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【聖文学者信仰】早稲田文学を歩く with Cats. @村上春樹ライブラリー&漱石山房記念館(2023年5月16日撮影)


特集号 早稲田大学崇拝と早稲田文学信仰

"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

早稲田大学構内

Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)正午

早稲田大学は学問の独立を全うし 学問の活用を効し模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す

早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て之が自由討究を主とし常に独創の研鑽に力め以て世界の学問に裨補せん事を期す

早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て学理を学理として研究すると共に之を実際に応用するの道を講し以て時世の進運に資せん事を期す

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て個性を尊重し 身家を発達し 国家社会を利済し併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

早稲田大学教旨 1913年創立30周年大隈重信による宣言文

『早稲田大学教旨』にある「模範国民」は悪しきエリート主義の源となっている。

しかしカトリックロゴス感覚においてエレクト(選民)とは信仰から形成されるペルソナとされ「最高善の神の王国の到来」における世界市民と見做されます。
それは「模範国民信仰」と呼ばれるものです。

一方で早稲田大学の悪しきエリート主義は最高善の神の王国の選民を示していません。
人の王国の特権階級を意味しています。
早稲田大学の悪しきエリート主義がカトリックロゴス感覚を信仰弾圧しネオ・ナチズム国家を建設したのです。
それが「模範国民崇拝」であり「早稲田大学崇拝」となっているのです。

純愛信仰(聖愛信仰)

純愛信仰(聖愛信仰)とはdoxaを廃棄することで信仰を入れる場所を確保することを言う。
それが何故純愛(聖愛)なのだろうか?
それはイマーゴを愛することを指すからです。
doxaを廃棄してありえる「愛」とは「純愛(聖愛)」なのです。

大石宗磨の福音

純愛崇拝(聖愛崇拝)

純愛崇拝(聖愛崇拝)とは純愛(聖愛)とされる何かを崇拝することを指します。
たとえその対象がイマーゴではなくdoxaであっても純愛(聖愛)とされ崇拝の対象となります。

大石宗磨の福音

譬え

例を挙げれば夏目漱石は純愛信仰(聖愛信仰)であり村上春樹は純愛崇拝(聖愛崇拝)です。
夏目漱石はdoxaを廃棄してありえる「愛」のあり方を「純愛(聖愛)」作品として執筆しました。
しかし村上春樹は純愛(聖愛)とされる何かへの崇拝とそれから形成される絶対命令と絶対服従を暗示的に表現した作品を執筆しています。
夏目漱石は「黙示による世界文学」であり、村上春樹は「カルト作家」であるのです。

大石宗磨の福音

村上春樹ライブラリーの前置き

早稲田大学崇拝とは自称模範国民(人の王国の特権階級)がカトリックロゴス信仰(神の王国の選民)を弾圧することでありえる。
そしてそのような弾圧者を聖人として祀る神社の建立を示している。
これは早稲田大学卒業の村上春樹も早稲田大学中退のタモリ(森田一義)もカトリックロゴス信仰(神の王国の選民)を弾圧し聖人とされた存在であることを認識すれば理解し易いだろう。
そういったネオ・ナチズムとして建立された村上春樹ライブラリーは自称模範国民の神社でありそれはカトリックの弾圧者を示す「サタンの印刻」であるのです。
そして「村上春樹ライブラリー」は「戦争犯罪賛美」のモニュメントとして崇拝関係の世界的中心となっています。

「サタンの印刻」の美化としての村上春樹ワールド(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)である。
それはトートロジーと循環論証によっている。
カトリックロゴス信仰を弾圧するサブカルチャーであるのです。

カトリックロゴス信仰(優等)に論理上の虚偽(劣等)が勝るネオ・ナチズムの典型的なあり方がこれらサタンの論理(人の王国の特権階級)です。
「神の王国の選民」が方舟(聖櫃)であるなら、「自称模範国民」は「方舟(聖櫃)に見せる技術」である。
東京スカイツリー(バベルの塔)を建立した早稲田大学卒業の森喜朗も「方舟(聖櫃)に見せる技術」の典型であるだろう。
これは高橋源一郎にも顕著に窺える。
循環論証はデマゴーグの典型ということです。

早稲田大学卒業(自称模範国民)の森喜朗が建立した東京スカイツリーは「バベルの塔(ネオ・ナチズム)」の象徴である。

「バベルの塔」は第2の方舟を意図している。
それは方舟(聖櫃)を弾圧し「方舟(聖櫃)に見せる技術」が勝った「バベルの塔(ネオ・ナチズム)」を意味している。

早稲田大学国際文学館・村上春樹ライブラリー

村上春樹文学とはカトリックロゴス信仰を弾圧するネオ・ナチズムのカルト音楽(街宣車)なのです。
ここは重要なポイントです。
村上春樹のカルト音楽趣味(レイシズム)はカトリックロゴス信仰のカトリック音楽を弾圧してカルト音楽(街宣車)が勝ったネオ・ナチズムの音楽ワールドであるでしょう。
村上春樹とは実はカトリック音楽(バプテスマ)を嫌っているネオナチの街宣車に過ぎないのです。

※実は村上春樹はカトリック音楽(バプテスマ)を嫌っているのです。(最重要ポイント)

カトリック音楽(バプテスマ)は「知の廃棄(バプテスマ)」であり、カルト音楽(レイシズム)は「知の鵜呑み(レイシズム)」である。
村上春樹のカルト音楽趣味(レイシズム)はバプテスマではなくレイシズム(偏見)であると言える。

村上春樹ライブラリー到着

Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)正午
この日は暑かった!!

