは徳川家康のことだと言われている。
そして東照大権現の意味とは「オリエントの異教」を光で照らし出すホワイト・マジック・オーケストラを示しています。
しかし実際には一向宗徒を殲滅していった聖織田信長こそ東照大権現であったのではないだろうか?
日本国の守護聖人とは聖織田信長というカトリック信仰の殉教者(エクソシスト)であったのです。
そういう意味で明智光秀も日本国の守護聖人であったと私は見做しています。
そして東照大権現とは「オリエントの異教」を光で照らし出しホワイト・マジック・オーケストラをかけるカトリック信仰の殉教者(エクソシスト)を示しているのでしょう。
sym・pa・thy [símpəѲi]〓
―n. (pl. ―thies)
1 (人間同士または人間と動物の)共感,共鳴,相通じる心:〓
2 (趣味・意見・性格などの)一致,気心が合うこと,相性:〓
3 (人・悲しみ・苦しみなどに対する)同情,思いやり;⦅―thies⦆ 哀れみの情,憐憫(れんびん)の情⦅to,for,with ...⦆:〓
4 ⦅時に―thies⦆ (人・主張・行為などへの)好感,好意;共感,共鳴,支持,賛成;忠義[忠誠]心⦅with ...⦆:〓
5 (…との)一致,調和⦅with ...⦆:〓
6 〖心理〗 同情,感情移入:相手の立場に立って,その感情体験を共有すること.
7 〖生理〗 ⦅まれ⦆ 交感,共感:ある部分・器官の状態・不調が他の部分・器官に影響を与えること.
8 〖物理〗 共振,共鳴.
―adj. 同情を表す,同情心で行われる:〓
[<ラテン語 sympathīa<ギリシャ語 sympátheia(sympathḗs「同情的な」より=sym― SYM―+páth(os)苦しみ,感動+―ēs 形容詞接尾辞)]
かんじょういにゅう【感情移入】
empathy; Einfühlung; objectivation du moi
他人の身振りや表情,あるいは芸術作品などの人間の諸表出や自然対象を把握するとき,自己の内的感情を対象の側に移入し,それが対象に帰属するものとして体験する場合の心的活動をいう。この活動が最も純粋で完全な形で行われるのは美的感情移入であり,ドイツの T.⇨リップス,J.⇨フォルケルトらはこの概念を中心にして感情移入美学を樹立した。フォルケルトは,感情移入は移入する対象の違いによって区別され,人間の諸表出に対する感情移入が本来的感情移入であり,非人間的な形態に対する場合が象徴感情移入であるとした。
リップス
Lipps, Theodor
[生] 1851.7.28. ワルハルベン
[没] 1914.10.17. ミュンヘン
ドイツの心理学者,哲学者。ボン,ブレスラウ(現ウロツワフ),ミュンヘンの各大学教授を歴任。心理学は内省によってとらえられる意識体験についての経験科学であり,かつ実在(意識)を直接とらえるという意味での実在の本質に関する哲学の一部門でもあると説く⇨心理主義の代表者とされているが,後期ではその立場はやや緩和され,心理現象の因果性を説く説明的心理学をも認めた。空間知覚,錯視,造形美の研究のほかに,美意識についての⇨感情移入説は特に有名で,他人の精神生活の認識もこの移入に基づくとした。主著『精神生活の根本問題』 Grundtatsachen des Seelenlebens(1883),『倫理的根本課題』 Die ethischen Grundfragen(99),『美学』 Ästhetik(2巻,1903~06),『心理学入門』 Leitfaden der Psychologie(03),『哲学と実在』 Philosophie und Wirklichkeit(07)。
フォルケルト
Volkelt, Johannes
[生] 1848.7.21. リプニク
[没] 1930.5.8. ライプチヒ
ドイツの哲学者,美学者。⇨感情移入美学の代表者。 1883年バーゼル,89年ウュルツブルク,94年ライプチヒの各大学教授。カントおよびドイツ観念論の影響を受け,哲学的には批判的形而上学の立場に立った。美学的には,⇨リップスと並んで,感情移入の作用を美学的に基礎づけ,かつその体系化を試みた。また美的範疇論に関しては,心理主義美学の立場から範疇をきわめて多種にわたって枚挙,分類した。主著『経験と思惟』 Erfahrung und Denken(1886),『美学体系』 Das System der Ästhetik(3巻,1905~14),『確実性と真理』 Gewissheit und Wahrheit(18),『美意識論』 Das ästhetische Bewusstsein(20)。
オリエントの異教
魔女と魔術師 D.Hexe und Zauberer. E.Witch and Magician.
人間社会に害を与える超自然的能力を備えた人たち。魔女は普通、いずれもひげのある老醜女とされている。その起源は恐らくオリエントの異教に発し、北欧諸民族の民話と混渚し、とくに十字軍以後、東方との接触が密になってアラビア人やユダヤ人の魔術信仰も加わり、ついにはキリスト教内部にまで浸透するに至った。14世紀以来、魔女裁判が盛んになったが、16世紀の宗教改革期は異端者をもこれに巻き込み、「女呪術師などは生かしておけない」(出22:17)「あなたの間に 呪術師などがいてはいけない」(申18:10以下)などの聖句をもとに恐るべき拷問や残酷な処刑が18世紀まで続けられた。一般に彼らは悪魔と契約して、血で署名した羊皮紙に心身を悪魔に委ねる旨明記する。その見返りに金銭を得、肉体に悪魔の印刻が残る。彼らは(1)天候を左右する。(2)農作物の収穫に影響する。(3)自他ともに動物(狼、猫、ひきがえるなど)に変身させる。(4)預言する。(5)空中や海上を箒や笊を使って自由に飛行、航行する。(6)邪魔者は呪い殺す。(7)無生物 に生命を吹き込む等々の超能力の持ち主。彼らは安息日の夜集会し、猥褻な儀式を行なって、牡牛や牡羊の形の偶像を礼拝する。彼らは、 不感症のため針や釘で身体を突いたり刺されたりしても痛痒を感じないし、感情がないので泣いたりわめいたりしない。初期キリスト教美術には、あたかも魔法使いのように杖か棒で奇跡を行うモーセやキリ ストをカタコンベの壁画、石棺浮彫に見るが、これらの図像は中世には見られない。 しかし, 15世紀後半から宗教改革の盛期には魔女、魔女裁判の図像がことに北欧版画に多くなり、ショーンガウア、デューラー、クラナハ等巨匠の作品にも見られる。
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作品のあり方は2つのマニュアルとして存在しています
「信仰」へ導くマニュアル(天使の両翼)
「欲望(doxa)」を実現させる手順のマニュアル(悪魔との契約)
そして「信仰」へ導くマニュアル(天使の両翼)は「知の廃棄」の容易さとして成立する。
一方で「欲望(doxa)」を実現させる手順のマニュアル(悪魔との契約)は「知の鵜呑み」の容易さとして成立する。
「魔女」はカトリック信仰に検閲されずただ黙々と「通常業務」をこなして行くのです。
そしてその通常業務は「マニュアル」とされています。
そのような「魔女」の「マニュアル業務」とカトリック信仰に絶えず検閲される「信仰生活」とは全く違っている。
それは当然だろう。
「信仰生活」の有無が『神の才能』と『人の才能』を分かつからです。
『神の才能』は「信仰生活」から齎される。
それは「種蒔きの譬」と同じであり、自然林(叡知界)の受肉を示している。
種蒔きの譽
さて、多くの群衆が集まって来、〔人々が〕町という町から彼のもとへやって来たので、彼は譬を通じて語った。「種蒔く人が彼の種を蒔きに出て行った。そして彼が種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ち、踏みつけられてしまった。そして空の烏たちがそれを食べてしまった。他のある種は、岩の上に落ちこぼれた。そして生え出はしたが、水分がないために枯れ果ててしまった。また他のある種は茨の只中に落ちた。すると茨が一緒に生え出て、その〔種の〕息の根を止めてしまった。またほかのある種は善い地に落ちた。すると、〔その種は〕生え出て、 百倍の実を結んだ」。これらのことを語りながら、彼は叫び続けた、「聞く耳ある者は聞け」。
譬で語る意義
そこで彼の弟子たちは、この譬が何であるか彼にたずねた。すると彼は言った、「あなたたちには神の王国の奥義を知ることが〔すでに〕許されている。しかし、ほかの者たちには〔さまざまの〕譬で〔語られる〕、それは〔次のように〕なるためだ、
彼らは見ることは見るが、認めない。
また、聞くことは聞くが、悟らない。
種蒔きの譬の解釈
〔先ほどの〕あの譬は、〔次のような次第〕だ。種とは、神の御言葉なのだ。『道端に』〔蒔かれる〕者たちとは、〔御言葉を〕聞く人たちではありが、その後で悪魔がやって来て、彼らの心から御言葉を奪ってしまう。そのため、彼らは信じて救われるということがなくなってしまうのだ。また、『岩の上に』〔蒔かれる〕者たちとは、聞く時は喜んで御言葉を受け取る人たちであるが、こうした者たちは根がなく、信じてもその場限りで、試みの時には棄教してしまうのだ。『茨の中に』落ちる者たちとは、〔御言葉を〕聞く人たちではあるが、彼らは進み行く時に〔さまざまな〕思い煩いや富や人生の〔いろいろな〕快楽によって窒息させられてしまい、熟した実を結ぶまでにいたらないのだ。また、『善い地の上に』〔蒔かれた〕者たちとはこういう者たちのことだ。つまり美しい、善い心で御言葉を聞き、〔それを〕保ち、不屈さの中で実を結ぶ者たちだ」。
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穢れに関する論争(マタイ 15 1-20)
そのあと、〔幾人かの〕ファリサイ人たちと律法学者たちとが、エルサレムからイエスのところにやって来て言う、「なぜお前の弟子たちは父祖たちの言い伝えを破るのか。彼らは、パンを食べるときに〔自分たちの〕手を洗わないではないか」。すると彼は答えて彼らに言った、「お前たちこそ、なぜお前たちの言い伝えで神の掟を破るのか。というのは、神は父と母を敬えと言い、父や母を呪うものは必ず死ぬべしと言われたにもかかわらず、お前たちは〔次のようなことを〕言っている、『父や母に対し、「あなたが差し上げるはずだったものは、供え物〔となります〕と言う者は、その父を敬う〔必要が〕ないであろう』、と。こうしてお前たちは、お前たちの言い伝えで神の言葉を台無しにしてしまった。偽善者どもよ、お前たちについて、イザヤはみごとにも預言して〔次のように〕言った、
この民は唇で私を敬うが、
その心は私からはるかに隔たっている。
彼らは私をいたずらに敬うが〔に過ぎない〕、
人間たちの〔さまざまな〕戒めを〔しょうこりもなく〕教えとして教えながら」。
そして群衆を呼び寄せ、彼らに言った、「聞け、そして悟れ。口の中に入って来るものは、人間を穢さない。むしろその口から出ていくもの、それこそが、その人間を穢すのだ」。
そのあと、弟子たちがやって来て彼に言う、「ファリサイ人たちが〔今の〕御言葉を聞いて躓いたのをご存じですか」。すると彼は答えて言った、「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。彼らをそのままにしておくがよい。彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう」。
するとぺトロが答えて彼に言った、「[この]譬を私たちに解釈してください」。すると彼は言った、「あなたたちも、悟りがないままなのか。すべて外から口の中に入って来るものは、腹の中に入って行き、便所へと出されてしまうことがわからないのか。しかし、口から出てくる〔もろもろの〕ものは、心の中から出て来る。それこそがその人間を穢すのだ。なぜならば、心の中からこそ、悪しき想い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、瀆言が出て来る。これらのものが、その人間を穢すものである。しかし、洗わない手で食べることがその人間を穢すことはない。
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一方で『人の才能』は「捏造」となり、人工林(感性界)の植樹を示している。
それは「ピアノレッスン」の様な恣意的なものとなります。
奏者が特権階級で容姿端麗なら美音に聴こえるかもしれません。
しかしカトリック信仰を貶め冒涜することで「スター」の如く祀り上がり崇拝される「マニュアル」は「ヲタ芸」であるだろう。
それは「手順」なのです。
しかし「手順」は「マニュアル」ではなく、「導き」が「真のマニュアル」と言えます。
何故なら「真のマニュアル」とは「アルカナ」とされるからです。
「アルカナ」とはカトリック信仰より受肉する叡智としてあります。
それは先ず信仰生活を持つことへの「導き」でありそれが「アルカナ」と言えるのです。
「マニュアル」とは「知の廃棄」の容易さへの導きとなる。
それが「信仰生活」への「真のマニュアル」です。
しかし信仰を持たず「手順」による「マニュアル」のあり方は「ヲタ芸」とされる。
それは「知の鵜呑み」の容易さへの堕落である。
それが「魔女」のあり方なのです。
そういったあり方は「トートロジーと循環論証」(神と聖書のパラドックス)によるデマゴーグとなる。
これらが「魔女」の「通常業務」としての「ヲタ芸」である。
カトリック信仰は「神の門(砦)」により閉ざされている。
それにより「バベルの塔」は「トートロジーと循環論証」(神と聖書のパラドックス)による捏造を形成し完全な詐欺を成立させている。
2023年10月5日(木)20時頃・・・・
果たして数字的結果と人気を誇る村上春樹はノーベル文学賞を受賞するだろうか?
結局受賞はなかった・・・
英国のブックメーカーの一つが村上春樹をノーベル文学賞受賞の筆頭に挙げたことがこの騒ぎの発端らしい。
これはそのブックメーカーがオッズをどのように決定したのか知らなければなんとも理解し難い。
ただ「カトリック信仰」と「ギャンブル」とは「科学的思考」として理解されるだろう。
それは「現実批判」への転嫁として存在しているからです。
だから村上春樹が世界的文学者だから受賞予想が生まれたわけではないだろう。
多分今回のノーベル文学賞が「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)が受賞するのではなく「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)が受賞するという穿った予想により村上春樹の名前が挙がったのだろうと想像されます。
だから或る意味、的確に村上春樹の「ヲタ芸」を指摘したのかもしれない。
しかしそれは村上春樹にとっていい意味では全くないのです。
私の村上春樹への評価
私の村上春樹作品への評価は最高悪であるのです。
何故これほど世界中から高評価されている日本文学の至宝を私が最高悪とまで罵っているのかあなたはきっと疑問を感じられるでしょう。
当然です。
最も評価されたとして金賞を受賞した「スイーツ」を酷評することに似ているからです。
ガルシア・マルケス「百年の孤独」翻訳本は政治的プロパガンダキャンペーン(クーデター隠蔽作品)
※クーデター隠蔽作品とは明治維新クーデター政権と同様のあり方です。
最近ではガルシア・マルケス「百年の孤独」翻訳本キャンペーンがいい例です。
柄谷行人先生によるとガルシア・マルケスは政治活動に深くコミットメントしており、その作品は政治的プロパガンダ作品と見做されるらしい。
その政治的プロパガンダキャンペーンとは「絆と権力」であった。
新潮社と池澤夏樹、そして元産経新聞記者により起こされているガルシア・マルケス「百年の孤独」翻訳本ブームとは白々しい政治的プロパガンダキャンペーン(絆と権力)であるというのが真実だったのです。
※彼らの「イノセント振り」には吐き気がしますね。(笑)
しかし汎ゆる存在の価値を判断する時に必要な価値基準があります。
それは「信仰から形成されるオリジナル」の「神技」です。
「神技」とは政治的プロパガンダキャンペーン(絆と権力)により植樹される人工林(感性界)ではなく、カトリック信仰から検閲され「信仰生活」より受肉した自然林(叡知界)に価値があると言うことです。
作品制作の「神技」とは?
