【聖文学者信仰】早稲田文学を歩く with Cats. @村上春樹ライブラリー&漱石山房記念館(2023年5月16日撮影)
特集号 早稲田大学崇拝と早稲田文学信仰
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
早稲田大学構内
Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)正午
『早稲田大学教旨』にある「模範国民」は悪しきエリート主義の源となっている。
しかしカトリックロゴス感覚においてエレクト(選民)とは信仰から形成されるペルソナとされ「最高善の神の王国の到来」における世界市民と見做されます。
それは「模範国民信仰」と呼ばれるものです。
一方で早稲田大学の悪しきエリート主義は最高善の神の王国の選民を示していません。
人の王国の特権階級を意味しています。
早稲田大学の悪しきエリート主義がカトリックロゴス感覚を信仰弾圧しネオ・ナチズム国家を建設したのです。
それが「模範国民崇拝」であり「早稲田大学崇拝」となっているのです。
純愛信仰(聖愛信仰)
純愛崇拝(聖愛崇拝)
譬え
村上春樹ライブラリーの前置き
早稲田大学崇拝とは自称模範国民(人の王国の特権階級)がカトリックロゴス信仰(神の王国の選民)を弾圧することでありえる。
そしてそのような弾圧者を聖人として祀る神社の建立を示している。
これは早稲田大学卒業の村上春樹も早稲田大学中退のタモリ(森田一義)もカトリックロゴス信仰(神の王国の選民)を弾圧し聖人とされた存在であることを認識すれば理解し易いだろう。
そういったネオ・ナチズムとして建立された村上春樹ライブラリーは自称模範国民の神社でありそれはカトリックの弾圧者を示す「サタンの印刻」であるのです。
そして「村上春樹ライブラリー」は「戦争犯罪賛美」のモニュメントとして崇拝関係の世界的中心となっています。
「サタンの印刻」の美化としての村上春樹ワールド(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)である。
それはトートロジーと循環論証によっている。
カトリックロゴス信仰を弾圧するサブカルチャーであるのです。
カトリックロゴス信仰(優等)に論理上の虚偽(劣等)が勝るネオ・ナチズムの典型的なあり方がこれらサタンの論理(人の王国の特権階級)です。
「神の王国の選民」が方舟(聖櫃)であるなら、「自称模範国民」は「方舟(聖櫃)に見せる技術」である。
東京スカイツリー(バベルの塔)を建立した早稲田大学卒業の森喜朗も「方舟(聖櫃)に見せる技術」の典型であるだろう。
これは高橋源一郎にも顕著に窺える。
循環論証はデマゴーグの典型ということです。
早稲田大学卒業(自称模範国民)の森喜朗が建立した東京スカイツリーは「バベルの塔(ネオ・ナチズム)」の象徴である。
「バベルの塔」は第2の方舟を意図している。
それは方舟(聖櫃)を弾圧し「方舟(聖櫃)に見せる技術」が勝った「バベルの塔(ネオ・ナチズム)」を意味している。
早稲田大学国際文学館・村上春樹ライブラリー
村上春樹文学とはカトリックロゴス信仰を弾圧するネオ・ナチズムのカルト音楽(街宣車)なのです。
ここは重要なポイントです。
村上春樹のカルト音楽趣味(レイシズム)はカトリックロゴス信仰のカトリック音楽を弾圧してカルト音楽(街宣車)が勝ったネオ・ナチズムの音楽ワールドであるでしょう。
村上春樹とは実はカトリック音楽(バプテスマ)を嫌っているネオナチの街宣車に過ぎないのです。
※実は村上春樹はカトリック音楽(バプテスマ)を嫌っているのです。(最重要ポイント)
カトリック音楽(バプテスマ)は「知の廃棄(バプテスマ)」であり、カルト音楽(レイシズム)は「知の鵜呑み(レイシズム)」である。
村上春樹のカルト音楽趣味(レイシズム)はバプテスマではなくレイシズム(偏見)であると言える。
村上春樹ライブラリー到着
Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)正午
この日は暑かった!!