建物正面入口横の表札(とにかく可愛い)

正面入口の植栽が綺麗に整備されていました。
正面入口方向から絵を描いている初老の女性がいました。

建物サイドの入口と建物サイドのモニュメント

モニュメントは大きな飾りで流線型の歪さが目立った。
サイドの入り口はピロティになっている。

建物サイドの入口から入ると左側におしゃれなカフェがある。(ガラスに写っているのは私です)

カフェにはおしゃれなランチメニューがある。

建物正面入口と建物正面モニュメント

ここから左方向へ歩くとすぐに演劇記念館(坪内逍遥)。

モニュメント全景(かなり大きい歪な流線型の曲線)

隈研吾お得意の歪なデザインである。
しかしそこにある思想性は反カトリックロゴス感覚と言えるだろう
それはサイエンスフィクションではなくマンガである。
サイエンスフィクションはカトリックロゴス感覚を持ち芸術信仰である
それはカルチャーです。
マンガはカトリックロゴス感覚を弾圧する超人の存在でありオタク崇拝である。
それはサブカルチャーである。
このモニュメントの歪さはイエスの右側の存在を崇拝するハーケンクロイツであるだろう。
それは「ネオ・ナチズム」の存在です。
歪さのデザインは隈研吾の得意技であるがそこに救済信仰はない。
この場所はカルトの場所であり信仰の場所とはならないだろう。
カルトの場所は文学と本来異質であるのです。
しかし村上春樹のカルト作品にとっては親和性があると言えるだろう。
村上春樹の作品は文学崇拝ではあるが文学信仰ではないのです。
ただ詐欺商売にカルトは絶大な力を持つのです。
それは暗示的表現への崇拝となり絶対命令と絶対服従を形成します。
カルト商法は最強です。
「とんねるず」の「野猿」だって大成功したのです。

「野猿」崇拝が引き起こした自殺事件

純愛信仰(聖愛信仰)を弾圧する純愛崇拝(聖愛崇拝)のことであり、そのための陳腐な存在への崇拝を扇動することで引き起こされたカルト凶行事件であるでしょう。
純愛崇拝(聖愛崇拝)は暗示的表現への崇拝として存在する。
相手を命令で支配することがカルト商品(詐欺商売)の価値とされる。
純愛信仰(聖愛信仰)は生命のメッセージを発し、純愛崇拝(聖愛崇拝)は死のメッセージを発する。
それは信仰(優等)を弾圧し崇拝(劣等)が勝る「ネオ・ナチズム」を形成するからである。
「信仰の生命のメッセージ」に対するすべて反対が「崇拝の死のメッセージ」です。
それはフジサンケイグループが「ネオ・ナチズム」であることの象徴として存在します。
「とんねるず」が結成した人気グループ「野猿」はフジテレビの企業ロゴ「逆さ睫毛」と同じ意味を示していた。
このように純愛崇拝(聖愛崇拝)を扇動し死のメッセージを暗示することでカルト自殺事件を引き起こした「とんねるず」と「フジテレビジョン」の責任は重いと言えるのです。

ここに見るように人気グループ崇拝の番組宣伝活動がファンである純愛崇拝者(聖愛崇拝者)の自殺を扇動した疑いが強いと判断されます。
純愛信仰(聖愛信仰)であるならdoxaを廃棄することで「純愛信仰(聖愛信仰)」を受肉し「永遠の命(パン)」を得ます。
それは人を救済する純愛信仰(聖愛信仰)です。
しかし「とんねるず」の人気グループ「野猿」はすべてdoxaで構成されています。
すべてまがい物なのです。
彼らはdoxaへの崇拝として存在しているのです。
仮にそのdoxaを廃棄した場合に一体彼らに何が残りますか?
純愛崇拝者(聖愛崇拝者)はバカにされ愚弄され貶められ侮辱されていただけだと判明するだけです。
そして暗示的になされていた絶対命令と絶対服従は暴走を引き起こします
人気グループ「野猿」は完全にカルト商品(詐欺商売)だったのです。
純愛崇拝者(聖愛崇拝者)にdoxaを売りつけコントロールしていました。
彼らに純愛信仰(聖愛信仰)の欠片もありません。
人への救済はないのです。
純愛崇拝(聖愛崇拝)の対象が煽るだけ煽って姿を消すとき純愛崇拝者(聖愛崇拝者)に恐慌は訪れます。
純愛信仰(聖愛信仰)への道が弾圧された中で純愛崇拝(聖愛崇拝)の対象は煽るだけ煽って無責任に逃げ切ります。
残された純愛崇拝者(聖愛崇拝者)は逃げ場がありません。
絶対命令と絶対服従は暴走を引き起こし死へ崇拝者を向かわせます。
「死への崇拝」の暗示的表現が行われていたのです。
カルト商品(詐欺商売)は崇拝者を死へ導く。
当然といえば当然です。
信仰の道は弾圧され崇拝の対象は詐欺だと判明する。
しかし崇拝の暴走は起こり、絶対命令は絶対服従として死へ誘うのです。
「死への崇拝」の暗示的表現がカルト商品(詐欺商売)の崇拝対象者によって行われていたことは分析すれば明らかになるでしょう。
それがカルト凶行自殺を引き起こします。
その時カルト自殺事件は起こるのです。
また超重大事件が起こるのもこの時です。
これは仮説ですが「野猿カルト事件」と同様のカルト事件が近日中に勃発するかもしれません。
それはもしかしたら「村上春樹カルト事件」となるかもしれません。
「村上春樹カルト事件」の緊急着陸場所はどこになるのでしょうか?
御巣鷹山への日航ジャンボ機墜落事件と同等のインパクトがあるかもしれません。
私は軟着陸を目指す気はありません。
ゴリアテ(サタン)は屠殺します。
村上春樹は日本屈指の文学者でスター作家とされています。
世界で最も評価されている作家と宣伝されています。
しかしそれは文学崇拝(カルト商品)だったのです。
それは結局「野猿カルト事件」と同じに絶対命令と絶対服従の暴走を引き起こすでしょう。
それは集団カルト事件の様相を呈することは想像できます。
純愛信仰(聖愛信仰)と純愛崇拝(聖愛崇拝)の関係は文学信仰(カトリックロゴス)と文学崇拝(カルト商品)の関係と同等です。
崇拝関係(詐欺商売)を形成する村上春樹商売は破綻するのはいつでしょうか?
その時になんらかのカルト凶行事件が勃発するでしょう。