「信仰から形成される作品」と「オリジナルから形成される作品」が存在します。
それは「信仰から形成される作品」はオリジナル信仰となり、「オリジナルから形成される作品」はオリジナル信仰への「信仰弾圧」であることを指し示しています。
何故ならば「オリジナル信仰」を信仰弾圧して「詐欺的商法」が形成されることを意味しているからです。
『聖書』で言えば「聖櫃」を信仰弾圧することで「バベルの塔」が形成されたことが最も有名な記述であるでしょう。
それはカトリック信仰から自閉した安全地帯の形成による「犯罪の巣窟(砦)の成立」です。
「バベルの塔」とは「神の門(砦)」によってカトリック信仰から自閉した「密室空間」なのです。
「密室空間」に於いて何が起ころうが綺麗に隠蔽されるのです。
それが「犯罪の温床」となる。
村上春樹は早稲田大学出身である。
よって早稲田大学構内に建造された村上春樹ライブラリーは「神の門(砦)」の象徴と言えるだろう。
それは早稲田大学スーパーフリーサークル活動の象徴でもあるのです。
「元気いいな!」 by 森喜朗元総理
村上春樹ワールドの構図を考察する
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だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に(与えよ)
ここで言えることは「カエサル」は「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)のことであり「神」とは「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)のことである。
聖書の「納税問答」は「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)です。
「神は神」であり「カエサルはカエサル」であるからです。
それはカトリック信仰にとって「最高のイノセント」のあり方です。
一方でそれに対する「ヲタ芸」を形成した「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)は「神はカエサル」であり「カエサルは神」とされます。
それはカトリック信仰への「最大のギルティ」のあり方です。
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納税問答(マタイ 22:15-22)
そのとき、ファリサイ人たちがやって来て、どのようにして言葉尻をとらえて彼を罠にはめたらよいか、協議した。そして彼らは、ヘロデ党の者たちと共に彼のもとへ遣わして言う、「先生、私どもはあなた様が真実な方でいらして、真実に神の道を教えておられ、誰はばかることもない方であることを存じて上げております。なぜならあなた様は、外観で人をえこひいきなさることがないからです。
ところであなた様にはどう思われるか、私どもにおしゃって下さい。カエサルに税金を払うことは許されているでしょうか、いないのでしょうか」。しかしイエスは、彼らの悪意を知って言った、「お前たちはなぜ私を試みるのか、偽善者どもよ。私に人頭税の貨幣を見せよ」。そこで彼らは彼に、デナリオン貨幣を持って来た。すると彼は彼らに言う、「これは誰の像か、又誰の銘か」。彼らは彼に言う、「カエサルのです」。そこで彼は彼らに言う、「だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に〔与えよ〕」。すると彼らは、これを聞いて驚き、また彼を残して立ち去っていった。
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「村上春樹のイノセント」は「最大のギルティ」だった
村上春樹ワールドを吟味してみると「信仰(優等)」を信仰弾圧する「カルト(劣等)」の構図による制作が判明します。
それは「啓蒙芸術性作品」を信仰弾圧する「ヲタクの二次創作」の構図と同じです。
所謂「ヲタ芸」です。
啓蒙芸術性を貶め冒涜し凡庸な存在を「スター」の如く祀り上げ崇拝するのです。
村上春樹の作品群も「純愛」を「大袈裟」として描き「スター」の如く祀り上げ崇拝するのです。
又、「大袈裟」を「純愛」として描き「スター」の如く祀り上げ崇拝するのです。
このような作品形成は「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
村上春樹作品は完全な「倒錯劇場」となっています。
何故ならば「純愛」は「大袈裟」であり「大袈裟」は「純愛」となっているからです。
しかし啓蒙芸術性は「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)です。
それは「純愛」は「純愛」であり「大袈裟」は「大袈裟」となります。
それが真実の純愛を描くことになります。
「1Q84」に於いて月が二つ出てくるシーンはかなり「大袈裟」な舞台設定です。
しかしそれは「純愛」は「大袈裟」であり「大袈裟」は「純愛」となり真実の純愛は描かれていません。
「純愛」は「純愛」であり「大袈裟」は「大袈裟」が真実の純愛でありますがそれが存在していません。
かなり大袈裟な表現による舞台設定となっている
「激しく僕を混乱させ揺り動かした。」
村上春樹の小説「ノルウェイの森」に於いて飛行機の機内放送(ビートルズの「ノルウェイの森」)を聴いて激しく混乱するシーンも「大袈裟」な「舞台設定」として「純愛」を描いています。
自主制作参考サイト
ここには村上春樹の小説「ノルウェイの森」の重要な指摘が為されています。
「Auf Wiedersehen!」(再会を期して、楽しみにして)
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから(It's all right now thank you. I only felt lonely, you know. )」 と僕は言って微笑んだ。
「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.(そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります)」彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。「I hope you'll have a nice trip. Auf Wiedersehen!(よい御旅行を。さようなら)」
「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。
I once had a girl Or shoud I say she once had me
この英語会話と最後のドイツ語(ゲルマン)のピリオドのシーンはビートルズ「ノルウェイの森」の冒頭の行と同じ様に主語と目的語の入れ替わった倒錯を示している。
※これらは「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)を示している。
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この作品の冒頭における英語会話の終末(ピリオド)にドイツ語の挨拶が何故か使用されている。
一般的に英語とはキリスト教化された英米語を指し示している。
※私は拓殖大学外国語学部英米語学科出身です。(2002年度卒業/学位取得)
そしてドイツ語(ゲルマン)とは英米語に対してキリスト教化以前を指し示している。
この倒錯英語会話シーンとはハーケンクロイツとしてドイツ語(ゲルマン)の「Auf Wiedersehen!」を敢えて最後に使用することで『イクトゥス』(魚)を完全に殺している。
倒錯を示したこの英語会話からドイツ語(ゲルマン)によるピリオドの流れは村上春樹の「アンチキリスト宣言」であったと言えるのです。
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これらは同じ構図であり「純愛」は「大袈裟」であり「大袈裟」は「純愛」となりここに真実の純愛は描かれていません。
「純愛」は「純愛」が真実の純愛でありますがそれが存在していないからです。
村上春樹の作品形成は「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)となっています。
彼には真実の純愛は描けないのです。
そして「最大のギルティ」を犯しているのです。
野田秀樹の「ヲタ芸」と村上春樹の「ヲタ芸」
又、そのようなサブカルチャーの例を挙げると野田秀樹の演劇は分かりやすいでしょう。
彼の作品はほとんどすべてオリジナル信仰ではありません。
それは題名から言ってもそのように他人の作品を貶め冒涜し自分の作品を「スター」の如く祀り上げ崇拝させている。
しかしそれは一個の「オリジナル作品」ではなく「ヲタ芸」でしかありません。
「贋作・何々」のような感じで「ヲタ芸」を披露しているのです。
野田秀樹の演劇作品はオリジナル信仰ではなく残念ながらすべて「ヲタ芸」です。
「ヲタ芸」と「パロディ」の違い(ウィリアム・シェークスピアのオリジナル)
では「ヲタ芸」と「パロディ」の違いとは何でしょうか?
この違いは「最重要ポイント」です。
簡単に説明します。
「信仰から形成されるオリジナル」はパロディです。
ウィリアム・シェークスピアをご存知の方にとって「喜劇」と「悲劇」が最後の描き方によって変わる事実は有名です。
結局、ウィリアム・シェークスピア作品はハッピーエンドであれば喜劇とされ、バッドエンドであれば悲劇とされます。
そしてそれぞれの作品に「喜劇」と「悲劇」の両方のヴァージョンが存在しているのです。
それはシェークスピアが「信仰から形成されるリジナル」の作者であるということを示しています。
「作者の匙加減」(マンガ的なんでもあり)による「エンドのあり方」を鑑賞するわけではないのです。
「カトリック信仰のあり方」が芸術性であってその鑑賞に価値があるからです。
それがカトリック信仰に検閲される「信仰生活」です。
パロディー
parody
もじり詩,替え歌,戯文,変曲。ある作家,流派または作品の特徴をとらえて,作風や文体などを模倣・誇張して作った作品。風刺や嘲弄のため,あるいは滑稽や諧謔の機知をねらって作られるが,鋭い批評の機能を果すこともある。古くはホメロスの叙事詩をもじった『蛙と鼠の戦争』があり,アリストファネスは『⇨蛙』においてアイスキュロスとエウリピデスのスタイルをパロディー化した。セルバンテスの『⇨ドン・キホーテ』は当時流行の騎士道小説のパロディーとして始められた。イギリス文学では,フィールディングの小説『⇨ジョーゼフ・アンドルーズ』が S.リチャードソンの『パミラ』のパロディーとして有名である。近代の詩文のパロディーの名手には,サッカレー,ルイス・キャロル,スウィンバーン,ビアボームらがいる。「パロディーの王様」と呼ばれたのは C.⇨カルバリーである。
「ヲタ芸」の詐欺性と「パロディ」の本物志向
ここで重要なのは「ヲタ芸」と「パロディ」が全く違うところです。
「ヲタ芸」とはオリジナル信仰に対する信仰弾圧だからです。
「パロディ」とはオリジナル作品の制作です。
「ヲタ芸」は「パロディ(オリジナル)」を信仰弾圧したネオ・ナチズム(クールジャパン)としてのあり方となっています。
では野田秀樹のネオ・ナチズム(クールジャパン)とは一体何でしょうか?
ネオ・ナチズム(クールジャパン)とは「ヲタ芸」です。
そしてそれはリアリズム(カトリック信仰)を信仰弾圧することで成立するカルトです。
「大喝采」や「人気商売」はリアリズム(カトリック信仰)を信仰弾圧することで形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)なのです。
そしてそういったカルトは「トートロジーと循環論証」で形成されます。
「知の鵜呑み」のカルトが「循環論証(神と聖書のパラドックス)」を形成し「絶対命令と絶対服従」を生むのです。
循環論証
論理上の虚偽の一つ。Aの事柄を論証するための論拠として用いられるBの事柄が、Aを論拠としていなければ論証できないという場合をいう。
例えば〈神は存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する〉という類の論証
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何故このような「ハイル・ヒットラー!」と同様の「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)が日本サブカルチャーとして大流行したのでしょうか?
カトリック信仰を信仰弾圧する「最大のギルティ」を「イノセントの透明感」として神演出(ヲタ芸)したことが大きいのです。
それが神演出家(ヲタ芸人)の野田秀樹でありアドルフ・ヒットラーであったのです。
上岡龍太郎もビートたけしも同様の神演出家(ヲタ芸人)でありカトリックロゴス感覚の才能はないけれどアドルフ・ヒットラーと同じ才能はあった訳です。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
ただこれは日本サブカルチャーの顕著な流行のあり方でした。
しかしそれもカトリック信仰への「最大のギルティ」です。
時の徴(ルカ 12:54-56)
また、彼は群衆にも言った。、「あなたたちは、雲が西に出るのを見ると、すぐさま『にわか雨が来るぞ』と言い、まさにそのようになる。そして南風が吹くと、あなたたちは、『熱風になるぞ』と言い、まさに〔そう〕なる。偽善者たちよ、あなたたちは、地と空との模様は吟味するすべを知っていて、どうして〔今の〕この時を吟味するすべを知らないのか。
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ビートたけしの「ヲタ芸」
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例えばビートたけしは漫才コンビ・ツービートで高評価され今に至っています。
彼の台本は巧みに「時事ネタ」を取り入れて執筆され天才と評されていました。
何故かそのような時事ネタの「ヲタ芸」が高評価されたわけです。
上岡龍太郎もそのような芸能人の一人です。
しかしそれはカトリック信仰(リアリズム)を信仰弾圧する「最大のギルティ」を「イノセントの透明感」で神演出(ヲタ芸)することでありました。
だからビートたけしが執筆したツービートの台本も実はパロディではなかったのです。
ビートたけしは「ヲタ芸」の天才だったのです。
要はカトリック信仰(リアリズム)を信仰弾圧する「最大のギルティ」を「イノセントの透明感」で神演出(ヲタ芸)する。
先程も書きましたがそれは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
オリジナル信仰を信仰弾圧する「最大のギルティ」を「イノセントの透明感」で神演出(ヲタ芸)している。
結局は「優等(オリジナル信仰)」を信仰弾圧した「劣等(ヲタ芸)」が大威張りして統治している状態が「ヲタ芸」でありネオ・ナチズム(クールジャパン)のあり方だったのです。
これは明治維新で一等国を主張した日本国のあり方と同じです。
私に言わせればカトリック信仰のない独自性で形成した一等国です。
明治維新はネオ・ナチズム(クールジャパン)だったのです。
ネオ・ナチズム(クールジャパン)のビートたけしが世界を席巻したのです。
しかしそれは「最大のギルティ」でした。
何故ならば「黒ミサの儀式」(バフォメット)だったからです。
文化破壊だったのです。
「カルチャー」を破壊すれば「サブカルチャー」は威張れます。
それが「カトリック信仰」の「白ミサ」へ一々敵対する「最大のギルティ」の思想です。
しかし「最も劣等な思想」であるでしょう。
それが「ヲタ芸」の思想です。
日本サブカルチャー(ヲタ芸)と村上春樹
なぜこれが村上春樹と関係があるのでしょうか?