建物正面入口横の表札(とにかく可愛い)
正面入口の植栽が綺麗に整備されていました。
正面入口方向から絵を描いている初老の女性がいました。
建物サイドの入口と建物サイドのモニュメント
モニュメントは大きな飾りで流線型の歪さが目立った。
サイドの入り口はピロティになっている。
建物サイドの入口から入ると左側におしゃれなカフェがある。(ガラスに写っているのは私です)
カフェにはおしゃれなランチメニューがある。
建物正面入口と建物正面モニュメント
ここから左方向へ歩くとすぐに演劇記念館(坪内逍遥)。
モニュメント全景(かなり大きい歪な流線型の曲線)
隈研吾お得意の歪なデザインである。
しかしそこにある思想性は反カトリックロゴス感覚と言えるだろう
それはサイエンスフィクションではなくマンガである。
サイエンスフィクションはカトリックロゴス感覚を持ち芸術信仰である
それはカルチャーです。
マンガはカトリックロゴス感覚を弾圧する超人の存在でありオタク崇拝である。
それはサブカルチャーである。
このモニュメントの歪さはイエスの右側の存在を崇拝するハーケンクロイツであるだろう。
それは「ネオ・ナチズム」の存在です。
歪さのデザインは隈研吾の得意技であるがそこに救済信仰はない。
この場所はカルトの場所であり信仰の場所とはならないだろう。
カルトの場所は文学と本来異質であるのです。
しかし村上春樹のカルト作品にとっては親和性があると言えるだろう。
村上春樹の作品は文学崇拝ではあるが文学信仰ではないのです。
ただ詐欺商売にカルトは絶大な力を持つのです。
それは暗示的表現への崇拝となり絶対命令と絶対服従を形成します。
カルト商法は最強です。
「とんねるず」の「野猿」だって大成功したのです。
「野猿」崇拝が引き起こした自殺事件
純愛信仰(聖愛信仰)を弾圧する純愛崇拝(聖愛崇拝)のことであり、そのための陳腐な存在への崇拝を扇動することで引き起こされたカルト凶行事件であるでしょう。
純愛崇拝(聖愛崇拝)は暗示的表現への崇拝として存在する。
相手を命令で支配することがカルト商品(詐欺商売)の価値とされる。
純愛信仰(聖愛信仰)は生命のメッセージを発し、純愛崇拝(聖愛崇拝)は死のメッセージを発する。
それは信仰(優等)を弾圧し崇拝(劣等)が勝る「ネオ・ナチズム」を形成するからである。
「信仰の生命のメッセージ」に対するすべて反対が「崇拝の死のメッセージ」です。
それはフジサンケイグループが「ネオ・ナチズム」であることの象徴として存在します。
「とんねるず」が結成した人気グループ「野猿」はフジテレビの企業ロゴ「逆さ睫毛」と同じ意味を示していた。
このように純愛崇拝(聖愛崇拝)を扇動し死のメッセージを暗示することでカルト自殺事件を引き起こした「とんねるず」と「フジテレビジョン」の責任は重いと言えるのです。
ここに見るように人気グループ崇拝の番組宣伝活動がファンである純愛崇拝者(聖愛崇拝者)の自殺を扇動した疑いが強いと判断されます。
純愛信仰(聖愛信仰)であるならdoxaを廃棄することで「純愛信仰(聖愛信仰)」を受肉し「永遠の命(パン)」を得ます。
それは人を救済する純愛信仰(聖愛信仰)です。
しかし「とんねるず」の人気グループ「野猿」はすべてdoxaで構成されています。
すべてまがい物なのです。
彼らはdoxaへの崇拝として存在しているのです。
仮にそのdoxaを廃棄した場合に一体彼らに何が残りますか?