文学信仰(カトリックロゴス)はdoxaの廃棄された場所に宿ります。
それが最高善の神のロゴスの受肉でありカトリックロゴス感覚としての「SONY(アーメン)」です。
それは決して暴走を引き起こしません。
知を廃棄することは「信仰」を持って生きることを指します。
しかし知を鵜呑することは「崇拝」を持って生きることで絶対命令と絶対服従から暴走を引き起こし死(戦争)へ向かうのです。
それが村上春樹の「ネオ・ナチズム」です。
彼は決して反戦家ではありません。
彼の熊本城賛美の美意識はそれを垣間見させます。
あんな城に美を見てその美意識を誇る彼の姿勢にそのセンスを疑ってしまうのです。
村上春樹のカルト音楽趣味(レイシズム)は独自と言われています。
それは独自崇拝(カルト商売)のセンスを形成する根拠とされます。
しかし独自信仰(カトリックロゴス)とはdoxaを廃棄した場所に受肉した信仰から形成されるオリジナル(ペルソナ)です。
独自崇拝(カルト商売)と独自信仰(カトリックロゴス)の違いを理解すると村上春樹文学の独自崇拝(カルト商売)と普遍崇拝(詐欺商売)もカルト事件へ収斂されることは理解されやすいでしょう。
結局は暗示的な作品(センス)が絶対命令と絶対服従を形成する。
しかし信仰から形成されるセンス(オリジナル)はペルソナが受肉する叡智である。
叡智を受肉したセンスは人間文化(ペルソナカルチャー)となる。
では叡智を受肉していないセンスとはなんだろうか?
それは一見かなり幼稚であるように感じる。
何故ならばカトリックロゴス感覚を弾圧して成立している歪な形体だからです。
ではその正体は何でしょうか?
最高善の神の摂理に背いた歪な人間社会の形成です。
簡単に言えば劣等が優等に勝るネオ・ナチズムと言えるでしょう。
それは先程指摘した文化という「至高の抽象化の高み」に対しサブカルチャーという「原始的段階に近い」を優位とする社会形成です。
カルチャーに対しサブカルチャーが勝る社会はネオ・ナチズム社会です
しかし村上春樹は文化人とされています。
そこが大きな間違いだったのです。
彼のセンスに叡智は受肉していません。
叡智のないセンスはカルチャーではないし真のセンスとも言えないでしょう。

では村上春樹は何をしているのでしょうか?
「神に見せる技術」を弄しているのです。
それは「サタンの技(サタン崇拝)」です。
オーディオ趣味は沼と呼ばれる危険地帯です。
それは「耳慣れ」と「沼」という詐欺システムで成り立つ商売だからです
そしてカルト音楽(レイシズム)は消費社会のサブカルチャーであるでしょう。
カルト音楽(レイシズム)はカルチャーでしょうか?
カルト音楽(レイシズム)はサブカルチャーでしょうか?
先ほど示しましたが信仰があれば叡智が受肉してカルチャーとなります。
しかしサブカルチャーのカルト音楽(レイシズム)はネオ・ナチズムとして崇拝関係を形成します。
そのようなカルト状態が暴走を引き起こし死(戦争)へ人々を誘います。
「神に見せる技術(サタン崇拝)」はサブカルチャーのカルト音楽(レイシズム)では顕著です。
例えば米津玄師の神演出は「神に見せる技術(サタン崇拝)」の代表例でしょう。

独自信仰(カトリックロゴス)と普遍信仰(最高善の神のロゴス)こそが救済信仰(メシア)であり最高善信仰(イエス・キリスト)であるのです。
それが本物(反戦家)なのです。
カルチャーのカトリック音楽(バプテスマ)とは何でしょうか?
信仰から叡智を受肉するあり方は「アリア」にあると思います。
それは歌詞に信仰を入れる場所が確保されているかどうかが大きな分水嶺です。
アリアとは相手の欲望の扇動ではなく、自らの信仰を問う歌詞です。

詐欺師(カルト)に注意めされよ!(アリア)
何故ならばサブカルチャーは「死へ向かう命令」を発するからです。
「玉砕!」
「死ね!」
彼らは死神だ!
結局は「背水の陣」をひく低能さが招く事態である。
「策」とは「背水の陣」を禁忌とする信仰が形成するオリジナル(最善策)である。
「背水の陣」は「死への崇拝」が形成する絶対命令と絶対服従であるだろう
低能児である日本人政治家が好むのが「背水の陣」である。
それが暴走して戦争へ国民を誘うのは低能児日本が過去に行った失敗であるだろう。
しかしまた同じ失敗を繰り返す日本低能児政治家がたくさんいる。
サブカルチャーの村上春樹はその政治的宣伝コンテンツを担った死神に過ぎない。

何故こうなったのだろうか?
低能児バンザイとなった日本の文化レベルは低い。
何故日本の文化レベルは下がったのだろうか?
「カルト(サブカルチャー)」を規制することが必要である。
サブカルチャーはアニメとは言えない。
何故ならばカルチャーのアニメとサブカルチャーのアニメに差異化されるからです。
そして信仰から叡智を受肉したアニメは文化芸術です。
サブカルチャーは規制対象にする必要があります。

「信教の自由」は日本国憲法に定められた基本的人権の一つである。
しかし「崇拝の自由」は規制しなければならない。
「信仰」と「崇拝」は全く別物である。
「信仰」は自由であり合憲である。
しかし「崇拝」は違憲とされなければならない。
日本国憲法において「信仰の自由」と「崇拝の禁止」を明確にする必要があるだろう。
それが統一教会の崇拝を禁止する思想的根拠(法的根拠)にもなるだろう
これは大事件である認識を持つ必要があるのです。

予言

「村上春樹カルト事件」が発生する。
その時に信じるべきは「信仰」であることが黙視されるでしょう。

今回の新作もバカ売れしているらしいです。
私は批評を書くために責任をもってすべて目を通しています。
現在新作も図書館で予約していますが2023/5/18時点において順番は7番目でした。

村上春樹ブームは何故起こるのでしょうか?