それは村上春樹ワールドが「ヲタ芸」となっているからです。
村上春樹ワールドはオリジナル信仰ではなく「ヲタ芸」のネオ・ナチズム(クールジャパン)であったのです。
村上春樹の音楽趣味は「ヲタ芸(街宣車)」
村上春樹の音楽への拘りはオリジナル信仰ではなくオリジナル信仰を信仰弾圧する「ヲタ芸」にあるでしょう。
「オリジナル信仰」と「ヲタ芸」の両方共に成立するかどうかの問いを発すれば答えは「NO」であるだろう。
「ヲタ芸」とは「オリジナル信仰」への信仰弾圧でありオリジナル信仰(リアリズム)を嘲笑する姿勢であるからです。
それは「リアリズム」ではなく「デマゴーグによる詐欺性」を形成する。
「デマゴーグによる詐欺性」は現状(情勢論)への絶対命令と絶対服従のあり方となります。
それは「デマゴーグによる詐欺性」としての「ヲタ芸」が「啓蒙芸術性」として成立しないことを示している。
何故ならばそれは信仰を信仰弾圧する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)であるからです。
そういった「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)は「知の廃棄」の容易さによる「信仰を入れる場所の確保」とは絶対にならない。
絶対に「信仰生活」とはならないことを示しています。
村上春樹の音楽趣味はオリジナル信仰ではなく「ヲタ芸」でありリアリズムを信仰弾圧し「ヲタ芸」を賛美する。
それは「どうしようもない現実」の中で「知の廃棄」を容易にした「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)を持ち生きる存在を完全弾圧する。
そして「どうしようもない現実」を嘲笑した「知の鵜呑み」の容易さが形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)を持ち生きる存在であることを示している。
しかしそれは「死人」の生き方であるだろう。
ゾンビとはこのように「ヲタ芸」を上位としオリジナル信仰を喪失した存在を言うのです。
村上春樹は「ヲタ芸」の作家であり絶対命令と絶対服従を形成するネオ・ナチズム(クールジャパン)の政治的宣伝コンテンツのクリエーターなのです。
そして彼の音楽への趣向もオリジナル信仰ではなく「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)の「ヲタ芸」となっている。
オリジナル信仰とは「信仰から形成される作品」を示しています。
「ヲタ芸」とは「オリジナル信仰」を信仰弾圧する二次創作の娯楽作品です。
しかしそのような娯楽作品の「ヲタ芸」には「オリジナル信仰」が欠落しており「マンガ的なんでもあり」を容認した価値のない作品群となっています。
カトリックロゴス感覚のサイエンス信仰を信仰弾圧した「マンガ的なんでもあり」です。
村上春樹の音楽趣味も村上春樹ワールドの作品群も同様に「マンガ的なんでもあり」を容認した価値のない作品群となっています。
「マンガ的なんでもあり」は「ヲタ芸」!「サイエンス信仰」は「オリジナル信仰」!
「マンガ的なんでもあり」は「ヲタ芸」と言えるだろう。
「サイエンス信仰」は「オリジナル信仰」と言えるだろう。
そしてウィリアム・シェークスピアに倣えばハッピーエンドとバットエンドで「喜劇」と「悲劇」が変わるだけである。
それは作品のオリジナリティが「エンドのあり方」によっていないことを示している。
サイエンス信仰のコメディがトラジェディにも変わることを示している。
そしてサイエンス信仰とは「信仰から形成されるオリジナル」である。
一方で「作者の匙加減」(マンガ的なんでもあり)による「エンドのあり方」は作品のオリジナリティと無関係である。
「信仰のあり方」を鑑賞することが「啓蒙芸術性鑑賞」であるのです。
「作者の匙加減」(マンガ的なんでもあり)による「エンドのあり方」を鑑賞するわけではないのです。
しかし「ヲタ芸」は「オリジナル信仰」を信仰弾圧して自らを上位とする。
無能者の大威張りなのです。
「マンガ的なんでもあり」はネオ・ナチズム(クールジャパン)である。
最近ではNHK版「犬神家の一族」が「ヲタ芸」の代表作です。
最後の謎解きが大きく改変されたらしい。
しかしそれは「ヲタ芸」でしかないでしょう。
これは「エンドのあり方」への拘りであって「オリジナル信仰」ではなく「ヲタ芸」です。
「信仰生活のあり方」を鑑賞することが啓蒙芸術性鑑賞ですから「信仰弾圧」の「ヲタ芸」は政治的宣伝コンテンツなのです。
街宣車のようなものでしょう。
公共放送NHKは街宣車ですね!
まんが
cartoon; comics
漫画。滑稽または風刺的な目的で描かれる絵。コミックスの同義語。単純な笑いを意図したものから,政治的,社会的なものまで多くの形式がある。印刷術の発展とともに急速に発達し,17世紀頃からフランスでは J.⇨カロらの版画によるまんがが注目され,19世紀には H.⇨ドーミエの風刺的芸術作品が生れた。イギリスでは 1841年に風刺週刊誌『パンチ』が出され,世界各地に波及。現在では専門誌のほかに新聞,週刊誌,映画などを媒体として数多く発表されている。日本では漫画の単行本を特にコミックスと呼ぶことが多く,現在では全出版物の3割を占めるといわれるほどに発達,100万~200万部の発行部数をもつものもある。同時に内容的にもかつての子供専用から青年,OL,サラリーマン,主婦向けなど多様化し,レディース・コミックや経済コミックなど分野が拡大した。難解な経済問題や政治・国際・防衛問題までをテーマとし,ヒットしたものも少くない。
エスエフ【SF】
science fiction
おもに 20世紀に盛んになった文学ジャンルで,科学の発達とその驚異を取扱い,それが未来,架空の現在もしくは過去のこととして設定される。対象となる科学も,事実に基づく場合から,こじつけ,矛盾にいたるまで多様である。ただ小説全体を通じて,科学的態度,方法,用語に対する少くとも表面上の忠実さからくる真実らしさが要求される。古くは2世紀のルキアノス,17世紀のシラノ・ド・ベルジュラックの月旅行の物語,スウィフトの『ガリバー旅行記』(1726),ボルテールの『ミクロメガス』(52),M.シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)などの先例があるが,本格的な SFの出現は,近代科学が起り,物的世界の可能性に一般の関心が高まった 19世紀後半のことで,ベルヌと H.G.ウェルズに負うところが大きい。ベルヌは『月世界旅行』(65),『海底2万里』(70)で,ロケットや潜水艦による世界の拡大を描き,ウェルズは『タイム・マシン』(95),『透明人間』(95)のほか,『きたるべき世界』(1933)ではきたるべき大戦後の世界を予言した。初期の作品は,娯楽,社会批評,予言などを目指したが,科学の発達を利用して迫真の描写ができるなど,特殊な可能性が徐々に開発されるにつれ,独自のジャンルとして認められるにいたった。 1926年にはアメリカで世界最初の SF専門誌『アメイジング・ストーリーズ』が H.ガーンズバックにより創刊され,同様の雑誌が続々と発行されて SFは大いに流行したが,同時に宇宙活劇といった「スペース・オペラ」が横行し,低俗で扇情的なパルプ・マガジン向けのものというイメージを一般にうえつけることともなった。これが払拭され,批評に耐えるまじめな文学表現として再浮上できたのは,アシモフ,ブラッドベリー,A.C.クラーク,ハインラインなどの豊かな科学知識をもつ練達の作家たちの長い努力による。 A.ハクスリーの『すばらしい新世界』(32),チャペックの『山椒魚戦争』(36),オーウェルの『1984年』(49)などが,SFの手法と約束に従って書かれたが,少くとも 20世紀なかばまで続いた SFの低い評価を反映して,ほとんどの場合 SFと称していない。第2次世界大戦後の SFのブームは,宇宙旅行,コンピュータ,原子力,遺伝学など現代科学のめざましい進歩がすでに多くの作家によって予見されていたことを大衆が実感したのと相まって,このジャンルの評価を徐々に高め,非写実文学の主要な,そしておそらく 20世紀の最も特徴的な形態として認めさせるにいたった。日本では戦前の海野十三を先駆として,50年代後半から 60年代にかけて,星新一のファンタジックなショート・ショート,小松左京の文明批評的な作品が出て,ジャンルとして確立され,筒井康隆の「ブラック・ユーモア」などが広がりをみせた。
かがく【科学】
science
現在では特に自然科学を,ときには哲学を除いたすべての学問をいう。科学の語源であるラテン語の scientiaが scio(「知る」の意)の派生語であることからわかるように,本来は感情や信仰から区別された,理性的あるいは知的な全学問をさすものであった。すなわち体系化されたすべての知識をさす。この事実は古代ギリシアにおける学 epistēmēの成立からも明らかである。これを哲学と科学に2大別するとき,狭義の科学は必ず一定の仮定より出発するが,哲学はその仮定の成立根拠を問う。古代においては科学と哲学の区別はなく,科学が分化するのは近世,特に F.⇨ベーコン以降である。彼は人間の精神の能力により学を分類したが,19世紀以後は対象の差異により分類され,さらに新カント派では方法の差異により分類される。科学は人間活動の歴史的産物で,その対象,研究の方法,結果の社会的効用のいずれの点でも時代を反映しているが,一方では科学研究の結果がしばしばその時代の経済活動や社会思想を支配する。
ビング・クロスビー(アメリカCBS)を標的にしたカトリック信仰への信仰弾圧
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村上春樹の音楽趣味に関してもカトリック信仰を信仰弾圧するシーンが多々あります。
それは「信仰から形成されるオリジナル」をオート・リピートにして二十六回聴くシーンに代表されています。
何故ならばリアリズムに対しオリジナル信仰を何回聴いても無力であるという主張です。
それはカトリック信仰への信仰弾圧のシーンとして描かれています。
不思議な超常現象が当たり前のように起こる村上春樹ワールドに於いてカトリック信仰だけは効力を喪失しています。
何回聴いても奇跡は起きません。
村上春樹ワールドではカトリック信仰は信仰弾圧の対象でしかありません。
「ねじまき鳥クロニクル」の「壁抜け」を容認した「マンガ的なんでもあり」の村上春樹ワールドの中で「カトリックロゴス感覚」の奇跡だけはタブーとされています。
それは村上春樹ワールドがカトリック信仰を信仰弾圧した「ヲタ芸」の存在だからです。
カトリック信仰では「マンガ的なんでもあり」は通じません。
「マンガ的なんでもあり」では駄目なのです。
しかし村上春樹は「マンガ的なんでもあり」を描き続けました。
では実際に「ヲタ芸」がリアリズムに効果的でしょうか?
それはリアリズムを信仰弾圧し嘲笑する「マンガ的なんでもあり」の勝利を示している。
リアリズムに対し「ヲタ芸」が勝利することを意味しています。
「現実を笑う!」
しかしそれはアホのすることです。
「信仰から形成されるリアリズム」を信仰弾圧し「ヲタ芸」により「スター」の如く祀り上げ崇拝する。
そしてそのクリエーターは高評価される。
それはネオ・ナチズム(クールジャパン)を高評価して救済されることと同じです。
「ハイル・ヒットラー!」
それが村上春樹ワールドです。
リアリズムを信仰弾圧し「ヲタ芸」が勝利する村上春樹ワールドは典型的なネオ・ナチズム(クールジャパン)です。
「現実を笑う!」そして「人を笑う!」それが村上春樹ワールドです。
カトリック信仰の「ストレイシープ」を導く「善き羊飼い」の「白ミサ」へ一々敵対し信仰弾圧する「ヲタ芸」の構図の象徴として村上春樹の「羊男」の存在があったと言えます。
最高悪の存在が「羊男」なのです。
村上春樹のおぞましい性根の悪さを感じます。
村上春樹ワールドによると彼はいつまでも「高校生」」でありイノセントと言う安全地帯の住人だった。
しかしそれはバビロニアの「バベルの塔」でありカトリック信仰を禁忌として閉め出す「神の門」であった。
それが「羊男」の意味だったのです。
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そして「ヲタ芸企業」しかいなくなった日本国を憂う
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絵本「ピーターラビット」のカトリック信仰を信仰弾圧することで「スター」の如く祀り上げ崇拝されたジャズ喫茶「ピーターキャット」だったのです。
それは「ヲタ芸」だった。
村上春樹はそこで「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)を司っていたのです。
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それはオリジナル信仰を信仰弾圧し「ヲタ芸」を上位とするネオ・ナチズム(クールジャパン)である。
オリジナル信仰(リアリズム)を嘲笑しカトリック信仰を信仰弾圧する。
そして「ヲタ芸」を形成し現状から絶対命令と絶対服従がなされる。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)である。
村上春樹の「ヲタ芸」はそのような「カルト(知の鵜呑み)」により形成され、そして「リアリズム(知の廃棄)」を信仰弾圧することで支配権を確立する。
彼は無責任な成功者然としていられるのだ。
ユニクロの「ヲタ芸」は村上春樹の「ヲタ芸」と同じ構図を描いている
何故なら「オリジナル信仰」を信仰弾圧し「ヲタ芸」により世界中で祀り上げ崇拝される構図が成立しているからである。
そしてその彼らの魅力とは「オリジナル信仰」を貶め冒涜した「ヲタ芸」が形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)である。
最も劣等な存在が最も優等な存在とされるネオ・ナチズム(クールジャパン)が彼らの魅力なのです。
何故ならば「ヲタ芸」が形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)は最も劣等と言える存在だからです。
それは「最大のギルティ」です。
それはアドルフ・ヒットラー総統と同じあり方で同じ魅力なのです。
ユニクロの魅力と村上春樹の魅力はアドルフ・ヒットラーの魅力と同じ「ヲタ芸」が形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)なのです。
「俗物の極み」が魅力ということです。
彼らはスカトロジストなのです。
しかし「魅力」は「魅力」であり「スカトロジスト」は「スカトロジスト」です。
「魅力」は「魅力」でありそれが真実の魅力を見出す姿勢です。
それが「最高のイノセント」です。
しかし彼らの魅力は「魅力」は「スカトロジスト」であり「スカトロジスト」は「魅力」となっています。
それでは真実の魅力を見いだせません。
そこにあるのは最高悪のスカトロジストです。
それが「俗物の極み」です。
村上春樹はユニクロの創業者一族柳井家のように無責任な成功者であるだろう。
しかし最近ユニクロの創業者一族柳井家が世界的有名建築家とタッグを組んで公共トイレ事業に乗り出したらしい。
それは「国民はトイレ掃除せよ!」というメッセージである。
トイレの神様(柳井康治)ですか?
それは一般に社会的善行と見做されるでしょう。
私の知人が新興宗教に嵌った時も早朝に公共の場の掃除をしていました。
その人は比較的若くして癌を患いそれがきっかけでその新興宗教に入信したらしいのです。
私もしつこく入信を勧誘され困りました。
しかしそういった新興宗教は「信仰(知の廃棄)」を信仰弾圧した「カルト(知の鵜呑み)」であるのです。
要は「信仰生活」(リアリズム)がないのです。
「ヲタ芸」が形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)がカルトの正体です。
それは絶対命令と絶対服従の関係性です。
「最大のギルティ」です。
柳井康治(柳井正の息子)は勘違い人間ではないのか!
彼の公共トイレ事業は公共トイレ掃除の絶対命令と絶対服従を示している。
リアリズムを信仰弾圧した「ヲタ芸」が社会的善行としてカルトを形成し公共トイレ掃除を国民に命じる。
「ユニクロカルトここに極まれり!」
はっきり言ってユニクロはオリジナル信仰を信仰弾圧することでサプライチェーンにより安価に製造したヲタ芸商品を「日本ブランド」の信用神話を利用して販売し商売しているだけではないのか!