純愛崇拝者(聖愛崇拝者)はバカにされ愚弄され貶められ侮辱されていただけだと判明するだけです。
そして暗示的になされていた絶対命令と絶対服従は暴走を引き起こします
人気グループ「野猿」は完全にカルト商品(詐欺商売)だったのです。
純愛崇拝者(聖愛崇拝者)にdoxaを売りつけコントロールしていました。
彼らに純愛信仰(聖愛信仰)の欠片もありません。
人への救済はないのです。
純愛崇拝(聖愛崇拝)の対象が煽るだけ煽って姿を消すとき純愛崇拝者(聖愛崇拝者)に恐慌は訪れます。
純愛信仰(聖愛信仰)への道が弾圧された中で純愛崇拝(聖愛崇拝)の対象は煽るだけ煽って無責任に逃げ切ります。
残された純愛崇拝者(聖愛崇拝者)は逃げ場がありません。
絶対命令と絶対服従は暴走を引き起こし死へ崇拝者を向かわせます。
「死への崇拝」の暗示的表現が行われていたのです。
カルト商品(詐欺商売)は崇拝者を死へ導く。
当然といえば当然です。
信仰の道は弾圧され崇拝の対象は詐欺だと判明する。
しかし崇拝の暴走は起こり、絶対命令は絶対服従として死へ誘うのです。
「死への崇拝」の暗示的表現がカルト商品(詐欺商売)の崇拝対象者によって行われていたことは分析すれば明らかになるでしょう。
それがカルト凶行自殺を引き起こします。
その時カルト自殺事件は起こるのです。
また超重大事件が起こるのもこの時です。
これは仮説ですが「野猿カルト事件」と同様のカルト事件が近日中に勃発するかもしれません。
それはもしかしたら「村上春樹カルト事件」となるかもしれません。
「村上春樹カルト事件」の緊急着陸場所はどこになるのでしょうか?
御巣鷹山への日航ジャンボ機墜落事件と同等のインパクトがあるかもしれません。
私は軟着陸を目指す気はありません。
ゴリアテ(サタン)は屠殺します。
村上春樹は日本屈指の文学者でスター作家とされています。
世界で最も評価されている作家と宣伝されています。
しかしそれは文学崇拝(カルト商品)だったのです。
それは結局「野猿カルト事件」と同じに絶対命令と絶対服従の暴走を引き起こすでしょう。
それは集団カルト事件の様相を呈することは想像できます。
純愛信仰(聖愛信仰)と純愛崇拝(聖愛崇拝)の関係は文学信仰(カトリックロゴス)と文学崇拝(カルト商品)の関係と同等です。
崇拝関係(詐欺商売)を形成する村上春樹商売は破綻するのはいつでしょうか?
その時になんらかのカルト凶行事件が勃発するでしょう。
文学信仰(カトリックロゴス)はdoxaの廃棄された場所に宿ります。
それが最高善の神のロゴスの受肉でありカトリックロゴス感覚としての「SONY(アーメン)」です。
それは決して暴走を引き起こしません。
知を廃棄することは「信仰」を持って生きることを指します。
しかし知を鵜呑することは「崇拝」を持って生きることで絶対命令と絶対服従から暴走を引き起こし死(戦争)へ向かうのです。
それが村上春樹の「ネオ・ナチズム」です。
彼は決して反戦家ではありません。
彼の熊本城賛美の美意識はそれを垣間見させます。
あんな城に美を見てその美意識を誇る彼の姿勢にそのセンスを疑ってしまうのです。
村上春樹のカルト音楽趣味(レイシズム)は独自と言われています。
それは独自崇拝(カルト商売)のセンスを形成する根拠とされます。
しかし独自信仰(カトリックロゴス)とはdoxaを廃棄した場所に受肉した信仰から形成されるオリジナル(ペルソナ)です。
独自崇拝(カルト商売)と独自信仰(カトリックロゴス)の違いを理解すると村上春樹文学の独自崇拝(カルト商売)と普遍崇拝(詐欺商売)もカルト事件へ収斂されることは理解されやすいでしょう。
結局は暗示的な作品(センス)が絶対命令と絶対服従を形成する。
しかし信仰から形成されるセンス(オリジナル)はペルソナが受肉する叡智である。
叡智を受肉したセンスは人間文化(ペルソナカルチャー)となる。
では叡智を受肉していないセンスとはなんだろうか?
それは一見かなり幼稚であるように感じる。
何故ならばカトリックロゴス感覚を弾圧して成立している歪な形体だからです。
ではその正体は何でしょうか?