Answer:政治的宣伝コンテンツとして信仰弾圧システムとなっているからです!

一言で評して信仰を弾圧して崇拝を形成する何かを持っているからです
それは何か?

それはある意味で人間の超能力感覚と言えるものだろうと見做されます。
イエス・キリストのカトリックロゴス感覚を弾圧した村上春樹ワールドで人は超感覚を形成する超人となることができます。
それは作品の主人公に顕著にうかがわれます。

例えば「ねじまき鳥クロニクル」における「壁抜け感覚」です。
そのような感覚は暗示的表現としての絶対命令と絶対服従を形成します。
ノモンハン事件は日本陸軍の大惨敗となったと言われています。
しかしそこで頭角を現した数少ない軍人が防疫部隊の石井四郎でした。
そしてマルタという魅力的な女性が登場します。
それはノモンハン事件で高評価された石井四郎が後に創設した「731部隊」の人体実験のサンプル名「丸太」を示しているのではないでしょうか?
そして撤退する日本軍による動物園の動物虐殺シーンは非常にイノセント(無辜)な動物殺戮として描かれています。
それは中国大陸で「731部隊」など日本軍が行った蛮行(サタン)を暗示的表現で肯定しているように見えます。
探せば幾らでもこのような暗示的表現で「サタン」の肯定部分が見つかるでしょう。
それはリアル(知の廃棄)を弾圧しパロディ(知の鵜呑み)を賛美することで形成される崇拝関係であり絶対命令と絶対服従のことを指しています。
ここにある「731部隊」の暗示的な肯定表現は「戦争犯罪のパロディ」でありネオ・ナチズムへの忠誠を示しています。

村上春樹は「戦争犯罪の概念」を弾圧し「戦争犯罪の概念のパロディ」を作品として制作したのです。

要は村上春樹は反戦家ではなく「戦争犯罪への批判」を弾圧し「戦争犯罪への批判のパロディ」を制作しているネオ・ナチズムです。
村上春樹は「戦争犯罪」の賛美者なのです。(ここは最重要です)
それは村上春樹が生粋の「ネオ・ナチズム」であることを示しています。

そのようなイエス・キリストのカトリックロゴス感覚を弾圧しその右側に存在するナイーブな超人(サタン)が村上春樹作品の主人公なのです。
今回の作品はまだ未読ですがそのような超能力感覚を可能とする村上春樹ワールド(マンガ)の作品となっているでしょう。
しかし私が視聴したアニメ「呪術廻戦」の超能力感覚はカトリックロゴス感覚でありその世界観はマンガと違ってサイエンスフィクションでした。
村上春樹ワールドの超能力感覚にはサイエンスフィクションの成立に不可欠なカトリックロゴス感覚が欠落している。
何故ならば村上春樹はカトリックロゴス感覚を弾圧するアンチキリストだからです。
村上春樹はカトリックロゴス感覚を弾圧した世界観(マンガ)の作家なのです。
それは彼がサブカルチャーでありオタクであることを示しています。

もし彼が世界観(サイエンスフィクション)の作家であるならカルチャーであり芸術家です。
「崇拝」は「オタク」であり「信仰」は「芸術家」なのです。
オタク芸術は信仰を弾圧する暗示的表現となっているのです。
そういったマンガ小説の作品は黒ミサカルトの存在を示しています。
そのオタク作品を過大評価した事件はカルト事件として重大事件を引き起こすでしょう。
庵野秀明や新海誠、村上春樹は同等なのです。
公然と行われる黒ミサカルトは最悪の重大カルト事件を引き起こす可能性を暗示しています。
ハーケンクロイツのアドルフ・ヒットラーとヨーゼフ・ゲッペルスの復活です。
村上春樹作品は「ネオ・ナチズム」なのです。

cult (kŭlt)〓
[L. cultus, an honoring, adoration].祭儀,礼拝形式,祈祷療法(教義または宗教的な教えに基づく体系化された信仰および儀式.従順な献身的な信者,指導者の非現実的な理想化,個人的な欲望や目的の放棄および伝統的な社会価値観の排除などの特徴がある).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

カルト
cult
祭儀,儀式,崇拝を意味することばが転じて,特定の人物・事物を熱狂的に崇拝,礼賛すること。または,そうした行動をとる集団や教団をさす。アメリカ合衆国では,1969年のチャールズ・マンソンとマンソン・ファミリーのメンバーによる女優シャロン・テートらの虐殺事件,1978年に起こったジム・ジョーンズの教団「人民寺院」の集団自殺事件など,カルトがからんだ陰惨な事件が相次いだ。日本でも,オウム真理教による 1994年の松本サリン事件,1995年の⇨地下鉄サリン事件など,カルトが否定的にとらえられるきっかけとなった事件が発生した。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

演劇記念館方向から撮影

村上春樹の言葉

学生への優しい言葉が綴られている。
ただ学生にカルト音楽(レイシズム)を薦めるような気軽な感じであり大切なカトリックロゴス感覚を示せないところが文学者として失格であるだろう。

デザイン重視の本棚と階段(飾り棚である。)

「ノルウェイの森」は「ネオ・ナチズム」であり超危険なカルトである。

村上春樹の愛好するジャズのレコードコレクション(ワルツ・フォー・デビイに注目!)