本来コピー商品は「オリジナルブランド」からライセンスを付与されて正規の販売が可能となる。
そしてそれ以外のコピー商品は海賊版と呼ばれ違法となる。
しかしユニクロは自社製品を謳っているが実際はオリジナル信仰を信仰弾圧した安価な自社製品(ヲタ芸)で商売をしている。
例えばシエラデザインズのマウンテンパーカなどは解りやすいだろう。
ライトオンではライセンスを付与された中国製の正規品を販売していた。
しかしユニクロはオリジナル信仰を信仰弾圧した安価な自社製造(ヲタ芸)で節操もなく商売をする。
ユニクロは「コピー商品」に対する認識がおかしいと感じる。
完全にオリジナル信仰というカトリックロゴス感覚を信仰弾圧している。
オリジナル信仰を信仰弾圧した「ヲタ芸」による詐欺的商法で「コピー天国」を形成し荒稼ぎした日本企業となっている。
はっきり言えば「日本国の恥」であるだろう。
ユニクロは「グレーゾーン」の世界的企業なのです。
なぜこのようなユニクロの海賊版まがいの商法が容認されているのか不思議でならない。
これは最初の方で指摘したカトリック信仰を信仰弾圧することで形成した安全地帯によっている。
ユンケル黄帝液の「ヲタ芸」は全ての安全地帯(犯罪の温床)に共通した「医術カルト」となっている
それは「密室空間」の危険性です
その「安全地帯」の形成はイチローの身勝手なルーティンによるプレースタイルが容認されたあり方と同じである。
彼は何故かいつもハイテンションで奇妙に頭の回転を誇っている。
しかし彼の頭の回転の速さにはカトリック信仰の認識が全く無い。
それは「サイエンスフィクション(マンガ的なんでもあり)」という「ヲタ芸」の形成と似ている。
それは「天才の思考実験」であるのです。
イチローは天才バッターと言われている。
そして村上春樹も天才作家と言われている。
ユニクロの柳井正も天才経営者と言われている。
天才芸術家ピカソもその一人だろう。
何が入っているのか意味不明な「ユンケル黄帝液」にはカトリック信仰を信仰弾圧する「神の門」(バベルの塔)の意味がある
「ユンケル黄帝液」の中身はさっぱりわからない!
カトリック信仰から自閉した安全地帯の存在が「ユンケル黄帝液」の中身となって象徴されている。
「ユンケル黄帝液」の中身は国立千葉大学医学部附属病院の和漢診療科を想起させる。
私は病院近くの処方箋薬局でものすごい量の漢方薬を処方された患者を目撃した。
そして驚きのあまり薬剤師の女性に尋ねてみたのです。
彼女はあのような処方は国立千葉大学医学部附属病院専用であって他病院を対象にした処方箋薬局では取り扱いがないと発言した。
そして彼女自身もこの処方箋薬局の担当になってあのような処方に驚いていると語っていた。
「ユンケル黄帝液」は国立千葉大学医学部附属病院の和漢診療科と何か関係があるのかもしれない。
何故ならば単なる漢方薬なら東洋医学として成立したものがある筈なのです。
しかしこれらは得体のしれない処方によって独自にブレンドされたものである。
この「独自性」は「東洋医学」でもなく「西洋医学」でもない。
しかしこの「独自性」は「オリジナル信仰」ではない。
それは「ヲタ芸」の構図です。
「医学」を貶め冒涜し「医術」を「スター」の如く祀り上げ崇拝する「ヲタ芸」なのです。
「医学」は「医術」であり「医術」は「医学」となっています。
これは医術カルトです。
「医学」は「医学」であり「医術」は「医術」となることは真実の医学です。
医術カルトはカトリック信仰を信仰弾圧した「独自性」の形成であり犯罪者の安全地帯として「犯罪の温床」となっていると推察される。
それが日本の「独自性」であり「密室空間」の危険性であるのです。
真実の医学が医術カルトには存在していません。
理屈ではなく屁理屈なのです。
「イチローよ!」
「プロ野球選手がそんなもん飲んで大丈夫なのか?」
はっきり言ってイチローは穢い。
彼が意図してやっていることは明らかだろう!
何故なら彼は「最大のギルティ」であるからです。
「綺麗は穢い」「穢いは綺麗」がイチローであるのです。
しかしそれはウィリアム・シェイクスピア「マクべス」の三人の魔女が司った「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)であるだろう。
それに対し「綺麗は綺麗」「穢いは穢い」が「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)です。
そういった存在はカトリック信仰を持った「最高のイノセント」です。
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Act 1
Thunder and lightning.Enter three Witches
First Witch
When shall we three meet again
In thunder, lightning, or in rain?
Second Witch
When the hurlyburly's done,
When the battle's lost and won.
Third Witch
That will be ere the set of sun.
First Witch
Where the place?
Second Witch
Upon the heath.
Third Witch
There to meet with Macbeth.
Second Witch
Paddock calls.
Third Witch
Anon.
ALL
Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.
Exeunt
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そして私に言わせれば「イチローは穢い」です。
そしてそのあり方は村上春樹も同様であり「村上春樹は穢い」です。
そしてユニクロも同様であり「ユニクロは穢い」です。
又総称して「天才芸術家ピカソは穢い」と言えます。
何故ならば「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)を司った「最大のギルティ」だからです。
ユニクロの企業理念は「ヲタ芸」だった
それはユニクロの企業ロゴに象徴されている
ユニクロに「信仰から形成されるオリジナル」は全く無いのです!
ユニクロはオリジナル信仰を信仰弾圧した「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)でしかない。
「ヲタ芸」を誇るのはネオ・ナチズム(クールジャパン)でしかないのです。
ユニクロは誇れるものを何も作っていない。
柳井正の啓蒙芸術家ぶりに失笑する。
要はユニクロは世界的企業になったと言われているけれど、しかしカトリック信仰を信仰弾圧したハーケンクロイツ(逆鉤十字)でしかない。
それは世界的企業とは言えない証しであるのです。
ユニクロの企業ロゴは何を示しているのでしょうか?
「UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE」である筈です。
しかし香港において生じた「UNI-CLO」を「UNI-QLO」とする法人登録ミスが現在の社名の起源と言われている。
これではユニクロは「カトリックロゴス感覚」を信仰弾圧した「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)の社名でしかないでしょう。
何故ならば「UNIQUE QLOTHING WAREHOUSE」となってしまうからです。
本来のカトリックロゴス感覚である筈の「UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE」が完全に信仰弾圧され否定されているのが現在のユニクロであるのです。
「信仰から形成されるオリジナル」(ブランド)を信仰弾圧する「ヲタ芸」によって「詐欺的商法」を形成した企業がユニクロ(ヲタ芸ブランド)なのです。
「ヲタ芸ブランド」が大威張りしては「オリジナルブランド」に失礼過ぎます。
「+J」について
ジルサンダーがユニクロで「+J」を販売することが話題になったことがあります。
しかしジルサンダーのミニマリズムは質の良い材料を使用することで価値があるのです。
それをユニクロの材料でそのミニマリズムを製品化したらオリジナル信仰は信仰弾圧されます。
ジルサンダーを信仰弾圧することで自らの「ヲタ芸」を称えたのがユニクロの「コラボ企画」です。
こうなるとコピー商品の方がまだマシと言えます。
ユニクロはただオリジナル製品を信仰弾圧し自らの「ヲタ芸」を誇る「詐欺的商法」でしかないでしょう。
公共トイレ事業は社会的善行ですね。
しかし「信仰から形成されるオリジナル」の欠落は倫理性の欠落を示しています。
オリジナル信仰を信仰弾圧し節操のない「ヲタ芸」による「詐欺的製品」で荒稼ぎしたユニクロ創業者一族がいくら社会的善行(公共トイレ)を声高に主張しても倫理性は完全に欠落している。
私はあなた達に威張られたくはない!
いい加減にしてください!
「コピー」と「ヲタ芸」の違いとは何だろうか?
「コピー」には「オリジナル信仰」への「リスペクト」があります。
hom・mage [Fr. ᴐmaːʒ]
―n. ⦅フランス語⦆ オマージュ:芸術家・作家などへささげる敬意,またそれを表すための芸術作品の献呈. cf. HOMAGE
しかし「ヲタ芸」は「オリジナル信仰」への信仰弾圧であり「リスペクト」がないのです。
ちゅうせいせいやく【忠誠誓約】
homage
封臣誓約とも呼ばれる。ヨーロッパ中世封建社会において,家臣として主君に奉仕することを誓約(→託身)する儀式。封建君主に対する家臣契約の標識となるもので,誓約者は無帽,無装備でひざまずいて両手を差出し,主君はこれを両手で受け,家臣として認める旨の宣言を行う。次いで誓約者は起立し,聖書に右手を置き,生涯の忠誠を誓った。身分制国家においては,君主の登位に際して諸身分が集団的にこれを行い,君主の側はその条件として諸身分の特権を確認する慣習があった。
ユニクロは「コピーブランド」にもなり得ない「ヲタ芸」の「詐欺的商法」と言えます。
それは昨今巷で市民権を得て話題となっている日本サブカルチャーのコミックマーケットと言われる「安全地帯」の感覚を利用しています。
それによってカトリック信仰を信仰弾圧し悪質に詐欺的商売を成立させた「庵野秀明グループ」と同じあり方となっています。
彼らは見たまんまの「ヲタ芸」なのです。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)であり「商法」は「詐欺性」であり「詐欺性」は「商法」なのです。
「最大のギルティ」です。
しかし「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)では「商法」は「商法」であり「詐欺性」は「詐欺性」なのです。
「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)として登場するのが中国の商売の神「関羽雲長」である。
それは倫理性を示していてイマーゴ(神の似姿)なのです。
「最高のイノセント」です。
ユニクロの創業者一族柳井家に一言申す!
「そこまで世界的建築家を動員し社会的善行を主張するなら公共トイレ掃除はユニクロ社員の仕事にせよ!」
「ユニクロカルトは社員だけと考えてください。」
「国民までユニクロカルトだとするのは失礼ではないですか!」
「国民を舐めんなよ!」
「たかがヲタ芸で大企業となったからと言って大威張りするな!」
「節操の無さを社会的善行(公共トイレ)の印象操作で誤魔化し国民に対し偉そうにユニクロカルトを強要している!」
「それはユニクロによる絶対命令と絶対服従の形成の蛮行である。」
「それはもう最高善の神が許さないだろう!」
「神罰がきっとユニクロに下る!」
「馬鹿の柳井家!」
「安藤忠雄も隈研吾もヲタ芸建築で大威張りしている愚か者だ!」
※世界の建築賞は「ヲタ芸」を高評価する無能集団の集まりなのです。
「あんたら才能のない狂ったチンパンジーだ。」(ジョーカー!)
※チンパンジーとはカトリックロゴス感覚を信仰弾圧する象徴であるだろう。
村上春樹はユニクロの創業者一族と似ているのです。
※「詐欺商売」で私服を肥やした「完全犯罪」だろう。
※アホな世界的建築家もカトリックロゴス感覚を信仰弾圧した「低能児」に過ぎない。
※「粗大ごみ」を作って大威張りしてはいけない。
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東京国際映画祭2023の審査委員長 ヴィム・ヴェンダースの正体
「信仰心理描写」の傑作映画
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ドイツ人のヴィム・ヴェンダース監督はネオ・ナチズム(クールジャパン)だ!
「美学」(叡知界)
びがく【美学】
aesthetics
価値としての美,現象としての美,美の体験などを対象とする学問。諸学の上位に位置する美そのものの学を唱えたプラトンを代表とする西洋の伝統的美学は,超越的価値としての美を考察する。一方,1735年⇨バウムガルテンによってたてられた aesthetics(感性的認識の学)としての美学は,主として芸術美を享受体験のなかで考察する。芸術と美を学問対象として区別すべしとする主張は,19世紀末 K.フィードラーによって提出された。学問としての自律性の要求から E.⇨スーリオらは美学固有の対象を形にみている。科学的実験美学は,1876年の⇨フェヒナーに始った。概して美学のなかには一般芸術学が含まれ,個々の芸術ジャンルを扱う個別的な美学(音楽美学,演劇美学など)もある。広くは個別芸術学も含む。芸術美のほかに⇨自然美,機械美,人格美などが対象となり,自然美の考察は東洋に多い。なお美学という日本語は 82年の中江兆民の『維氏美学』に始る。
えいち‐かい【˟叡˟智界】
「可想界」に同じ。
かそう‐かい【可想界】カサウ‐
哲学で、人間の思惟・理性・知的直観などの最高の認識能力によってのみ把握される超感覚的な世界。カントの悟性界もこれと同義である。叡智界。
「美意識」(感性界)
びいしき【美意識】
aesthetic consciousness; ästhetisches Bewusstsein
美,醜の評価が成り立つ対象一般に対する精神の活動ないし態度。それゆえ美的なものの創造,観照,批判を含む情緒的,直観的判断力を主体とし,ときに美的経験と同義に用いられる。経験心理学的には美意識は美的事実を内容とする意識をさし,H.⇨コーエンに代表される先験心理学的立場では,美の生産を行う特殊な統一的意識をいう。存在論的美学では,理念としての美の認識を頂点とし,感覚的快美感を底辺とする構造の意識全体をさす。
かんせい‐かい【感性界】
感覚器官を介して得られる事象の総体。カント哲学では、感性的直観の形式としての時間・空間に規定された現象界。感覚界。
ヴィム・ヴェンダースは小津安二郎へのオマージュ(イマーゴ)を切り札にしている。
私は若い頃クリスマスイブに東銀座駅から歩いて数分の「東劇」で小津安二郎の「東京物語」のリバイバル上映を一人鑑賞して過ごした。
前の席には白人の外国人カップルが楽しそうに鑑賞していたことを覚えている。
私にはクリスマスイブを一緒に過ごす恋人はいなかったのでした。
「クリぼっち」を東京銀座の「東劇」で「東京物語」を鑑賞しながら過ごした若き日の思い出である。
そしてこれは私見ですが小津安二郎の「東京物語」の「美学」(叡知界)とは「信仰心理描写」によっている。
これは「カトリック信仰から形成されるオリジナル」としての「パロディ」だった。
だから小津安二郎とは一個の「美学」(叡知界)と言えるだろう。
何故ならばカトリックロゴス感覚より受肉した叡智の形成としてあるからです。
そのような叡智の形成を「学問」というのです。
そして小津安二郎の「美学」(叡知界)とはそのようなあり方をしている。
だから小津安二郎は「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)と言えるのです。
それは「最高のイノセント」です。
しかしヴィム・ヴェンダースの小津安二郎へのオマージュ(イマーゴ)は小津安二郎の「美学」(叡知界)への冒涜として存在していると見做せる。
何故ならば「美学」(叡知界)を貶め冒涜することで自らの「美意識」(感性界)を「スター」の如く祀り上げ崇拝しているからです。
これは北野武映画のヴァイオレンスシーンの「美意識」(感性界)にも同様に象徴的です。
ヴィム・ヴェンダーは「美学」(叡知界)を創る「信仰心理描写」ではなく自らの「美意識」(感性界)を造る「崇拝心理描写」であり、北野武も「美学」(叡知界)を創る「信仰心理描写」ではなく自らの「美意識」(感性界)を造る「崇拝心理描写」であるのです。
自らの「美意識」(感性界)を造る「崇拝心理描写」は「カトリック信仰」から「神の門」により自閉し形成した密室空間です。
そこは倫理性を弾圧している独自性の空間でありディストピアとなっています。
インチキが罷り通るという主張です。
魅力の形成とは?