最高善の神の摂理に背いた歪な人間社会の形成です。
簡単に言えば劣等が優等に勝るネオ・ナチズムと言えるでしょう。
それは先程指摘した文化という「至高の抽象化の高み」に対しサブカルチャーという「原始的段階に近い」を優位とする社会形成です。
カルチャーに対しサブカルチャーが勝る社会はネオ・ナチズム社会です
しかし村上春樹は文化人とされています。
そこが大きな間違いだったのです。
彼のセンスに叡智は受肉していません。
叡智のないセンスはカルチャーではないし真のセンスとも言えないでしょう。
では村上春樹は何をしているのでしょうか?
「神に見せる技術」を弄しているのです。
それは「サタンの技(サタン崇拝)」です。
オーディオ趣味は沼と呼ばれる危険地帯です。
それは「耳慣れ」と「沼」という詐欺システムで成り立つ商売だからです
そしてカルト音楽(レイシズム)は消費社会のサブカルチャーであるでしょう。
カルト音楽(レイシズム)はカルチャーでしょうか?
カルト音楽(レイシズム)はサブカルチャーでしょうか?
先ほど示しましたが信仰があれば叡智が受肉してカルチャーとなります。
しかしサブカルチャーのカルト音楽(レイシズム)はネオ・ナチズムとして崇拝関係を形成します。
そのようなカルト状態が暴走を引き起こし死(戦争)へ人々を誘います。
「神に見せる技術(サタン崇拝)」はサブカルチャーのカルト音楽(レイシズム)では顕著です。
例えば米津玄師の神演出は「神に見せる技術(サタン崇拝)」の代表例でしょう。
独自信仰(カトリックロゴス)と普遍信仰(最高善の神のロゴス)こそが救済信仰(メシア)であり最高善信仰(イエス・キリスト)であるのです。
それが本物(反戦家)なのです。
カルチャーのカトリック音楽(バプテスマ)とは何でしょうか?
信仰から叡智を受肉するあり方は「アリア」にあると思います。
それは歌詞に信仰を入れる場所が確保されているかどうかが大きな分水嶺です。
アリアとは相手の欲望の扇動ではなく、自らの信仰を問う歌詞です。
詐欺師(カルト)に注意めされよ!(アリア)
何故ならばサブカルチャーは「死へ向かう命令」を発するからです。
「玉砕!」
「死ね!」
彼らは死神だ!
結局は「背水の陣」をひく低能さが招く事態である。
「策」とは「背水の陣」を禁忌とする信仰が形成するオリジナル(最善策)である。
「背水の陣」は「死への崇拝」が形成する絶対命令と絶対服従であるだろう
低能児である日本人政治家が好むのが「背水の陣」である。
それが暴走して戦争へ国民を誘うのは低能児日本が過去に行った失敗であるだろう。
しかしまた同じ失敗を繰り返す日本低能児政治家がたくさんいる。
サブカルチャーの村上春樹はその政治的宣伝コンテンツを担った死神に過ぎない。
何故こうなったのだろうか?
低能児バンザイとなった日本の文化レベルは低い。
何故日本の文化レベルは下がったのだろうか?
「カルト(サブカルチャー)」を規制することが必要である。
サブカルチャーはアニメとは言えない。
何故ならばカルチャーのアニメとサブカルチャーのアニメに差異化されるからです。
そして信仰から叡智を受肉したアニメは文化芸術です。
サブカルチャーは規制対象にする必要があります。
「信教の自由」は日本国憲法に定められた基本的人権の一つである。
しかし「崇拝の自由」は規制しなければならない。
「信仰」と「崇拝」は全く別物である。
「信仰」は自由であり合憲である。
しかし「崇拝」は違憲とされなければならない。
日本国憲法において「信仰の自由」と「崇拝の禁止」を明確にする必要があるだろう。
それが統一教会の崇拝を禁止する思想的根拠(法的根拠)にもなるだろう
これは大事件である認識を持つ必要があるのです。
予言
「村上春樹カルト事件」が発生する。
その時に信じるべきは「信仰」であることが黙視されるでしょう。
今回の新作もバカ売れしているらしいです。
私は批評を書くために責任をもってすべて目を通しています。
現在新作も図書館で予約していますが2023/5/18時点において順番は7番目でした。
村上春樹ブームは何故起こるのでしょうか?