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

村上春樹はビル・エヴァンス・トリオを信仰しているわけではない。
村上春樹はワルツ・フォー・デビイの収録後に若くして交通事故で死んだスコット・ラファロを「死への崇拝」の象徴にしていると考えられる。
又村上春樹はスコット・ラファロの存在を自らのカルト作品の根拠に利用していると思われる。
それは「死のカルト」である。
それは暗示的表現で絶対命令と絶対服従をあらわしている。
結局「純愛信仰(聖愛信仰)」は絶望の中で天から降る「永遠の命(パン)」を見出すが「純愛崇拝(聖愛崇拝)」は絶望の中で「死への崇拝」を見出す。
そして暗示的表現でそれを扇動する「政治的宣伝コンテンツ」が村上春樹の小説作品である。
「戦争への扇動(ネオ・ナチズム)」であるだろう。
村上春樹の愛好するスタン・ゲッツに関してもスコット・ラファロが最後に共演した相手であったらしい。
村上春樹カルトのヤバさが垣間見られる。
「死のカルト事件(ネオ・ナチズム)」の暗示的表現を見出すことは容易い。

村上春樹とスコット・ラファロ(大石宗磨の一文)

ディア・ハート

主人公はレコード店でアルバイトをしている。
クリスマスに僕は直子の大好きな「ディア・ハート」の入ったヘンリー・マンシー二のレコードを買ってプレゼントした。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

ワルツ・フォー・デビイ

オーディオルームのレコード棚中段右端の「ワルツ・フォー・デビイ」は「ノルウェーの森」の最重要シーンの一つでヒロイン直子の誕生日にかかっていたレコードである。
しかし村上春樹の独自崇拝(カルト商売)の「センス」は「ハイセンス(スーパーセンス)」ではなく、劣等が優等に勝る「ネオ・ナチズム」である
そして真の「センス」は存在する。
そして「センス」に対し「センスに見せる技術」が存在する。
その「センス」がすべて反対になった様子を村上春樹の「センスに見せる技術」の仕掛けである「逆転」の「ネオ・ナチズム」というのです。

「直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何度かかけたのと同じレコード」はビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」と主人公が回想している。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

突撃隊(PTSD)と主人公(ネオ・ナチズム)

マルティン・ハイデッガーの突撃隊は「PTSD」治療としての社会運動だったのです。
しかしハイデッガー(突撃隊)は路線対立によってアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスに掃討され弾圧されてしまった。
それはハイデッガーが純愛信仰(聖愛信仰)でありヒットラー等が純愛崇拝(聖愛崇拝)であることを示している。
純愛信仰(聖愛信仰)はカトリックロゴス感覚を示し、純愛崇拝(聖愛崇拝)はハーケンクロイツの親衛隊を示している。
ハイデッガーの信仰(カトリックロゴス感覚)は弾圧されヒットラーの崇拝関係(ハーケンクロイツの親衛隊)が「絶対命令と絶対服従」を形成し「ネオ・ナチズム」として暴走したのです。
マルティン・ハイデッガーの「突撃隊」は「愛国信仰」(カトリックロゴス感覚)であり、アドルフ・ヒットラーの「ネオ・ナチズム」は「愛国崇拝」(ハーケンクロイツの親衛隊)となったのです。
これは劣等が優等に勝ることで形成された「ネオ・ナチズム」の見本となっています。

※村上春樹の熊本城賛美とは「ハーケンクロイツの親衛隊」が示す典型的な「愛国崇拝」のあり方だった。
※昭和天皇はカトリックロゴス感覚でしたが「ハーケンクロイツの親衛隊」に恫喝されていたのです。
※「昭和の日」(旧みどりの日)に行われる多摩御陵への大規模な右翼街宣車の襲来はそれを指し示しています。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

外傷後ストレス障害(ガイショウゴストレスショウガイ)
[英] posttraumatic stress disorder;PTSD
[同義語] 【心的外傷後ストレス障害,外傷神経症(外傷性神経症) traumatic neurosis】
1980年に米国精神医学会が発表したDSM-Ⅲの中に,不安障害の下位カテゴリーとして登場した概念。従来の外傷後神経症,戦争神経症と関係する。本障害研究の大きな進展の契機となったものとして,米国におけるベトナム帰還兵の社会不適応や,性的虐待の被害者の存在が挙げられる。診断されるには,誰にとっても外傷的となりうる強さのストレスに曝されなければならない。特異的な症状として,侵入的思考,過覚醒,フラッシュバック,悪夢,睡眠障害,記憶と集中力の変調,驚愕反応などがあり,その症状はストレスが誘発する脳の構造と機能の変化の表れであるとも考えられている。
(511037)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

posttraumatic stress disorder (PTSD)〓
心的外傷後ストレス障害(①通常,ふつうに人間が人生を送る上では経験しないような心的外傷体験の後に生じる特徴的な症状であり,このなかには原因となった外傷体験の反復する再体験や外傷を思い起こさせるような刺激の回避,外的刺激に対する無感覚,様々な自律神経機能障害および認知障害,不快気分が含まれる.②DSM診断の1つで特定の診断基準を満たせば確定する).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

しんてきがいしょうごストレスしょうがい【心的外傷後ストレス障害】
post traumatic stress disorder; PTSD
外傷後ストレス障害ともいう。アメリカ精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル(第3版)』 Diagnostic and Statistical Mannual of Mental Disorders(1980)に初めてこの名が記載された。それによると,自然災害,事故,強姦や虐待などの犯罪,さらに戦争といった,人が通常経験する範囲をはるかにこえた強い⇨心的外傷を受けたあとに発症する精神障害で,症状が1ヵ月以上続くものをいう。症状が心的外傷体験直後から1ヵ月以内にとどまる急性ストレス障害 acute stress disorder(ASD)とは区別される。第1次世界大戦後の元兵士のショック症状(⇨戦争神経症)や,ベトナム戦争後のアメリカ帰還兵の社会不適応の研究・治療から PTSDの実態がわかり,詳しい研究が始った。日本では 1995年1月の兵庫県南部地震後に自殺者が多発したことから注目されるようになった。具体的な症状としては,夢や錯覚,幻覚,フラッシュバックなどに象徴される外傷体験の繰返し,無感動,無関心といった外傷体験の記憶の抹消,さらに不眠,集中力低下などの亢進状態も認められる。治療にはカウンセリング,精神療法などが必要とされ,抗うつ剤や抗不安剤を使う場合もある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

とつげき‐たい【突撃隊】
(Sturmabteilung)ナチ党の下部組織。街頭での宣伝や暴力衝突を担い、ナチ党の政権掌握後、組織が巨大になったが、1934年幹部が粛清され、無力化。略称、SA

『広辞苑 第六版』 岩波書店

Hei・deg・ger [háideɡər,―di―;Ger. háIdɛɡɐ]
―n. Martin,ハイデッガー(1889-1976):ドイツの哲学者;Sein und Zeit『存在と時間』(1927).