しかし魅力とは「唯一性のペルソナの確立」(信仰から形成されるオリジナル)によって可能となります。
それは倫理性を持つということです。
倫理性を持つことができれば魅力があるということです。
しかし倫理性を貶め冒涜し形成される多面的面子に倫理性は存在しません。
その場の情勢でころころと面子を変え誠実さも真実もない人物なのです。
そのような人物像の何処に魅力があるのでしょうか?
そのような倫理性を貶め冒涜することを魅力とすることが「ヲタ芸」なのです。
そのような「ヲタ芸」は「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)が形成する「最大のギルティ」です。
カミオカンデのニュートリノ観測のようなものでしょう。
魅力は全くありません。
何故ならばカミオカンデのニュートリノ観測とは観測ではなく非現実的に理想化されたセンサーでしかなかったからです。
それは立川談志やビートたけし、太田光の「ヲタ芸」です。
そして彼らはカミオカンデです。
「美学」(叡知界)と「美意識」(感性界)の黙示録(revelation)
「美学」(叡知界)と「美意識」(感性界)に関して言えることがあります。
「美学」(叡知界)は「信仰心理描写」によって形成される「美」の「心理学」です。
「美意識」(感性界)は自らの「意識」を「崇拝心理描写」によって祀り上げ崇拝させる「ヲタ芸」です。
「美学」(叡知界)は「カトリック信仰」の「白ミサ」によって検閲され、真理へのイマーゴ(神の似姿)が「学問」として形成されています。
だから「美学」(叡知界)なのです。
「美意識」(感性界)は「カトリック信仰」を信仰弾圧し成立する自閉空間の中で「意識」を形成しその共感を他者に要求します。
又、密室空間の中で「意識」を形成しその共感を他者に要求します。
しかしそのような「意識」の共感は「カトリック信仰」を信仰弾圧し犯罪の温床となります。
要はインチキが罷り通ることを示しています。
先程も書きましたが「美学」(叡知界)は真理へのイマーゴ(神の似姿)が「学問」として形成されます。
だからそれはマス・コミュニケーションでありメッセージとコミュニケーションによって形成されています。
それは黙示録(revelation)となります。
しかし「意識」の共感は自閉空間であり密室空間であり「マンガ的なんでもあり」の空間となっています。
当事者たちの匙加減で如何様にもなり得るのです
これで犯罪の温床となりインチキが罷り通るのです。
この「美学」(叡知界)と「美意識」(感性界)の違いはジャン・リュック・ゴダールと北野武の差に如実に現れています。
書籍「ゴダールの映画史」から見るカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する行為が生む「共感」とは?
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ここに書かれている通りジャン・リュック・ゴダールはカトリック信仰によって映画を制作したことの告白である。
何故ならばそこにはカトリック信仰からの「自閉空間」は存在せず、全てが黙示録(revelation)によっているからです。
要はインチキの罷り通りがないことを示しています。
結局は作者の匙加減で如何様にもなる凡庸な作品に価値はありません。
そこがバレてしまった時に彼らがただの「ウケ狙い」であって、しかもそれが只の「ヲタ芸」であったことが判明します。
そのようなあり方は『凡庸な作品を「スター」の如く祀り上げ崇拝しろ!』と命じるわけです。
それは「新世紀エヴァンゲリオン」のように謎解きを期待させ終盤を煙に巻いたバカな神演出と同じとなります。
「芸術性」とは「カトリック信仰のあり方」を鑑賞することを指します
謎解きではないのです
先程も書きましたがヴィム・ヴェンダース「ベルリン天使の詩」では「醜悪な天使」と「聖なる堕天使」という逆転を司った「黒ミサの儀式」(バフォメット)が決行されていました。
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これは「新世紀エヴァンゲリオン」のあり方とそっくりです。
庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」では「残酷な天使のテーゼ」と「親切な堕天使のテーゼ」という逆転を司った「黒ミサの儀式」(バフォメット)が決行されていました。
本来であれば「聖なる天使」と「醜悪な堕天使」の「白ミサ」となっている筈なのです。
そして「親切な天使のテーゼ」と「残酷な堕天使のテーゼ」の「白ミサ」となっている筈なのです。
結局、ヴィム・ヴェンダースは更にピーター・フォーク(聖なる堕天使)と刑事コロンボ(醜悪な天使)という逆転を司った「黒ミサの儀式」(バフォメット)を決行していました。
本来であればピーター・フォーク(醜悪な堕天使)と刑事コロンボ(聖なる天使)の「白ミサ」となっている筈なのです。
「新世紀エヴァンゲリオン」にも「芸術性」はなく、そして謎解きまで放棄して意味不明な映像表現で前衛芸術を宣言しました。
しかしそれは前衛芸術の難解性を利用した前衛詐欺でした。
あの映画終盤の意味不明な映像表現も「美学」(叡知界)を貶め冒涜し庵野秀明監督の「美意識」(感性界)を祀り上げ崇拝させた「ヲタ芸」に過ぎなかった。
何故ならば「カトリック信仰から形成されるオリジナル」を信仰弾圧した詐欺でしかなかったからです。
このような彼の身勝手な作風では「カトリック信仰のあり方」を見出すことが不可能だからです。
「信仰生活」を倒錯して「芸術性」の鑑賞は不可能だからです。
「新世紀エヴァンゲリオン」は「黒ミサの儀式」(バフォメット)による騙し抜き(完全犯罪)の詐欺だったのです。
「新世紀エヴァンゲリオン」とは「芸術性」にとってナンセンスな作品です。
クズだからです。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)であり「最大のギルティ」でした。
それはヴィム・ヴェンダースも同様です。
そして北野武と野田秀樹、川久保玲も同様です。
同じ詐欺的手法を使っています。
「共感」のトリックです。
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イクトゥスを串刺しにして殺している。
アンチキリストの宣言です。
北野武も庵野秀明と同様な手法です。
「美意識」(感性界)とは「共感」を他者へ強要します。
しかしその「美意識」(感性界)はカトリック信仰の「白ミサ」に検閲されず北野武監督の匙加減によって如何様にもなり得ます。
そのような北野武の「美意識」(感性界)が高評価された理由とは何でしょうか?
「共感」を生んだというのがその理由でしょう
しかしそもそもそれは「美学」(叡知界)ではなかった。
「芸術性」ではないのです。
その「ヲタ芸」が「共感」を生んだ理由とは何でしょうか?
答えは明瞭に解答できます。
「美意識」(感性界)の「共感」とはカトリック信仰の「白ミサ」に検閲されることに対し一々敵対を持っていると見做せる。
要は「カトリック信仰」の「白ミサ」へ一々敵対する行為が「共感」を生んだのでしょう。
「ヲタ芸」は村上春樹やヴィム・ヴェンダース、北野武、野田秀樹等も同様に「共感」になっている。
しかし逆にカトリック信仰から「美学」(叡知界)を形成した「芸術家」は小津安二郎でありジャン・リュック・ゴダールであった。
そこには黙示録(revelation)によるメッセージとコミュニケーションが存在する。
それはマス・コミュニケーションです。
そして「敵対」とは「最高悪サタン」を意味する。
カトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対することが「共感」を生む。
それが「最高悪サタン」だったのです。
そしてそれは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)であり「最大のギルティ」を犯していると言える。
カミオカンデ事件
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カミオカンデは「センサー問題」であって「観測の概念」ではなかった。
かんそく【観測】
observation
⇨観察し⇨測定すること。天体観測,野外観測など通常は自然の対象についての観測をいう。これに対し対象を制御された条件下において測定することを⇨実験という。なお,慣用的には量子力学的体系の測定における原理的な問題を観測の理論と呼んでいる。
sensor (sen′sŏr).〓
センサー(温度,光,磁気,運動などの物理的刺激に反応し,インパルスを認識,記録,運動,制御などに伝える装置.⇀sense).
sense (sens)〓
[L. sentio, pp. sensus, to feel, to perceive].感覚,知覚(刺激を感知する機能).
censor (sen′sōr)〓
[L. a judge, critic<censeo, to value, judge].検閲(精神分析理論において,表に現れないようにおおい隠すか姿を変えない限り意識に上ってくる無意識の考えや願望を抑制する精神的防壁).
cen・sor [sénsər]〓
―n.
1 (出版物・映画などの)検閲係,検閲官:〓
2 (風紀・操行を監視する)風紀係(監視員);(英大学で)学(生)監.
3 敵意のある批評家,あら捜し屋,うるさ型.
4 (古代共和制ローマの)監察官,ケンソル:住民調査,風紀取り締まりなどに当たった役人.
5 〖精神分析〗 検閲官:初期フロイトの夢理論で,考え,衝動,感情をそのままの形では意識の中へ入らないように抑圧する力;潜在意識抑圧力.
6 〖軍事〗 (通信文書の)検察員.
―v.t.
1 〈映画などを〉検閲する.
2 (検閲官の権能で)〈文章の章句を〉削除する(delete);…を検閲して削除[禁止]する.
[1533.<ラテン語 cēnsor(cēnsēre「意見を述べる,推薦する,評価する」より)]
cen・so・ri・an [sensɔːriən]
―adj.
カミオカンデは「美学」(叡知界)ではなく「美学」(叡知界)を貶め冒涜することで「スター」の如く祀り上がり崇拝された「美意識」(感性界)のあり方です。
CENSORなのです。
これらはサイエンス信仰(科学信仰)の「白ミサ」へ一々敵対するサイエンスフィクション(マンガ的なんでもあり)なのです。
観測装置と称するセンサーを大掛かりに建造した。
それは「純愛は大袈裟」であり「大袈裟は純愛」のあり方なのです。
又「美学は美意識」であり「美意識は美学」のあり方なのです。
村上春樹「ノルウェイの森」と同様ですね!
しかしそれは「ヲタ芸」であり「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)であった。
そしてカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する「最大の罪」を犯している。
インチキが罷り通る密室空間が犯罪の温床となったのです。
それは日本国の独自性が可能とした劣等な犯罪であった。
それがカミオカンデ事件だったのです。
カミオカンデ
KAMIOKANDE
岐阜県飛騨市神岡町の神岡鉱山の地下 1000mに設置された素粒子物理研究のための観測装置。カミオカンデは神岡陽子崩壊実験 Kamioka nucleon decay experimentの略称だったが,その後改称して神岡ニュートリノ検出実験 Kamioka neutrino detection experimentの略称となった。素粒子物理の実験家である⇨小柴昌俊が 1979年に提唱,1983年に完成した。円筒形のタンクに満たした 3000tの純水中を高速の電荷をもった素粒子が通過するときに発する光(チェレンコフ光)を,タンクの壁に取り付けた直径約 50cmの光電子増倍管で捕え,そのデータから素粒子の軌道やエネルギーを決定する。当初はすべての力を統一しようという素粒子の⇨大統一理論から予測される陽子崩壊現象を検出するのが目的だった。太陽など恒星内部の核反応から発生する⇨ニュートリノを検出できる能力もあったため,1987年2月大マゼラン星雲で起こった超新星爆発(→超新星 1987A)で発生したニュートリノを 11個検出するのに成功,この業績で小柴は 2002年のノーベル物理学賞を受賞した。さらに太陽ニュートリノ観測にも貢献,ニュートリノ天文学創始のきっかけとして,また加速器を使わない素粒子物理実験の代表として画期的な実験装置である。 1996年4月には規模を5万tに拡大した次世代装置⇨スーパーカミオカンデによる観測が始まった。
しかし「純愛は純愛」であり「大袈裟は大袈裟」のあり方から真の純愛は見いだされます。
又「美学は美学」であり「美意識は美意識」のあり方から真の美学は見出されます。
サイエンス信仰(科学信仰)はそのようなあり方です。
そしてそれは「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)と言われカトリック信仰にとって「最高のイノセント」なのです。
敵対心への「共感」は不純と言えます
「I must be a rebellious person.」 by Rei Kawakubo
これは日本のドメスティックブランドと言われ一世を風靡した服飾ブランドと同じあり方だろう。
特にCOMME des GARCONSは「美学」(叡知界)ではなく「美学」(叡知界)を貶め冒涜することにより「スター」の如く祀り上がり崇拝された「美意識」(感性界)の産物だった。
川久保玲は「美学」(叡知界)ではなく「美意識」(感性界)を司ったネオ・ナチズム(クールジャパン)だったのです。
「I must be a rebellious person.」 by Rei Kawakubo
川久保玲の「美意識」(感性界)は「美学」(叡知界)の「白ミサ」へ一々敵対心を持つことによって「共感」を形成している。
それはカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する行為であり「最大のギルティ」と「最高悪サタン」への崇拝を示している。
しかし一個の「芸術性」の鑑賞は「カトリック信仰のあり方」を見出すことです。
それはカトリック信仰から検閲される「信仰生活」です。
信仰生活とは「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)による「最高のイノセント」への導きである。
そのようなあり方こそ「真の共感」と言われます。
ネオ・ナチズム(クールジャパン)の諸君!
ユダの如く首を括ってはどうかね?
ユダ縊死
そのあと、イエスを売り渡したユダは、イエスが〔死刑を〕宣告されたと知り、 後悔して銀三十枚を祭司長たちと長老たちとに返して言った、「俺は罪なき血を売り渡して、罪を犯した」。しかし彼らは言った、「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」。そこで彼は、銀貨を神殿に投げ入れ、立ち去った。そして行って、首をくくっ〔て果て〕た。
他方、祭司長たちは、その銀貨を取って言った、「これら〔の銀貨〕を神殿の宝物庫に入れるのは、許されていない。血の代価だからだ」。そこで彼らは協議して、それら〔の銀貨〕で陶器師の地所を買い、外国からの旅人用の墓地にした。このため、この地所は今日に至るまで、「血の地所」と呼ばれている。そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが満たされたのである、すなわち、
そして彼らは、銀貨三十枚を受け取った、
値踏みされた者の値を、
イスラエルの子らの幾人かが、この者を値踏みしたのである。
そして彼らはそれら〔の銀貨〕を陶器師の地所のために払った、
私に主が命じた通りである。
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それに対してカトリック信仰による倫理性が形成するサンクチュアリは「神の王国の到来」でありユートピアです。
アンチキリストの「美意識」(感性界)を造る「崇拝心理描写」とは「美学」(叡知界)を創る「信仰心理描写」の倫理性を信仰弾圧した「ヲタ芸」と言われます。
それは「鬼才」と評されますが「最高悪サタン」を意味します。
「鬼」が「最高悪サタン」ですから間違いではありません。
それはトートロジーです。
しかし彼らに実際の「才能」はありません。
「北野武」が「ビートたけし」として人気タレントとされていますがそれもデマゴギーです。
彼らの全作品は「ヲタ芸」であって実際は才能の欠片もないのです。
「ヲタ芸」は才能ではないのです。
彼らは「低能」なのです。
まともなものは一つもありません。
tal・ent [tǽlənt]〓
―n.