Answer:政治的宣伝コンテンツとして信仰弾圧システムとなっているからです!
一言で評して信仰を弾圧して崇拝を形成する何かを持っているからです
それは何か?
それはある意味で人間の超能力感覚と言えるものだろうと見做されます。
イエス・キリストのカトリックロゴス感覚を弾圧した村上春樹ワールドで人は超感覚を形成する超人となることができます。
それは作品の主人公に顕著にうかがわれます。
例えば「ねじまき鳥クロニクル」における「壁抜け感覚」です。
そのような感覚は暗示的表現としての絶対命令と絶対服従を形成します。
ノモンハン事件は日本陸軍の大惨敗となったと言われています。
しかしそこで頭角を現した数少ない軍人が防疫部隊の石井四郎でした。
そしてマルタという魅力的な女性が登場します。
それはノモンハン事件で高評価された石井四郎が後に創設した「731部隊」の人体実験のサンプル名「丸太」を示しているのではないでしょうか?
そして撤退する日本軍による動物園の動物虐殺シーンは非常にイノセント(無辜)な動物殺戮として描かれています。
それは中国大陸で「731部隊」など日本軍が行った蛮行(サタン)を暗示的表現で肯定しているように見えます。
探せば幾らでもこのような暗示的表現で「サタン」の肯定部分が見つかるでしょう。
それはリアル(知の廃棄)を弾圧しパロディ(知の鵜呑み)を賛美することで形成される崇拝関係であり絶対命令と絶対服従のことを指しています。
ここにある「731部隊」の暗示的な肯定表現は「戦争犯罪のパロディ」でありネオ・ナチズムへの忠誠を示しています。
村上春樹は「戦争犯罪の概念」を弾圧し「戦争犯罪の概念のパロディ」を作品として制作したのです。
要は村上春樹は反戦家ではなく「戦争犯罪への批判」を弾圧し「戦争犯罪への批判のパロディ」を制作しているネオ・ナチズムです。
村上春樹は「戦争犯罪」の賛美者なのです。(ここは最重要です)
それは村上春樹が生粋の「ネオ・ナチズム」であることを示しています。
そのようなイエス・キリストのカトリックロゴス感覚を弾圧しその右側に存在するナイーブな超人(サタン)が村上春樹作品の主人公なのです。
今回の作品はまだ未読ですがそのような超能力感覚を可能とする村上春樹ワールド(マンガ)の作品となっているでしょう。
しかし私が視聴したアニメ「呪術廻戦」の超能力感覚はカトリックロゴス感覚でありその世界観はマンガと違ってサイエンスフィクションでした。
村上春樹ワールドの超能力感覚にはサイエンスフィクションの成立に不可欠なカトリックロゴス感覚が欠落している。
何故ならば村上春樹はカトリックロゴス感覚を弾圧するアンチキリストだからです。
村上春樹はカトリックロゴス感覚を弾圧した世界観(マンガ)の作家なのです。
それは彼がサブカルチャーでありオタクであることを示しています。
もし彼が世界観(サイエンスフィクション)の作家であるならカルチャーであり芸術家です。
「崇拝」は「オタク」であり「信仰」は「芸術家」なのです。
オタク芸術は信仰を弾圧する暗示的表現となっているのです。
そういったマンガ小説の作品は黒ミサカルトの存在を示しています。
そのオタク作品を過大評価した事件はカルト事件として重大事件を引き起こすでしょう。
庵野秀明や新海誠、村上春樹は同等なのです。
公然と行われる黒ミサカルトは最悪の重大カルト事件を引き起こす可能性を暗示しています。
ハーケンクロイツのアドルフ・ヒットラーとヨーゼフ・ゲッペルスの復活です。
村上春樹作品は「ネオ・ナチズム」なのです。
演劇記念館方向から撮影
村上春樹の言葉
学生への優しい言葉が綴られている。
ただ学生にカルト音楽(レイシズム)を薦めるような気軽な感じであり大切なカトリックロゴス感覚を示せないところが文学者として失格であるだろう。
デザイン重視の本棚と階段(飾り棚である。)
「ノルウェイの森」は「ネオ・ナチズム」であり超危険なカルトである。
ディア・ハート
ワルツ・フォー・デビイ
突撃隊(PTSD)と主人公(ネオ・ナチズム)
PTSDといじめの関係(突撃隊はPTSD治療の医師であり、ネオ・ナチズムは人体実験の医師である。)
PTSD(突撃隊)は「いじめの被害者側」であり、ネオ・ナチズムは「いじめの加害者側」である。
「パブロフの犬」の条件反射とは人間のパワーハラスメントによって引き起こされる「PTSD」発症とトートロジーではないだろうか?