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

「ノルウェーの森」は「突撃隊(PTSD)」を嘲笑するシーンの連続である
これはパワーハラスメントで「PTSD」を罹患した「パブロフの犬」を嘲笑することと同レベルの「崇拝心理描写」であり「信仰心理描写」のユーモアの欠片もない。
これはハイデッガーを弾圧したヒットラー等を示している。
ハイデッガーがナチズム(信仰)だとしたらヒットラーはネオ・ナチズム(崇拝)であるのです。
この信仰(優等)に対し崇拝(劣等)が勝る村上春樹ワールドはネオ・ナチズムである。
村上春樹ワールドはパワーハラスメントで虐待した相手を嘲笑する嫌らしさだけであるだろう。
これは中井久夫「いじめの政治学」で研究されている。
では「村上春樹信仰」と「村上春樹崇拝」の両者は存在するだろうか?
今までの考察で言えば信仰と崇拝の両者が存在している。
しかしそれは無理だと私は見做している。
もし現代の「聖愛信仰(エロス)」として「村上春樹信仰」を指摘するなら「夏目漱石信仰」としなければならない。
何故ならば村上春樹本人が崇拝関係の存在であるのだから「村上春樹信仰」は無理である。
村上春樹ワールドは文学崇拝となりカルト文学にしかならないからです。
「夏目漱石信仰」を言うなら「それから」が最適であると思う。
何故ならばそれは最愛信仰(聖愛信仰)であるから「とんねるず」の「野猿」のようなインチキを仮に愛したとしてもそれが最愛(聖愛)とは言えないからです。
最愛信仰(聖愛信仰)はそのようなまがい物を嫌い最愛(聖愛)を信仰することを指します。
では夏目漱石崇拝や最愛崇拝(聖愛崇拝)は存在するだろうか?

○恋(こい)は盲目(もうもく)
Love is blind》恋におちると、理性や常識を失ってしまうということ。
『大辞泉 第二版』 小学館

これは完全に愛(恋)のカルトである。
最愛信仰(聖愛信仰)ではない。
人糞でも愛するだろう。
全くのスカトロジストである。
それは聖愛ではない。
私は椎名林檎が「Love is blind」を愛好していると知って彼女は最愛(聖愛)ではなく完全なカルトだと感じた。
椎名林檎は最愛信仰(聖愛信仰)ではなくカルト志向であることは明白であるだろう。
私は彼女の女史(博士)になりきった姿に幻滅した。
椎名林檎は「女史」ではなく「女史に見せる技術」の存在であるだろう。
彼女のパフォーマンスは「とんねるず」の「野猿」と同レベルである。
最愛信仰(聖愛信仰)は試金石と分水嶺として機能する。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

PTSDといじめの関係(突撃隊はPTSD治療の医師であり、ネオ・ナチズムは人体実験の医師である。)

PTSD(突撃隊)は「いじめの被害者側」であり、ネオ・ナチズムは「いじめの加害者側」である。

「パブロフの犬」の条件反射とは人間のパワーハラスメントによって引き起こされる「PTSD」発症とトートロジーではないだろうか?
ここに医学界のインチキ疑惑が沸き起こっている。
「パブロフの犬」とは虐待された動物の「PTSD」発症であるという診断である。
ここにインチキの核心があったと言える。

相互性があればよく、なければいじめである。

相互性があればよく、なければいじめである。

いじめの過程は「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階

徹底的に屈服させる。

「搾取」

パヴロフ
[英] Pavlov, Ivan Petrovich
1849-1936。ロシアの生理学者。心臓,肝臓および消化管神経支配や消化作用,消化腺の分泌機序の研究で多大の成果を上げたが,その解釈は神経性調節に傾きすぎたきらいがある。後年は消化器の研究から退き,もっぱら大脳機能の研究に没頭した。イヌに食事を与える時に鈴の音を聞かせる習慣をつけると,鈴の音を聞かせるだけで,唾液の分泌が亢進する条件反射を発見した。1904年ノーベル医学生理学賞を受けた。
(061006)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

パヴロフ型条件づけ(パヴロフガタジョウケンヅケ)
[英] pavlovian conditioning
[同義語] 【古典的条件づけ classical conditioning,レスポンデント条件づけ respondent conditioning】
特定の反射を引き起こす無条件刺激と,もともとその反射とは無関係な中性刺激(neutral stimulus)を選び,中性刺激→無条件刺激の順で対提示することを繰り返すことにより,条件づけを行うこと。次第に中性刺激がその反射を引き起こすようになるが,その時中性刺激を条件刺激,それによって生じる反射を条件反射(反応)と呼ぶ。パヴロフにより確立された学習の基本形態の1つであり,彼のイヌの唾液条件づけが最も有名である。それは,条件づけ前の,ベル(中性刺激)→餌(無条件刺激)→唾液分泌(無条件反射)という状態から,条件づけ後の,ベル(条件刺激)→唾液分泌(条件反射),に到るプロセスである。
(051030)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