1 (特定分野における生来の)才能,素質⦅for ...⦆:〓
2 (物事を達成するための)手腕,力量,腕前:〓
3
(1)⦅主に米話⦆ 才能のある人,タレント.
(2)⦅集合的⦆ 特殊な才能を持つ人々;⦅話⦆ (うまくいけばセックスができるかもしれない)魅力的な男性[女性]たち;⦅米俗⦆ ボーイ[ガール]フレンド:〓
4 ⦅集合的⦆ 〖映画・テレビ〗 職業俳優[芸能人,タレント]たち;(特に)スターたち.
5 タラント:人が使用し利用するために授けられていると考えられている心身の力,素質,才能. cf.〖聖書〗 Matt.25:14-30
6 タラント:古代の重量単位;パレスチナ,シリアで3,000シェケル(shekel),古代ギリシアで6,000ドラクマ(drachma)に相当した.
7 タラント:古代ヘブライ,アッチカの貨幣単位.
8 ⦅廃⦆ 傾向,性向.
9 ⦅豪俗⦆ 暗黒街の連中.
[中期英語,古期英語 talente<ラテン語 talenta〔talentum(<ギリシャ語 tálanton 均衡,重さ,貨幣単位)の複数形〕;「才能」の意は〔聖書〕Matt.25:14-30の「力(才能)に応じてタラントン(貨幣)を分けた」に由来]
「才能」の意は〔聖書〕Matt.25:14-30の「力(才能)に応じてタラントン(貨幣)を分けた」に由来
これは「信仰生活」に関する記述である。
というのは、「持てる者にはすべて、与えられるであろう」し、さらに付け加えられるであろう。「しかし持たざる者からは、持っているものも取り去られるであろう」からだ。そこで、この役立たずの僕を外の闇に投げ捨てよ。そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるであろう」。
「貨幣とは糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが。」
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この最悪の解釈がマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」であろう。
何故ならばこの譬の最重要部分は「成金」ではなく「カトリック信仰の場所の確保」を指していると思われるからです。
「信仰生活」に関して書かれているのです。
この譬の「持つ」とは「成金」ではなく「カトリック信仰」(信仰生活)を持つことを指していると思われます。
そして聖書は「カトリック信仰の場所の確保」が叡智を受肉すると示しそれを「タラントン(タレント)」と評した。
しかしマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は完全に「成金」を「タラントン(タレント)」としている。
それは「カトリック信仰」(信仰生活)を敵対的に禁忌としたアンチキリストのあり方です。
そのようなアンチキリストは聖書を貶め冒涜し信仰弾圧した「ヲタ芸」でしかない。
マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とは「ヲタ芸」であり「優劣逆転」の「ネオ・ナチズム(クールジャパン)」だったのです。
この「タラントン(タレント)」は「カトリック信仰の場所の確保」より「成金」というわけです。
まさにプロテスタントである。
ではこの場合にカトリック信仰(信仰生活)への信仰弾圧として貶めされ冒涜された「オリジナル」の存在とは何だったのだろうか?
それはカール・マルクス「資本論」だろう。
何故ならばカール・マルクスは資本論で「貨幣とは糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが。」と評しているからである。
北野武やヴィム・ヴェンダースのショービジネスの「成金」はマックス・ウェーバーの言う「タラントン(タレント)」と同等なのです。
この場合のタラントン(タレント)とは「成金」のことを指しています。
きっとポルチェに乗っているのでしょう。
ビートたけしは少し前まで運転手付きのロールス・ロイスを所有していたらしい。
しかし汝は「高級車の所有者」であるかもしれないが「カトリック信仰の場所の確保」は不可能な堕落者である。
それは「ヲタ芸」であり「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)だからです。
高級車万歳!
ステータスシンボルとは「最大のギルティ」です。
聖書にある通りの「タラントン(タレント)」とは小津安二郎やカール・マルクスの「タラントン(タレント)」と同等であるのです。
それはカトリック信仰を持つと言うことです。
「カトリック信仰の場所の確保」を可能とする「タラントン(タレント)」とは「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)と見做されます。
それは「最高のイノセント」なのです。
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しかし小津安二郎の「美学」(叡知界)を創る「信仰心理描写」を貶め冒涜し、ヴィム・ヴェンダースや北野武の「美意識」(感性界)を造る「崇拝心理描写」を「スター」の如く祀り上げ崇拝する。
現在の世界映画賞はそのような価値体系となっています。
「低能」が受賞するのです。
これが世界映画祭の真実です。
それは「ヲタ芸」であり「優劣逆転」の「ネオ・ナチズム(クールジャパン)」です。
実際、小津安二郎は一個の「美学」(叡知界)であり、ヴィム・ヴェンダースや北野武の「美意識」(感性界)は「ヲタ芸」です。
「格」が違うのです。
そして現在そのような「ヲタ芸」は「優劣逆転」の「ネオ・ナチズム(クールジャパン)」とされ日本文化の要とされています。
しかしそれは「みっともない話」なのです。
何故ならば「無知無教養」を晒し威張っているからです。
北野武の最新作「首」は織田信長と明智光秀、そして北野武演じる羽柴秀吉を描いたものとされている。
しかしここにカトリック信仰は全くみられない。
北野武は「信長」の「美学」(叡知界)を創る「信仰心理描写」を貶め冒涜し、北野武自らの「美意識」(感性界)を造る「崇拝心理描写」を「スター」の如く祀り上げ崇拝することを目的とした自画自賛映画を制作している。
最も性悪で最も愚鈍な作品制作と言えるだろう。
まさに「ヲタ芸」です。
北野武の存在は日本国の「粗大ごみ」であり「デブリ」である。
「世界の粗大ごみ」であり「世界のデブリ」であるでしょう。
それが現在の世界の中の日本国のあり方です。
こんな映画観る奴がバカである。
もし私がこんな映画を高評価するバカと出会ったら無知無教養のクズとして軽蔑するでしょう。
しかしこの映画を高評価するバカと出会って尊敬する姿勢こそ「ヲタ芸人」の存在であり「優劣逆転」の「ネオ・ナチズム(クールジャパン)」を煽動する最高悪サタンなのです。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
東京有楽町でロングラン単館上映作品だった「ベルリン天使の詩」の記憶
私はヴィム・ヴェンダース監督の映画作品を何作か観ている。
人生で初めて鑑賞した単館上映は有楽町で上映されていた「ベルリン天使の詩」でした。
当時高校2年生だった私は一人で有楽町に鑑賞に行きました。
単館上映のロングランで話題になっていた作品でした。
それは天使が主役でありました。
※天使に惹かれて観劇に行ったのです。
天使の視点では世界はカトリックロゴス感覚のモノクロで描かれ、人間に堕天した視点ではカトリックロゴス感覚を喪失してカラーで描かれていました。
しかしこれでは天使の持つカトリックロゴス感覚が陳腐な能力に貶められていることは明白に思えました。
心の苦痛を吐露するだけのカトリックロゴス感覚に奇跡を期待することはできないからです。
信仰心理描写の無力を論っているのです。
カトリック信仰の無力を謳うのは村上春樹に似ています。
しかしカトリックロゴス感覚を信仰弾圧しながらカトリック信仰の無力を強調するのは矛盾した主張です。
何故なら悪意も持って貶めながら魅力が欠落していると主張することと同じだからです。
天使たちも無力そのものに描かれています。
私は天使の存在自体と最後のライブのシーンは迫力があり好きでしたが天使が心の声として「ヲタ芸」を聴くシーンに嫌悪感を懐きました。
何故ならばカトリックロゴス感覚の巧妙な信仰弾圧だったからです。
そういった信仰心理描写の「ヲタ芸」は崇拝心理描写となって絶対命令と絶対服従の「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)を形成します。
それが「マンガ的なんでもあり」の形成となります。
「最大のギルティ」です。
「マンガ的なんでもあり」は信仰心理描写を信仰弾圧した「ヲタ芸」です。
それは「マンガ(サブカルチャー)」です。
「作者の匙加減」(マンガ的なんでもあり)ですべてが決定されるマンガワールド(サブカルチャー)です。
それは信仰心理描写の「ヲタ芸」として形成された崇拝心理描写の絶対命令と絶対服従の「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
ヴィム・ヴェンダース監督の天使の世界は一見モノクロでシリアスに見えます。
しかしモノクロの世界観はカトリックロゴス感覚(信仰心理描写)を信仰弾圧した「ヲタ芸」として「堕天使」を「スター」の如く祀り上げ崇拝するネオ・ナチズム(クールジャパン)でしかありません。
それは「信仰心理描写」を信仰弾圧し存在する「崇拝心理描写」です。
心の声を大天使が人に寄り添い聴いているというモノクロのシリアスシーンに「偽善」と同様の「繊細に見せる技術」を感じます。
それが「ヲタ芸」です。
カトリック信仰は繊細です。
何故ならばカトリック信仰に検閲されているからです。
そしてその「ヲタ芸」は「繊細に見せる技術」です。
カトリック信仰の無力を宣言し堕天した天使は人間の女と恋愛します。
その意味するところはカトリック信仰のアガベーを否定することです。
ヴィム・ヴェンダース監督はカトリックを信仰弾圧し堕天した天使のヲタ芸ワールドを映画として制作しました。
そこではピーター・フォークが実は堕天使の一人とされています。
何故だろうか?
ピーター・フォーク(刑事コロンボ)がどうしてカトリック信仰の無力を宣言した堕天使の一人なのだろう?
私にとって刑事コロンボはカトリック信仰に見えるのです。
何故ならば刑事コロンボは「信仰から形成されたオリジナル」でありカトリックロゴス感覚を持っていると感じるからです。
少なくとも「マンガ的なんでもあり」を拒絶しています。
それは「繊細」であり「最高のイノセント」です。
そこが刑事コロンボの倫理性(サイエンス信仰)だと感じます。
確か放送局はアメリカCBSではなくアメリカNBCでした。
ヴィム・ヴェンダース監督はピーター・フォーク(ヲタ芸)を賛美し刑事コロンボ(オリジナル)を信仰弾圧している。
それは堕天使のヲタ芸(ピーター・フォーク)を賛美しカトリック信仰の天使(刑事コロンボ)を信仰弾圧している。
または「ヲタ芸」を賛美し「カトリック信仰」を信仰弾圧している。
刑事コロンボが「信仰から形成されるオリジナル」であり、ピーター・フォークが演じる本人役の堕天使は「ヲタ芸」が形成する「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
それは「繊細」を信仰弾圧した「繊細に見せる技術」です。
ヲタ芸ワールド万歳!
ハイル・ヒットラー!
典型的な「ヲタ芸」です。
だからヴィム・ヴェンダース監督は当初からカトリックロゴス感覚を信仰弾圧する作風だったと判断できます。
ヴィム・ヴェンダース監督の標的はカトリック信仰の抹殺だったのです。
ヴィム・ヴェンダース監督はかなり狡猾で陰険な男だね!
ヴィム・ヴェンダース監督は嫌らしいな!
何故ならばカトリック信仰から天使が堕天する正当性を「カトリック信仰の無力さ」と「男女の愛の力」として描いたからです。
これは村上春樹の手法と同様です。
それは最強の「カトリック信仰撃墜の布陣」だったのです
信仰弾圧は「イノセントの透明感を纏うヴィム・ヴェンダース監督」によってなされていた。
「イノセントの透明感を纏う存在」は「知の廃棄」の容易さではなく「知の鵜呑み」の容易さによる「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
それが絶対命令と絶対服従を形成しています。
新海誠監督の「嘘のない言葉」と同様です。
それも「イノセントの透明感を纏う言葉」です。
新海誠監督も村上春樹もイノセントの透明感を纏っています。
しかしそれはカトリック信仰を信仰弾圧した「ヲタ芸」です。
要は信仰ではなく「信仰に見せる技術」なのです。
これは「村上春樹ワールド」と同じです。
そしてカトリック信仰からの堕天はアドルフ・ヒットラーを指し示しているのです。
「最高悪サタンの印刻」でありハーケンクロイツ(逆鉤十字)の存在確認です。
ベルリン天使の詩(アドルフ・ヒットラー賛美)
カトリック信仰からの堕天使を賛美している。
啓蒙芸術性作品を装った映画である。
啓蒙芸術性ではなく啓蒙芸術性を信仰弾圧し「ヲタ芸」で威張っているのです。
それは啓蒙芸術性を信仰弾圧した「啓蒙芸術性に見せる技術」の作品である。
これはアドルフ・ヒットラーを崇拝し忠誠を示すドイツ映画なのだ!
極右映画「ベルリン天使の詩」だったのです。
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「イノセントの透明感を纏う」とは「ヲタ芸」である。
そして「ヲタ芸」とは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
イノセントを信仰弾圧した「ヲタ芸」は「イノセントに見せる技術」であるのです。
それは「イノセントの透明感」を神演出(ヲタ芸)する。
完全な偽物です。
「イノセント」ではなく「ギルティ」なのです
私は2023カンヌ映画祭のヴィム・ヴェンダース監督と主演俳優の役所広司をYOUTUBEで見ましたが両者とも「イノセントの透明感」を纏っていました。
それは彼らがイノセントではなく「ヲタ芸」であり「イノセントに見せる技術」であることを物語っています。
in・no・cent [ínəsənt]〓
―adj.
1 〈人が〉純潔な,清浄な,無垢(むく)の;世間知らずの:〓
2 〈人が〉無罪の,潔白な;(…の)罪を犯していない⦅of ...⦆:〓
3 〈行為などが〉悪意[悪気]のない:〓
4 〈事が〉無害の,毒にならない;〈病気などが〉悪性でない:〓
5 〈取引などが〉合法的な,公認の;(特に)禁制[密輸]でない.
6 ⦅話⦆ (…の)ない⦅of ...⦆:〓
7 〈人が〉無邪気な,無心な,天真爛漫(らんまん)な;お人よしの:〓
8 (…を)知らない,無知の;(…に)気づいていない⦅of ...⦆:〓
―n.
1 (心の)純潔[清浄]な人;潔白な[無罪の]人.
2 小さな子供,幼児:〓
3 無邪気[天真爛漫]な人.
4 新米,新参者.
5 おめでたい人,あほう,まぬけ:〓
6 ⦅米黒人俗/軽蔑的⦆ (黒人の公民権運動を支持する)進歩派の白人.
7 ⦅通例 innocents⦆ ⦅単数扱い⦆ ⦅米⦆ =bluet 1.
◊[文学・著作物]The Innocents Abroad『赤毛布外遊記』M.Twain のヨーロッパ旅行記(1869).
[c1200.中期英語<ラテン語 innocēns 無害な=in― IN―³+nocēns(nocēre「害する」の現在分詞)]
in・no・cent・ly〓
―adv.