ここに医学界のインチキ疑惑が沸き起こっている。
「パブロフの犬」とは虐待された動物の「PTSD」発症であるという診断である。
ここにインチキの核心があったと言える。
相互性があればよく、なければいじめである。
相互性があればよく、なければいじめである。
いじめの過程は「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階
徹底的に屈服させる。
「搾取」
「ネオ・ナチズム」の構造
ジャズ喫茶ピーターキャットで使用されていたレコード二枚
年代を感じさせて雰囲気があった。
ネコのマークが入っていた。
センスを感じさせる。
しかし真にセンスがあるのはレコードジャケットの方でありネコのマークではない。
オーディオルーム(街宣車ルーム)
完璧なセッティングだった。
スピーカーは高音と低音の二台の組み合わせである。
所謂2WAYスピーカーシステムである。
一般にオーディオマニアの間では1WAYスピーカー(フルレンジ)が音場の歪みが少なく推奨されている。
しかしこの組み合わせは当初の高音1WAYスピーカー(フルレンジ)と低音1WAYスピーカー(フルレンジ)を聴き比べる趣向から変更され高音1WAYスピーカー(フルレンジ)と低音1WAYスピーカー(フルレンジ)による2WAYスピーカーシステムの採用とされたらしい。
聴いてみたら良かったというアドリブであったと担当女性スタッフから伺いました。
ただオーディオの一般常識として高音1WAYスピーカー(フルレンジ)と低音1WAYスピーカー(フルレンジ)を聴き比べることはありえないだろうと思った。
何故ならそのような高音と低音へ偏ってしまった音声が心地よいとは思えないからです。
だからこれはかなり無理筋の話だった。
この話は意図的な2WAYスピーカーシステムの採用を示していて、それは1WAYスピーカー(フルレンジ)を排斥する意図を持っているのかもしれない。
そこに村上春樹の如何なる思想性があるのだろうか?
それはユダヤキリスト教(カトリック信仰)を排斥する意味を持っていて、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)を賛美することであるのかもしれない。
何故なら1WAYスピーカー(フルレンジ)とはカトリック信仰を示していると感じるからです。
もしこの指摘が正しいのなら村上春樹ライブラリーとは狂気の館であるのかもしれない。
このスピーカー設置の経緯についてはオーディオルームの担当女性スタッフから熱心な説明を受けた。
彼女からは詳細なレポートを掲載したオーディオ雑誌のバックナンバーを見せられながらかなりきちんと教えて貰いました。
さすが早稲田大学のスタッフであると思いました。
だからこの話に関して間違いはないだろうと思うのです。
そして音声というものは耳慣れするから当初高音の響きと艶やかな伸びに感心していたがだんだん飽きてきました。
オーディオとはあったらベターだろう程度の存在であるだろうね。
オーディオルーム(街宣車ルーム)のスピーカー
村上春樹の作品世界はこの音を聴けば理解されるだろう。
左側スピーカーは低音が強く右側スピーカーは高音が強い。
一聴すると作品の理解が深まる。
想像と現実の差異が埋まるのです。
オーディオルーム(街宣車ルーム)のレコードプレイヤー
村上春樹所有と同型の廃盤品(ラックスマン)。
50万円以上するらしい。
CDの曲とレコードの曲が交互に演奏される演出らしい。
しかしCDの曲とレコードの曲の違いを見抜くことは出来なかった。
レコードだからいい音という発想も劣等が優等を弾圧し勝る「ネオ・ナチズム」であるだろう。
ラジオスタジオ
「村上RADIO」はここで収録されることがあるらしい。
アシスタントの坂本美雨(坂本龍一と矢野顕子の娘)も来るとのこと。
視聴スペース(ラジオスタジオの隣)
朗読視聴はオーディオテクニカのヘッドフォンを使用していた。
こういった場所の国内メーカー製ヘッドフォンとは「SONY」か「オーディオテクニカ」のどちらかの選択となる場合が多い。
そこに思想性が如実に現れる。
SONYはカトリックロゴス感覚を至上とした世界的企業である。
村上春樹ライブラリーのヘッドフォンに村上春樹の真の思想性を見た気がする。
村上春樹はSONYが嫌いらしい。(直観)
やはり彼はヤクルトスワローズファンだな!