ここに村上春樹の「ネオ・ナチズム」が露骨にあらわれている。
突撃隊(ハイデッガー)を馬鹿にしきった村上春樹のセンスは完全にネオ・ナチズムと見做されるだろう。
これらのシーンは本当に酷い描写となっていて、主人公はガールフレンド達と一緒になって突撃隊をことごとく笑い者にしていく。
カップルの笑い者にするシーンはグロテスクである。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」を聴きその夜に二人は結ばれる。
それだけ聞くと一見素敵なストーリーであるかのように見える。
しかしそれは純愛信仰(聖愛信仰)ではないだろうと思います。
何故ならばdoxaを廃棄した「愛」が「純愛(聖愛)」だからです。
この肉体関係に純愛(聖愛)はないと言える。
「PTSD」を罹患してありえる「パブロフの犬」としての男女の肉体関係が純粋セックスだとして純愛(聖愛)と見做すのは「ネオ・ナチズム」の純愛崇拝(聖愛崇拝)である。
劣等が優等に勝ってある「純愛(聖愛)」が純愛崇拝(聖愛崇拝)としての「ネオ・ナチズム」であるだろう。
純愛(聖愛)は存在する。
しかし「純愛(聖愛)」に対し「純愛(聖愛)に見せる技術」が存在する。
その逆転が「ネオ・ナチズム」の「純愛崇拝(聖愛崇拝)」である。
純愛信仰(聖愛信仰)は叡智を受肉して奇跡を起こす。
それは真に優等である。
純愛信仰(聖愛信仰)のあり方はアガベーでありエロスとしてある。
「パブロフの犬」は何らかのパワーハラスメントに晒された経験から形成される「PTSD」であるだろう。
この場合のようにただ肉体的にセックスが可能となったことを純粋セックスだと主張することでそれを「純愛信仰(聖愛信仰)」と見做すことはできないと私は思う。
それなら風俗嬢との純粋セックスでも同じだろう。
何故ならば直子に関してセックスが不可能となっていた異常状態の中で主人公とだけセックスが可能となるシーンは「純愛信仰(聖愛信仰)」ではなく「パブロフの犬」の「PTSD」でしかないだろうからだ。
それは「パブロフの犬」の純愛崇拝(聖愛崇拝)であり風俗嬢と同じであるだろう。
「ノルウェイの森」を純愛小説(聖愛小説)と宣伝したマスメディアは「ネオ・ナチズム」でしかなかった。
この小説は「純愛崇拝(聖愛崇拝)」であり「パブロフの犬」であり「PTSD」であり「風俗業」であり「カルト小説」であった。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

「ネオ・ナチズム」の構造

愛する恋人ではなく、主人公とだけセックスが可能となる。(劣等が優等に勝る優越感は「ネオ・ナチズム」のあり方だろう)

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

「ノルウェイの森」とは劣等が優等に勝る「ネオ・ナチズム」だろう。
ヒロイン直子は故人キズキ(恋人)とはセックスが不能であった。
そして主人公(友達)とはセックスが可能となっている。
これは「ネオ・ナチズム」の特徴である劣等が優越するあり方を示している。
意味不明な優越感が形成される。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

では村上春樹は純愛崇拝(聖愛崇拝)なのだろうか?
それはカルト商品(ワルツ・フォー・デビイ)が発する暗示的表現が絶対命令と絶対服従を形成する。
何故直子はこの主人公とだけセックスできたのだろうか?
それが村上春樹作品がカルトである所以なのです。
「難解で理解不能な疾患」を想起させ崇拝させるのです。
それは劣等が優等に勝る崇拝関係であり「ネオ・ナチズム」であるだろう。
又主人公は超人(サタン)として女を見事にモノにするのです。
超人崇拝(サタン崇拝)は「ネオ・ナチズム(ハーケンクロイツ)」であり「逆さ睫毛(フジテレビ企業ロゴ)」のようにあるのです。

大石宗磨の警鐘(村上春樹は超危険なカルトだ!)

ジャズ喫茶ピーターキャットで使用されていたレコード二枚

年代を感じさせて雰囲気があった。
ネコのマークが入っていた。
センスを感じさせる。
しかし真にセンスがあるのはレコードジャケットの方でありネコのマークではない。

オーディオルーム(街宣車ルーム)

完璧なセッティングだった。
スピーカーは高音と低音の二台の組み合わせである。
所謂2WAYスピーカーシステムである。
一般にオーディオマニアの間では1WAYスピーカー(フルレンジ)が音場の歪みが少なく推奨されている。
しかしこの組み合わせは当初の高音1WAYスピーカー(フルレンジ)と低音1WAYスピーカー(フルレンジ)を聴き比べる趣向から変更され高音1WAYスピーカー(フルレンジ)と低音1WAYスピーカー(フルレンジ)による2WAYスピーカーシステムの採用とされたらしい。
聴いてみたら良かったというアドリブであったと担当女性スタッフから伺いました。
ただオーディオの一般常識として高音1WAYスピーカー(フルレンジ)と低音1WAYスピーカー(フルレンジ)を聴き比べることはありえないだろうと思った。
何故ならそのような高音と低音へ偏ってしまった音声が心地よいとは思えないからです。
だからこれはかなり無理筋の話だった。
この話は意図的な2WAYスピーカーシステムの採用を示していて、それは1WAYスピーカー(フルレンジ)を排斥する意図を持っているのかもしれない。

そこに村上春樹の如何なる思想性があるのだろうか?

それはユダヤキリスト教(カトリック信仰)を排斥する意味を持っていて、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)を賛美することであるのかもしれない。
何故なら1WAYスピーカー(フルレンジ)とはカトリック信仰を示していると感じるからです。
もしこの指摘が正しいのなら村上春樹ライブラリーとは狂気の館であるのかもしれない。

このスピーカー設置の経緯についてはオーディオルームの担当女性スタッフから熱心な説明を受けた。
彼女からは詳細なレポートを掲載したオーディオ雑誌のバックナンバーを見せられながらかなりきちんと教えて貰いました。
さすが早稲田大学のスタッフであると思いました。
だからこの話に関して間違いはないだろうと思うのです。

そして音声というものは耳慣れするから当初高音の響きと艶やかな伸びに感心していたがだんだん飽きてきました。
オーディオとはあったらベターだろう程度の存在であるだろうね。

オーディオルーム(街宣車ルーム)のスピーカー

村上春樹の作品世界はこの音を聴けば理解されるだろう。
左側スピーカーは低音が強く右側スピーカーは高音が強い。
一聴すると作品の理解が深まる。
想像と現実の差異が埋まるのです。

