【聖石原莞爾信仰】「タロット神智学」による『我が最終戦争論(ハルマゲドン)』|「タロット愚者」の『石原莞爾』と「トランプジョーカー」の『石井四郎』
特集「カトリックロゴス感覚としてのタロットカード」
立日本国
Tarot Card「The Fool 0」について|『石原莞爾』と『石井四郎』の「似て非なり」
「始まり」と「終り」の在り方|「álpha and oméga」
すべての「始りと終り」を意味する。
「最初」に「愚者」であるなら「無知の知」により「最後」は「最高善の神の叡智(賢者)」を得る。
しかし「最初」に「カリスマ・デマゴーグ」であるなら「doxa」を「絶対知」とする活動によって「無知の知」を攻撃し「最後」は「人の叡智(愚者)」となる。
前者は神を最も近く感じ、後者は神から最も遠い。
前者は「タロット愚者」を意味し、後者は「トランプジョーカー」を意味する。
タロット神智学の啓示(黙示)において重要なのは「最高善の神の叡智」の受肉である。
それがタロット占術であるのです。
最高善の神は真の「叡智」を齎す。
しかしカリスマ・デマゴーグは人間関係の産物として形成される「まがい物の叡智」に過ぎない。
「まがい物の叡智」は人間関係で形成された「お約束」の産物である。
それは「叡智のない馬鹿騒ぎ」に陥る「トートロジーと循環論証」の「お約束」であるだろう。
「doxa」を「絶対知」として祀り上げる「ヲタ芸」(cult)なのです。
現代の社会現象はそのような陳腐なものであるのです。
しかしそのような凶悪な異端教団は人を「死への崇拝」へ導き集団自殺などの凶行事件を引き起こすだろう。
そのような事態を象徴するタロットカードとは「悪魔」であります。
タロット神智学|天使ミトラの恋愛タロット
東條真人
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
「The Fool 0」について
最高善の神の下の「愚者(叡智)」は「至高の抽象化の高み」となる
人の王の「愚者(霊感商品の詐欺商売)」は「原始的段階に近いデマゴーグ」となる
何故ならば「ロゴス」の受肉と「doxa」を「絶対知」として形成した「霊感商品」は全く違うからです。
「黒ミサ」の異端教団を祀り上げる傲慢な人類は「愚者(霊感商品の詐欺商売)」によって世界を滅ぼす「サタン」となるだろう。
それは「バフォメットの異端教団」と言えるのです。
「呪術崇拝」から形成される「象徴(偶像崇拝)」とは「doxa」を「絶対知」とする「知識の鵜呑み」であったのです。
「知識の鵜呑み」とは「バフォメットの異端教団」の「絶対知(doxa)」を鵜呑みにすることを命じる。
しかし「知識の中身を問わない」ことはその「知識」がデマゴギーであってもそれをカリスマ・デマゴーグの「嘘のない言葉」として祀り上げることを意味している。
「知識」の中身が「明らかな偽り」であっても良いのが「呪術崇拝」から形成される「象徴(偶像崇拝)」であり、フロイトはそれを「原始的段階に近い」と評した。
それは当然の呼び名であった。
「最高善の神の叡智」から遠く隔たり「人」のカリスマ・デマゴーグに容易く扇動される存在は劣等で原始的と言われても仕方がないだろう。
「タロット信仰」と「トランプ崇拝」をそこに見ることができる。
タロット信仰は「知の廃棄」を前提とした「叡智信仰」であり、トランプ崇拝は「知の鵜呑み」を前提とした「バフォメットの異端教団」である。
ではこれらは「タロットカード」の中では一体何のカードによって示されているのだろうか?
それは「愚者」のカードである。
「愚者」はタロットでは一般に「The Fool 0」とされています。
「愚者」は一般的には「doxaの人」の意味となります。
しかし人は自分が「doxaの人」であることを知った時から「無知の知」を得ます。
それは「叡智」の受肉システムを手に入れることなのです。
そのメカニズムを解説しましょう。
※「愚者」の「タロットカード」は「トランプカード」において「ジョーカー」の原型であったと言う通説がある。
「叡智」の受肉とは?