イノセント〖innocent〗
〘形動〙
〓無実の。潔白な。
〓純潔な。また、無邪気な。「―な愛」「―な遊び心」
guilt・y [ɡílti]〓
―adj. (guilt・i・er,―i・est)
1 (特に道徳・刑法上の)罪を犯した,有罪の(↔innocent);(…の)欠点のある⦅of ...⦆:〓
2 犯罪的な,罪になるような;罪に関係のある:〓
3 罪の意識のある,やましい;罪の意識で苦しむ,自責する;罪の意識から生ずる:〓
4 ⦅古⦆ 認識している,知っている,意識している.
5 ⦅廃⦆ (…の)責めを負うべき⦅of ...⦆:〓
―n. ⦅the guilties⦆ 罪悪感,罪の意識.
[1000年以前.⇀GUILT]
guílt・i・ly〓
―adv.
guílt・i・ness〓
―n.
1988年(ベルリン天使の詩)の後にも何作かヴィム・ヴェンダース監督の作品を鑑賞しました。
東京を舞台にした作品もありました。
東京のカプセルホテルが滑稽に描かれていました。
それはオリジナル(リアリズム)を信仰弾圧する「ヲタ芸」でした。
私はこの何処が小津安次郎へのオマージュであるのか理解できなかった。
観光客が制作した出来の悪い東京物語でした。
ヴィム・ヴェンダース監督作品はオリジナル信仰ではなく、オリジナル信仰を信仰弾圧する「ヲタ芸」でした。
「信仰から形成されるオリジナル」の才能はなく、オリジナル信仰を信仰弾圧して「ヲタ芸」を上位とするネオ・ナチズム(クールジャパン)が「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)を形成しています。
ヴィム・ヴェンダース監督は才能がないのに威張っているタイプです。
(押井守 etc)
それは「最大のギルティ」です。
ドイツ人のヴィム・ヴェンダース監督はネオ・ナチズム(クールジャパン)だったのです。
ヴィム・ヴェンダース監督は「繊細」を信仰弾圧し「繊細に見せる技術」を賛美します。
それが彼の作品の特徴であり「ヲタ芸」のあり方です。
怖いですね!
ドイツですよ!
ヨーゼフ・ゲッベルスの復活!
アドルフ・ヒットラーの復活!
私達はカトリック信仰に生きるしかありません。
オリジナル信仰を復活せよ!
信仰弾圧は「ヲタ芸」です!
だからオリジナル信仰を信仰弾圧し自ら「ヲタ芸」を上位とします。
オリジナル信仰を再興せよ!
それが芸術的生き方です。
カトリック信仰から検閲される「信仰生活」とはこのようにあります。
「ヨーゼフ・ゲッベルスとアドルフ・ヒトラーを屠殺しなければならない!」by ダビデ
こういった感覚をカトリック信仰が感じる「繊細」と言うのです。
そして「最高のイノセント」です。
村上春樹の翻訳に見る黙示録(revelation)
では村上春樹の翻訳はどうでしょうか?
私は拓殖大学外国語学部英米語学科を卒業しているので少々翻訳にはうるさいです。
そして文学作品にも私はうるさい方なので村上春樹の翻訳の出来に関して評価を厳しくすることはできるでしょう。
ただ私見で批判すると翻訳作品とは直訳から意訳することを基本とすれば多少の巧拙の違いがあっても一般にはあまり変わりません。
それはオリジナルをしっかり理解できていればいいのです。
それは英文読解能力ではなく、文章読解能力が大切なのです。
それはカトリックロゴス感覚の必要性を示しています。
言語学の語族は問われないのです。
翻訳作品に関して文章読解能力(カトリックロゴス感覚)があれば村上春樹の翻訳であっても他人の翻訳であっても変わりません。
逆にそれがなければ致命的ということです。
だから翻訳者が信仰心理描写と崇拝心理描写の両方に精通している必要があるのです。
それはカトリックロゴス感覚を持つことです。
文学者にはそれが必要なのです。
それはオリジナル信仰の翻訳作品がオリジナル信仰を信仰弾圧した「ヲタ芸」になってしまっては絶対に駄目だからです。
何故ならばオリジナル信仰の信仰弾圧をして「ヲタ芸」として翻訳作品を制作することは最も愚かな行為だからです。
そこにはイマーゴ(神の似姿)がないからです。
三つのポイント
ここで判断されるポイントが三つあります。
一つ、村上春樹が翻訳する作品は「信仰から形成されるオリジナル作品」だろうか?
二つ、村上春樹が翻訳する作品が「信仰から形成されるオリジナル作品」であるなら彼に翻訳能力はあるだろうか?
三つ、村上春樹には「信仰から形成されるオリジナル」を解す資質があるのだろうか?
答えはもう出ています。
何故ならばカトリック信仰を信仰弾圧する村上春樹の作風にカトリックロゴス感覚がある訳がないからです。
彼には文学者としての資質がないのです。
村上春樹の英語翻訳から馬脚(悪魔の足)を見るということ
私はいくらか村上春樹が翻訳した英語文学を読んだ。
例えばレイモンド・カーヴァーであったり、サリンジャーであったり、レイモンド・チャンドラーであったり他にもあったと思う。
そして私はそれなりの読書家を自負しており原文を読むほどの根気はないけれど翻訳の読み比べを趣味としている。
翻訳者の違いは結構大きいのです。
そしてそこに作品理解(文章読解能力)が大きく関わっていることを知った。
それはカトリックロゴス感覚です。
要は「信仰から形成されるオリジナル」を解す資質が原作者だけではなく翻訳者にも必要なのです。
ここで言えることは村上春樹が翻訳する作品の特徴が「ヲタ芸」であるということだと感じる。
要は村上春樹は元々「ヲタ芸」の作品を翻訳している。
それはある意味当たり前です。
何故ならば「信仰から形成されるオリジナル」を村上春樹が翻訳したら彼がオリジナル信仰が理解できないことが明らかになりそれは彼の「恥晒し」ということになります。
その時に人は村上春樹が馬脚を露すのを見るのです。
○馬脚を露(あらわ)す
元曲(陳州糶米、第三折)つつみかくしていた事があらわれる。ばけの皮がはがれる。ぼろを出す。
レイモンド・チャンドラーの「難解さ」と「詐欺性」
その証拠はレイモンド・チャンドラーの翻訳が分かりやすいと思います。
ただレイモンド・チャンドラーに関して私はよく解りませんでした。
すでに翻訳されている作品を村上春樹が再訳したのです。
私は一通り読んでみました。
一番のお気に入りは「高い窓」です。
※「高い窓」は例外的に信仰心理描写で制作された作品だと見做している。
ただ私はいつもフィリップ・マーロウの推理に当惑していました。
フィリップ・マーロウは様々な綾から推理を導き出します。
そして犯人を指摘していきます。
犯人はフィリップ・マーロウを騙すための心理的トリックを弄します。
そしてそれによって逆に犯人が馬脚を露すこととなります。
フィリップ・マーロウはそこから見事に犯人を見つけるのです。
ただなんだか私にはこのフィリップ・マーロウの推理にいつも釈然としないものを感じていた。
それは信仰心理描写と崇拝心理描写として見ることができるでしょう。
チャンドラーワールドは村上春樹ワールドに似ているのです。
それは心理学の「ヲタ芸」でしかないところだろう。
要は「信仰から形成されるオリジナル」が信仰心理描写であり、それを信仰弾圧して形成される崇拝心理描写があるところです。
しかしレイモンド・チャンドラーと村上春樹は崇拝心理描写で作品を制作している。
カトリックロゴス感覚が存在していない。
それは啓蒙芸術性の不可能性を示しています。
レイモンド・チャンドラーはノーベル文学賞受賞を考えていたとされています。
それは村上春樹の現在のあり方と似ています。
しかしレイモンド・チャンドラーは村上春樹同様に啓蒙芸術性ではないのです。
だから彼らは文学ではないし文学者でもない。
それは人間心理の「ヲタ芸」でしかないのです。
それは「信仰から形成されるオリジナル」を信仰弾圧し「ヲタ芸」を上位とする姿勢でありネオ・ナチズム(クールジャパン)であると指摘できるでしょう。
それは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)です。
要は人間を馬鹿にした話なのである。
チャンドラーの推理は崇拝心理描写であり人間心理の「ヲタ芸」だった。
要は「とんねるず」の石橋貴明(木梨憲武)の弄する人間心理の「ヲタ芸」と同等ということです。
それらは「思わせ振り」ということです。
「文学賞」の「ヲタ芸」と「文学信仰」の「カトリックロゴス感覚」
そのような「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)の在り方は「下衆の勘繰り」(エニグマ)を正当化する「作者の匙加減」(マンガ的なんでもあり)でしかないのです。
その意味するところは「知の廃棄」(doxaをバプテスマする)としてありえるカトリックロゴス感覚の受肉を冒涜する信仰弾圧の存在です。
○下種の勘繰(かんぐ)り
品性の卑しい者は不必要に気をまわして見当違いの邪推をするものだ。
○下種の逆恨(さかうら)み
心の卑しい者は自ら省みることなく、かえって注意・訓戒してくれた者を恨む意。
○下種の謗(そし)り食い
品性の卑しい者はまずいとそしりながらも、多く食うという意。
e・nig・ma [əníɡmə]〓
―n. (pl. e・nig・mas,e・nig・ma・ta[~tə])
1 なぞ,不可解な出来事[状況].⇨PUZZLE〓:〓
2 なぞの人,正体のつかめぬもの:〓
3 (なぞめいた)言葉,質問,絵;なぞなぞ.
4 ⦅E―⦆ エニグマ:1920年代初期にドイツで開発された暗号機械;当初は民間用に製造されたが,第二次世界大戦中ドイツ軍や枢軸国軍に幅広く使用された.
◊[音楽]Enigma『なぞ』Elgar の変奏曲作品36番(1898).
[1539.<ラテン語 aenigma なぞ<ギリシャ語 aínigma なぞ(aînos「寓話(ぐうわ)」の派生語 ainíssesthai「なぞめいた言葉で話す」より)]
しかしそのようなあり方が一個の芸術性の「オリジナル信仰」として認知されることはないだろう。
ただ村上春樹を世界文学者だとして「スター」の如く祀り上げ崇拝する行為は賑やかです。
それは「ヲタ芸」です。
そもそも文学賞は「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)ですか?
それは「最高のイノセント」です。
それとも文学賞は「ヲタ芸」を形成する「黒ミサのアイロニー」ですか?
それは「最大のギルティ」(堕天使ルシフェル召喚)です。
ノーベル賞を含めた「文学賞」は「ヲタ芸」です。
では「文学」とは何ですか?
それはカトリック信仰によるカトリックロゴス感覚の受肉です。
その存在証明は?
「文学信仰」によって可能となります。
それは「最高善の神のことば」を受肉することです。
それが叡智の受肉となります。
そういったあり方は「最高のイノセント」なのです。
「村上春樹ブーム」に対する最強の殉教者(エクソシスト)が必要だ!
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「村上春樹ブーム」の「黒ミサの儀式」(バフォメット)がどうしてここまで力を持ってしまったのだろうか?
ここまで「村上春樹ブーム」が強くなった理由である世界的評価のあり方に疑問を抱くのは当然であるだろう。
それは「村上文学」の「共感(錯覚)」のあり方によっていると推察されます。
それは「まるで自分のようだ」と感じさせる「共感(錯覚)」への誘惑によっているからです。
しかしそれはカトリック信仰の「白ミサ」から形成される「三位一体のペルソナの確立」ではなかったのです。
そのような「三位一体のペルソナの確立」であれば「オリジナル」とされます。
「オリジナル」の回復がフロイト精神分析学なのです。
それは人を癒やしラディカルに治療します。
では「村上文学」が形成した「共感(錯覚)」とは何だろうか?
それは人を癒やしラディカルに治療するでしょうか?
それはあり得ないのです。
何故ならばそれは一個の「カッコいい」とされた「面子」の形成に過ぎないからです。
要はカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する「カッコいい」が「面子」として形成されているからです。
そのような「カッコいい」とされた「面子」の形成は「ヲタ芸」であり「村上春樹ブーム」の「共感(錯覚)」という別称を持っていたに過ぎない。
これは「トートロジーと循環論証」なのです。
要は捏造だったのです。
これは「石原裕次郎ブーム」にも似ているでしょう。
そして同じあり方で「石原慎太郎ブーム」にも言えることです。
私は世代的に「石原裕次郎ブーム」は知りません。
裕次郎の兄である石原慎太郎も下の下の存在だと思っていました。
何故ならば碌な作品を書いていなかったからです。
私にとって読む価値はなかったですね。
論外だったのです。
古い映画を観ても石原裕次郎を良いと思ったことはありません。
私は古い映画なら黒澤明映画が好きでした。
だから三船敏郎の方がずっと凄いと思っていました。
「石原裕次郎ブーム」は「ヲタ芸」により「カッコいい」を「スター」の如く祀り上げ崇拝することで「面子」を形成した代表例です。
そしてその「面子」が「共感(錯覚)」を生んだ!
それがブームなのです。
ハルキストのナルシズムも「石原裕次郎ブーム」の「面子」と同様のあり方をしています。
「狂った果実」のような「ヲタ芸」によって「面子」を形成する。
そういう意味で村上春樹は石原慎太郎と非常によく似ている。
若者の生態描写を「ヲタ芸」として描いたのです。
しかし文学であるなら若者の生態描写を「三位一体のペルソナの確立」として描かなければ価値はないのです。
そういった文学はウィリアム・シェイクスピアの作品です。
夏目漱石はウィリアム・シェイクスピアから多大な影響を受けたのです。
早稲田大学の坪内逍遥ではなく夏目漱石こそがウィリアム・シェイクスピア信仰を継承したのです。
そして若者の生態描写をカトリック信仰の「白ミサ」から形成される「三位一体のペルソナの確立」として描いたのが夏目漱石だった。
しかし「村上文学」は「カッコいい」という「面子」の形成でした。
それが「共感(錯覚)」を生み一大ブームとなった。
それは若者文化と称した「ヲタ芸」であり「サブカルチャー」でしかなかった。
価値はなかったのです。
まさに早稲田大学の坪内逍遥だった。
村上春樹は早稲田大学文学部演劇科でした。
おバカの早稲田大学らしいです。
「村上文学」の正体はカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する「面子」の形成でしかなかった。
だからそれは偽物のナルシズムだった。
真実のナルシズムならどのような自分であろうとその自分を愛することを言うからです。
自分とはカトリック信仰の「白ミサ」によって導かれる「三位一体のペルソナの確立」を示しています。
それが「自己愛」であるのです。
だから「自己愛」とはカトリック信仰の「白ミサ」によって齎されるのです。
このように「自己愛」とは「面子」では無いのです。
「面子」とは「カッコいい」を形成する「ヲタ芸」に扇動された「共感(錯覚)」であった。
それが一大ブームを形成する。
そして「共感(錯覚)」とはカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対することになる。
それが若者文化(サブカルチャー)の正体だった。
そこに「自己愛」は全く存在していない。
よってハルキストは真実のナルシズムではない。
結局は「カッコいい」とした「面子」を形成する「ヲタ芸」に過ぎない。
ハルキストは若者文化(サブカルチャー)と言えるだろう。
しかし非常に程度の悪いものです!