原文作品及び海外翻訳作品ライブラリー
奥に「羊をめぐる冒険」に登場した羊男の落書きがある。
海外の翻訳本を知りたければここに来れば解るだろう。
「羊男」は「山羊男」を示しているようです。
「山羊男」とは「悪魔」のことです。
早稲田大学の演劇記念館と早稲田の漱石山房記念館
私は千葉県から東西線に乗って早稲田駅に降り立った。
しかしその目的は「村上春樹ライブラリー」であり「漱石山房記念館」はその存在すら知らなかった。
当初スマホのナビが不調で道に迷い一時間近くかけて早稲田大学に到着したのです。
村上春樹ライブラリーの隣は坪内逍遥の演劇記念館だった。
私は坪内逍遥のシェイクスピア全集の翻訳を読んだことがある。
又、母校である拓殖大学でシェイクスピアの講義を受講し研究もしていた
演劇記念館にはかなり興味をそそられた。
前半、村上春樹ライブラリーを見学しオーディオルームで「いい音」を確認する。
※ただオーディオは沼と言われ耳慣れを考慮すれば詐欺的な趣味と言えるのだ。(そういった意味で趣味の王様と言われる)
その後村上春樹ライブラリーでおしゃれなランチを食べようとしていたら金髪の外国人カップルに注文の列に割り込まれてしまった。
なんだか意気消沈してライブラリーの係の方に早稲田大学学食の場所を尋ねると大隈講堂近くに学食があると教えられてスマホのナビを頼りに行ってみた。
私はそこでカレーライスの大盛りを注文したのです。
私は拓殖大学八王子キャンパスで思い浮かぶのは第三食堂の大盛りカレーだった。
そこは工学部棟にあり近代的雰囲気をもった建築だった。
21年ほど前の拓殖大学八王子キャンパスの学食は第一食堂でも第二食堂でもいいのだけれどカレーライスは第三食堂が気に入っていた。
それぞれ味が違うのです。
だから学食と言えばカレーライスを思い浮かべたのだ。
簡単に言えば味の比較がし易いのです。
しかし早稲田大学のカレーライスは「しけたカレーライス」だった
大盛りの割に量もびっくりするほど少ない。
拓殖大学のカレーライスの方が数段上だった。
早稲田大学学食でカレーライス大盛りを食べた後に東西線早稲田駅に向かった。
何だか又、道に迷ってしまった。
変なところを歩くことになったのです。
そして草間彌生美術館があった。
「しけた美術館」だった。
そしてナビに従って住宅街を歩いていると漱石山房記念館の施設に偶然行き当たった。
入場料は300円です。
裏に管理の方の小屋があり伝言ノートが常設されていた。
私は夏目漱石「それから」に関する一文をそこに残した。
演劇博物館(坪内逍遥)
Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)正午
開催されている展示物は「推し活」だった。
演劇博物館の説明文
草間彌生美術館(即興のヨーグルトアート)
Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)14時前
「水玉模様」ならぬ「ブルガリアのむヨーグルトアート」である。
上下どちらの構図がいいだろうか?
漱石山房記念館到着
Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)14時ごろ
管理小屋の伝言ノートに漱石に関する一文を記す。
夏目漱石の銅像
右に「則天去私」と刻まれている。