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は「最高善の神の至上命令」である。
何故〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉が「最高善信仰」なのだろうか?
それは「絶対に覆らない善」であるからです。
「偽善」とは「間違っていても善を装う事」を言います。
間違いが判明し明らかに「善」ではなくとも「善」を装うことなのです。
「善行」はその代表的存在です。
そのような「善悪」のあり方は「真偽」のあり方と同様です。
そのような「偽善」とは「社会的善行」とされた行為を人に見せているだけなのです。
それは「善」ではなく「善に見せる技術」であり「悪」なのです。
例えば「善悪」を考えて「善」を判断する存在とサッカーワールドカップでスタジアムを清掃する日本人観客がそのいい例でしょう。
「善悪を考える善」は最高善信仰です。
しかしサッカーの観客が行う清掃行為は「社会的善行」ではありますが「善」ではなく「善に見せる技術」でしかありません。
「偽善」であり「悪」なのです。
※公共トイレの「政治的宣伝映画」(社会的善行)だったらしい
そして「悔い改め」とは「善ではない場合には悔い改めること」であり、又は「悪である場合に悔い改めること」である。
「隣人愛」はそういった「悔い改めた者」に対する姿勢であり「アガペー」を示しています。
それが最高善信仰でありそれへ一々敵対して蹂躙することは可能でしょう。
しかしそのあり方を完全に逆転させることはできません。
何故ならその「躓き」への「悔い改め」の導きがいつ如何なる時であっても可能だからです。
それが〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉のその可能性の中心なのです。
仮に「悪」を犯した人物に対してでもその者が「悔い改め」をするなら「隣人愛」の「アガペー」を持って他者が遇するのです。
それが最高善信仰の在り方です。
それは最高善の高みへ人々を導きます。
「神の王国の到来」は現実にきっと出現するでしょう。
フロイトはそれを「至高の抽象化の高み」と書いています。
ただ「社会的善行」に対して「社会的悪行」が存在します。
それは「社会的悪行」とされても「善悪」を考えて実行していたならば「善」と言えることを示しています。
ここでは逆に「善」が「社会的悪行」とされるのです。
そのような善悪の転倒は「バフォメットの異端教団」の為せる技です。
それは「悪に見せる技術」によって貶められ実行されたイエス・キリストの磔刑に似ています。
石井四郎の場合
石井四郎
「青ひげ」は「赤ひげ」に変わったのか?
"Fair is Foul, and Foul is Fair. "
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
例えば「善行」の代表例は「人体実験」で有名な「日本陸軍防疫731部隊」の創設者であり部隊長であった石井四郎であろうと思います。
石井四郎は敗戦後に日本で「赤ひげ」として暮らしたとされています。
「731部隊」が殺人鬼の「青ひげ」の代名詞であるとすれば「赤ひげ」は医者の「社会的善行」の代名詞であります。
これは最高善の〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉ではなく、「社会的善行」であり「偽善」の在り方でしょう。
それらは「悪」です。
青ひげ(ドレ画,挿絵)
「赤ひげ」は「ヒポクラテスの誓い」の信仰者である
実践理性批判
イマヌエル・カント「実践理性批判」
「きみの人格やいっさいの他者たちの人格のうちにある人間性を、つねに同時に目的として取りあつかい、けっしてたんに手段として取りあつかわないように行為せよ」
これは患者に対する医学の在り方である。
しかし石井四郎は医学の名の下に人体実験を行い殺戮を行った。
手段としてのみ扱い同時に目的として扱わなかったのです。
彼は「doxa」を「絶対知」として祀り上げるため人体実験部隊(cult)を形成した。
それが日本陸軍防疫731部隊である。
ヲタ芸集団(サブカルチャー)であり異端教団だったのです。
※731部隊の創設者は千葉県芝山町出身の石井四郎であり国立千葉大学医学部はその意思を引き継いでいる。患者を騙し人体実験に利用している証拠と証言がある。
石原莞爾の場合
石原莞爾
カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)
最高善信仰
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