ここで重要なことはカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する行為は永遠と続く一方的攻撃であったから村上春樹ブームは最強のブームを形成したと言える。
それが「村上春樹ブーム」の根幹だろうと思います。
こういったブームはユング心理学と言えます。
ブームの根幹とは「フロイト精神分析学」が形成する「白ミサ」としての「医学信仰」へ一々敵対する「ユング心理学」が形成する「黒ミサの儀式」(バフォメット)としての「カルト(医術)」だったのです。
「医学信仰」のあり方を鑑賞することが「カルテ(芸術性)」である筈です。
それが「治療」と「カルテ」のあり方です。
それはフロイト精神分析学です。
これは「白ミサ」のあり方であり「信用」と「誠実さ」の在り処と言えます。
しかし「カルト(医術)」を「スター」の如く祀り上げ崇拝するあり方は「医療関係者」の「面子」を形成する「ヲタ芸」でしかなかった。
そのような医師は「ヒポクラテスの誓い」を破った存在であり医師の真逆の存在である詐欺師です。
詐欺師の面子を医師だからといって守護することはない。
当然です。
このような白衣を着た詐欺師の主張は「医師の信用詐欺」と言います。
それはユング心理学です。
これは「黒ミサの儀式」(バフォメット)のあり方を分かりやすく示しています。
それは「信用詐欺」であり「誠実詐欺」であり「最強の詐欺師」のあり方なのです。
「村上文学」及び「村上春樹ブーム」とは「フロイト精神分析学」という「白ミサ」へ一々敵対する「ユング心理学」という「黒ミサの儀式」(バフォメット)だったと言えるのです。
「河合隼雄に会いに行く」という作品がありました。
河合隼雄は「ユング心理学」です。
村上春樹が「ユング派」であることは当然だったのです。
ヴァージンを護ることを時代錯誤として馬鹿にしている村上春樹は猿並みの頭脳を持っていると言える。
何故ならばカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する「黒ミサの儀式」(バフォメット)による発想で村上春樹は発言しているからです。
村上春樹の価値基準は「古い」とか「新しい」とかその程度の浅はかな発想であり彼がかなりの馬鹿にしか見えないのは当然であった。
たかだか村上春樹の人生程度の期間で人の価値観が激変するという彼の主張の根幹が一体何処にあるのだろうか?
村上春樹には歴史から学ぶという歴史信仰を感じないのです。
村上春樹は「THE バカ」といった方が正解だろうと思います。
彼はきっと猿よりも劣ります。
村上春樹の思考はカトリック信仰の「白ミサ」に一々敵対する「黒ミサの儀式」(バフォメット)によってでしかないことを私は強く感じる。
村上春樹程度の存在が何様のつもりなのだろうか?
何故そのような批判がそこまで重要なのかと言えば村上春樹の主張が「いい加減過ぎる」ということの証明となるからです。
メディアでの村上春樹による様々な主張がカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する「黒ミサの儀式」(バフォメット)の形成であるだけなら彼に「まともな考え」も「まともな哲学」も「まともな思想」も「まともなセンス」すら期待できないと言える。
こうなると村上春樹は全てインチキ男となっていきます。
村上春樹とは価値のない悪しき作品を売りつける悪意ある詐欺師であり公害であり放射性廃棄物であり害虫であった。
そして村上春樹は最高悪サタンの下僕なのです。
村上春樹は「白ミサ」は「黒ミサの儀式」(バフォメット)であり「黒ミサの儀式」(バフォメット)は「白ミサ」であるとしたいらしい。
村上春樹はそういったダークサイドが作品の深みとなると主張している。
しかしそれは「白ミサ」へ一々敵対する「黒ミサの儀式」(バフォメット)でしかなく村上文学に「独特」も「独自性」もなかったと指摘できます。
村上春樹の作風はオリジナリティではなかった。
ただ村上文学は「黒ミサの儀式」(バフォメット)の「手法」だった。
村上春樹に作品を創作する才能はなかったのです。
しかし最強の殉教者(エクソシスト)は「白ミサ」は「白ミサ」であり「黒ミサの儀式」(バフォメット)は「黒ミサの儀式」(バフォメット)であるとして世界を浄化します。
「黒ミサの儀式」(バフォメット)で浄化を主張するのは浄土宗です。
一向宗徒はこの典型です。
「白ミサ」で浄化を主張するのはカトリック信仰です。
聖織田信長信仰はこの典型です。
「白ミサ」こそ治療でありカタルシスであるでしょう。
メシア来たれ!
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「文学賞受賞作家」とはカトリックロゴス感覚に対するアンチキリストとして存在している。
何故ならばそれは「ヲタ芸人」だからです。
「ヲタ芸人」は自立した存在ではないことは証明されます。
「オリジナル信仰」を貶め冒涜することで「スター」の如く祀り上げ崇拝される存在が「ヲタ芸人」だからです。
だから「ヲタ芸人」は「オリジナル信仰」の「白ミサ」へ一々敵対者として存在します。
それは一般にカトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対者となる存在「最高悪サタン」と言われます。
「最大のギルティ」です。
Satan
◆noun the Devil; Lucifer.
―ORIGIN
OE, via late L. and Gk from Heb. śāṭān, lit. ‘adversary’, from śāṭan ‘plot against’.
ad・ver・sar・y [ǽdvərsèri|―səri]〓
―n. (pl. ―sar・ies)
1 敵,敵対者,反対者(↔ally).⇨OPPONENT〓
2 (試合・ゲームなどの)対戦者,相手(contestant).
3 ⦅the A―⦆ 悪魔,サタン.
―adj. (また⦅特に英⦆ ad・ver・sar・i・al[ædvərsέəriəl])
1 敵の,敵手の.
2 (原告・被告など)当事者の:〓
[1340.中期英語 adversarie<ラテン語 adversārius (adversus より;⇀ADVERSE)]
ad・ver・sar・i・ness [ǽdvərsèrinis|―səri―]
―n.
ad・ver・sary /ǽdvərsɛri; ―s(ə)ri/
―n 反対者,敵対者,敵;〖法〗 《訴訟での》相手方,相手方弁護士;《ゲームの》(対戦)相手 (opponent);[the A―] 魔王 (Satan).
―a 反対する,敵の;〖法〗 利害の対立(する当事者)が関与する,当事者が対抗し合う,弾劾主義の.
ád・ver・sàr・i・ness /; ―s(ə)rI―/ n
[OF<L=opposed (ADVERSE)]
サタン
Satan
ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。旧約聖書では「敵」「仇」など人間について用いられた例も多いが,『ゼカリヤ書』(3・1~2),『ヨブ記』などユダヤ教後期の聖典では,超人間的存在とされている。しかし,旧約聖書では,これもヤハウェによる試練として人間に課されるものであり,新約聖書にみられる超自然的「⇨悪魔」としてのサタンの観念は,善悪二元論に立つペルシア宗教の影響である。新約聖書では,サタンは神の計画の成就を妨げ,キリストを試し,信仰者を誘惑するものとされるが,ここでも神と二元的に対立するものではなく,最後には神の支配下におかれ,滅ぼされる。イスラム教でもユダヤ教,キリスト教,ゾロアスター教などの影響を受け,悪をなすシャイタン(サタン)を教義のなかにもっている。これらは古来文学や絵画などで描かれ,ルキフェル,メフィストフェレスなどは有名である。
又、「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)が「唯一性のペルソナの確立」(信仰から形成されたオリジナル)には絶対になれないことを示しています。
「ヲタ芸人」はアンチキリストとしてしか存在しえないことが示されているからです。
だからそういった存在は「ヲタ芸」が形成する「ヲタクの二次創作」と同じ在り方と言えるでしょう。
そういう意味で庵野秀明の「新世紀ヱヴァンゲリヲン」は村上春樹の作品と同レベルです。
「村上春樹作品の社会現象」(新世紀ヱヴァンゲリヲンの社会現象)が起こった理由とは「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)によって犯された「最大のギルティ」を容認してしまった社会信仰の敗北にあった。
要は「カトリック信仰」の「白ミサ」に一々敵対する「黒ミサの儀式」(バフォメット)の成立が社会現象となったのです
「芸術性」が「ヲタ芸」に社会的に敗北した事件です。
それがネオ・ナチズム(クールジャパン)なのです。
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庵野秀明は「聖宮崎駿」に穢い唾を吐きつけ悪臭を発する穢らしい悪魔です。
それが庵野秀明の「オタ芸」であり社会現象(黒ミサの儀式)を成立させた要因です。
村上春樹は「イエス・キリストと聖書」に穢い唾を吐きつけ悪臭を発する穢らしい悪魔です。
それが村上春樹の「オタ芸」であり社会現象(黒ミサの儀式)を成立させた要因です。
両者は非常によく似ているのです。
カトリックロゴス感覚の存在はイマーゴ(神の似姿)の叡智(真理)を「唯一性のペルソナの確立」(信仰から形成されたオリジナル)に受肉させます。
それはイマーゴ信仰と言えるものです。
しかし村上春樹などは「街宣活動」によって「知の鵜呑み」(doxaによるレイシズム)を強要します。
「知の鵜呑み」(doxaによるレイシズム)とは「知(作者の匙加減)」を鵜呑みさせ強要します。
しかしそのような「知(作者の匙加減)」はユンケル黄帝液の中身です。
東洋医学や西洋医学の成立を信仰弾圧して形成された独自性の賛美です。
そのような独自性は「doxa」と言われます。
又「doxa」によりカトリックロゴス感覚を信仰弾圧することを指します。
それによって「知(作者の匙加減)の鵜呑み」を人々に強要し「絶対命令と絶対服従」の医術カルトを形成しているのです。
そのような「知(作者の匙加減)」とはデマゴーグであり「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)と言えるものでしょう。
それは最高悪サタン崇拝、アンチキリスト、堕天使ルシフェル召喚の在り方です。
村上春樹ワールド作品群はすべてこのように最高悪の存在としてあるのです。
それはまさに「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)の街宣活動です。
アドルフ・ヒットラーの復活!
ヨーゼフ・ゲッペルスの復活!
デマゴーグの支配なのです。
「最大のギルティ」です。
村上春樹ワールドに対する最強の殉教者(エクソシスト)はこのような黙示録(revelation)によって可能となります。
そしてこうも言えます。
「祓って!祓って!祓い抜くんだ!」
「その先に神の王国の到来はある!」
それは「白ミサのヒューモア」(善き羊飼い)が導くカトリック信仰の場の領域展開です。
「最高のイノセント」の場の形成です。
それにより形成されたサンクチュアリに於ける聖戦なのです。
ただ言えることはカトリック信仰の場の領域展開は最強です。
五条悟と言えるでしょう。
村上春樹と同じ構図の坂本龍一の音楽も「ヲタ芸」だった
「ヲタ芸」の「メロディ」と「オリジナル(カトリック信仰)」の「アリア」の構図が坂本龍一教授に指摘できます。
「オリジナル(カトリック信仰)」の「アリア」は「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」です。
そして「最高のイノセント」です。
だからそれは啓蒙芸術性なのです。
しかし坂本龍一教授は「ヲタ芸」であり「メロディ」だった。
彼は「オリジナル(カトリック信仰)」の「アリア」ではなかったのです。
彼は意味不明な「メロディ」により安全地帯を形成した。
それは「日本サブカルチャー」という「ヲタ芸」だった。
それによりカトリック信仰を信仰弾圧した自閉空間を成立させた。
だから彼は「神の門」(バベルの塔)の番人だったのです。
それを人は「黒ミサのアイロニー」(堕天使ルシフェル召喚)と言います。
そして「最大のギルティ」です。
カトリック信仰から自閉した密室空間は「犯罪の温床」であり危険地帯と見做せます。
それが「信仰から形成されるオリジナル」を信仰弾圧した「坂本龍一作品郡」の正体だったのです。
要は坂本龍一も「メロディ」であり「ヲタ芸」でありネオ・ナチズム(クールジャパン)であったのです。
せんりつ【旋律】
melody
種々の音高と長短をもった音を横に結びつけて形成する音の線的つながり。一般に和声,リズムと並んで音楽構成上の3要素とされているが,旋律形成に際してはすでにリズムが不可避であるので,厳密には旋律とリズムを分離することはできない。理論的には以上の条件をそなえているだけで足りるが,実際に楽曲内では表現上また形式構成上,あるまとまりをもち独立した役割を果す場合に旋律と呼ぶ。
アリア
aria
オペラ,オラトリオ,カンタータなどのなかに現れるはなやかな旋律の独唱曲をさす。 17~18世紀のイタリア・オペラの発展とともに,抒情的表現をねらったアリア・カンタービレ,技巧的なアリア・ディ・ブラブーラ,語るような口調のアリア・パルランテなど,さまざまのタイプのものが生れ,オペラの音楽的興味を独占した。グルックによるオペラ改革以降,次第にこの優先的地位を失うが,イタリアではなおプッチーニにいたるまで,アリアが重要な機能を帯びている。独立して作曲されたアリアを演奏会用アリアという。また,歌うような曲想の器楽曲も,ときにアリアと呼ばれることがある(例:『G線上のアリア』)。
最後の提言
啓蒙芸術家を育てるオリジナル信仰(カトリック信仰)
「信仰から形成されるオリジナル」を高評価することが啓蒙芸術家を育てるということです。
それを信仰弾圧して「ヲタ芸」を上位とする姿勢は文化破壊でしかありません。
聖織田信長信仰の時代とは仏陀信仰の時代なのです
如何にも「ヲタ芸」が凄いと主張する姿勢は末法思想の一向宗徒と同じ低能な阿弥陀如来崇拝です。
それは「最大のギルティ」です。
しかし「信仰から形成されるオリジナル」は仏陀信仰です。
現代は聖織田信長信仰の時代であり「比叡山延暦寺」への焼き討ちが必要とされています。
それは「ヲタ芸」への焼き討ちです。
現代は「仏陀信仰の時代」なのです。
それは「最高のイノセント」です。
えんりゃくじ【延暦寺】
滋賀県大津市にある天台宗の総本山。山号は比叡山。根本中堂(国宝)をはじめ,大講堂,戒壇院,釈迦堂,山麓の滋賀院などの百有余の堂や塔がある。延暦4(785)年に伝教大師⇨最澄が比叡山寺と名づけたが,弘仁 14(823)年に嵯峨天皇の勅により延暦寺と改称した。その後次第に堂や伽藍が増築され,平安末期には一山三千余坊といわれるほど栄えた。正暦4(993)年に智証大師の門徒が園城寺に拠って寺門と称し,山門と呼ばれる延暦寺と争った。この頃から僧兵をたくわえ強大な権力をもつようになったが,元亀2(1571)年に織田信長により焼打ちにあい,僧もほとんど殺された。しかし天正 12(1584)年には豊臣秀吉が復興を命じ,寛永 17(1640)年には根本中堂が再建され,元の景観になった。
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「釈迦如来板碑」
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