もう一人例を挙げると「満州事変の首謀者」であった「石原莞爾」です。
彼は「満州事変の首謀者」でありましたがその後早々に左遷された。
何故なら彼にとって「一億玉砕」のような馬鹿げた戦争は「イマーゴ(真善美の回復)への信仰」と程遠かったからであろう。
「イマーゴ(真善美の回復)への信仰」を持った日本軍人|石原莞爾は「真の平和」と「神の王国の到来」を目指した最高善の信仰者であった。
そして石原莞爾は「社会的善行」ではなく、敗戦後に「イマーゴ(真善美の回復)への信仰」を持って田舎に引き篭もった。
これは最高善信仰の「神の王国の到来」を石原莞爾が自らの「イマーゴ(真善美の回復)への信仰」によって見ようとしたからだろう。
軍人であった彼は最後に明らかに「最高善信仰の人」として〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の至上命令に従ったのです。
「石原莞爾」は「叡智(ロゴス)」の受肉した人であり「偽善(悪)」ではなく「最高善信仰の人」であった。
神の王国の到来(至高の抽象化の高み)
時の徴(「知の鵜呑み」は知に見せる技術、「知の廃棄」は知の受肉システム)
最高善信仰
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉は最高善の高みへ世界を導く。
それが「神の国の到来」である。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
「石井四郎」と「石原莞爾」
タロットカード「The Fool 0」とトランプカード「ジョーカー」は全く違う。
これはタロットカードの「愚者」|「The Fool 0」であり、それはタロットカードの占術における意味の反転性を示している。
「愚者」である石井四郎は「叡智のないdoxaの人」でありトランプカード「ジョーカー」となった。
それはタロットカード「愚者」が反転した意味であるだろう。
※ただ一般のトランプゲームに於いて「ジョーカー上がり(ジョーカー勝ち)」はタブーとされている。
「愚者」である石原莞爾は最高善信仰からカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を入れる場所を確保した。
それはタロットカード「愚者」であり「叡智の人」である。
「タロット神智学の原理」
この2つの「愚者」の見極めが「タロット神智学」の基本型であるのです。
「doxa」を「絶対知」とする「異端教団」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の聖戦である。
言い方を変えると「イマーゴ(真善美の回復)への信仰」と「カリスマデマゴーグの禁忌」が「無知の知」となる。
それは「無知の悔い改め」と「隣人愛」と言えます。
要は「知識人」ではなく「知識人に見せる技術」を持つだけではデマゴーグを生むだけなのです。
「無知」の「悔い改め」が「叡智」となりそれへ賛美することが「最高善の神のアガペー」(愛徳)としての「隣人愛」となる。
それが「doxa」を「絶対知」とする「異端教団」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の聖戦である。
それはただ「いつまでも騙し抜くカリスマ・デマゴーグ」ではなく「最高善の神の叡智」(ロゴス)のあり方なのです。
それはソクラテスの教え「無知の知」の在り方だろう。
純粋理性批判
第二版序文
「したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。」とイマヌエル・カントは書いた。
「信仰を入れる場所」とはカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の場所を確保することです。
そしてそこは「叡智の宿る場所」です。
それがない「異端教団」は「叡智のない愚者」である。
しかし彼らは「叡智に見せる技術」を持っている。
それが「いつまでも騙し抜くカリスマ・デマゴーグ」の存在です。
一方で「最高善の神の至上命令に恭順し悔い改める愚者」は「最高善の神の叡智を受肉する賢者」であるのです。
神を讃える
結局は「最後の愚者」は「異端教団」であり、「最初の愚者」は「最高善信仰の人」であるでしょう。
「いつまでも騙し抜くカリスマ・デマゴーグ」と「最高善信仰者」(ロゴス)との関係性は「聖戦」と「黙示」となって世界大戦(ハルマゲドン)を引き起こす。
そして世界大戦(ハルマゲドン)に於いて最後に勝つのは「最高善の神」である。