オーディオルーム(街宣車ルーム)のレコードプレイヤー

村上春樹所有と同型の廃盤品(ラックスマン)。
50万円以上するらしい。
CDの曲とレコードの曲が交互に演奏される演出らしい。
しかしCDの曲とレコードの曲の違いを見抜くことは出来なかった。
レコードだからいい音という発想も劣等が優等を弾圧し勝る「ネオ・ナチズム」であるだろう。

ラジオスタジオ

「村上RADIO」はここで収録されることがあるらしい。
アシスタントの坂本美雨(坂本龍一と矢野顕子の娘)も来るとのこと。

視聴スペース(ラジオスタジオの隣)

朗読視聴はオーディオテクニカのヘッドフォンを使用していた。
こういった場所の国内メーカー製ヘッドフォンとは「SONY」か「オーディオテクニカ」のどちらかの選択となる場合が多い。
そこに思想性が如実に現れる。
SONYはカトリックロゴス感覚を至上とした世界的企業である。
村上春樹ライブラリーのヘッドフォンに村上春樹の真の思想性を見た気がする。
村上春樹はSONYが嫌いらしい。(直観)
やはり彼はヤクルトスワローズファンだな!

原文作品及び海外翻訳作品ライブラリー

奥に「羊をめぐる冒険」に登場した羊男の落書きがある。
海外の翻訳本を知りたければここに来れば解るだろう。

「羊男」は「山羊男」を示しているようです。
「山羊男」とは「悪魔」のことです。

やぎ【山羊・野羊】
(「羊」の近代朝鮮字音ヤング(yang)の転)ウシ科ヤギ属の家畜。数千年前から中近東で飼育されていた。ノヤギ(パザン)が原種の一つとされる。ヒツジに似るが、首が長く、多くは顎に鬚(ひげ)がある。粗食に耐え、荒れた土地でも飼育できる。肉用・乳用・毛用種として飼われ、アジア・アフリカに多い。ふつう肩高50~80センチメートルで、性質は活発、動作は敏捷、高い所を好む。野性の象徴、また供犠獣(スケープゴート)とされた。

『広辞苑 第六版』 岩波書店
撮影:小宮輝之
ノヤギ

あく‐ま【悪魔】
①〔仏〕仏道を妨げる悪神の総称。魔羅。
②〔宗〕悪および不義の擬人的表現。キリスト教のサタン。
③残酷・非道な人のたとえ。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

あくま【悪魔】
ユダヤ教,キリスト教などで神にそむく悪や不義を擬人化したもの。ときにデビル devil,ときにサタン satanという。両者の区別は明確ではないが,サタンあるいはデビルは悪霊たちの長ともされる。サタンは旧約聖書ではヤハウェの「検察官」として現れ,必ずしも神に敵対するものではなかったが,後期ユダヤ教やキリスト教ではデビルと同じように考えられた。デビルは元来「中傷者」「誹謗者」をいい,人々を神から離反させ罪に陥れる者をいう。ユダヤ・キリスト教では悪魔は,天使の堕落したものであって,神と並ぶ究極の支配者ではない。このような人格化された悪の表象は,イスラムの⇨イブリース,ゾロアスター教の⇨アーリマン,バビロニアのウトウクスなど他の諸宗教にもみられる。古代ギリシアのダイモンも悪魔とされるが,これはソクラテスの場合にみられるように善神としても働いた。これら悪の表象である悪魔は,さまざまな図像に表現されている。仏教では⇨魔とも魔羅ともいわれる。魔はサンスクリット語 Māraの音写。仏に敵対する鬼神のようなもので,pāpīyas(一層邪悪なる)という語とともに用いられる。釈尊が悟りを得たときに軍勢をもって威嚇し,自身の娘3人を派遣して釈尊を誘惑したという。また,心理的な疑惑,煩悩,怠惰なども意味する。仏教の魔に関する思想は,パーリ語による仏典の相応部 Samyuttanikāyaのうち,魔相応 Mārasaṃyuttaにまとめられている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

にとう‐りゅう【二刀流】 ‥タウリウ
〓二天一流(にてんいちりゅう)に同じ。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

にてん‐いちりゅう【二天一流】 ‥リウ
宮本武蔵の創始した剣術の一派。はじめ円明流と称す。二刀一流。武蔵流。二刀流。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

早稲田大学の演劇記念館と早稲田の漱石山房記念館

私は千葉県から東西線に乗って早稲田駅に降り立った。
しかしその目的は「村上春樹ライブラリー」であり「漱石山房記念館」はその存在すら知らなかった。
当初スマホのナビが不調で道に迷い一時間近くかけて早稲田大学に到着したのです。

村上春樹ライブラリーの隣は坪内逍遥の演劇記念館だった。
私は坪内逍遥のシェイクスピア全集の翻訳を読んだことがある。
又、母校である拓殖大学でシェイクスピアの講義を受講し研究もしていた
演劇記念館にはかなり興味をそそられた。

前半、村上春樹ライブラリーを見学しオーディオルームで「いい音」を確認する。
※ただオーディオは沼と言われ耳慣れを考慮すれば詐欺的な趣味と言えるのだ。(そういった意味で趣味の王様と言われる)

その後村上春樹ライブラリーでおしゃれなランチを食べようとしていたら金髪の外国人カップルに注文の列に割り込まれてしまった。
なんだか意気消沈してライブラリーの係の方に早稲田大学学食の場所を尋ねると大隈講堂近くに学食があると教えられてスマホのナビを頼りに行ってみた。
私はそこでカレーライスの大盛りを注文したのです。

私は拓殖大学八王子キャンパスで思い浮かぶのは第三食堂の大盛りカレーだった。
そこは工学部棟にあり近代的雰囲気をもった建築だった。
21年ほど前の拓殖大学八王子キャンパスの学食は第一食堂でも第二食堂でもいいのだけれどカレーライスは第三食堂が気に入っていた。
それぞれ味が違うのです。
だから学食と言えばカレーライスを思い浮かべたのだ。
簡単に言えば味の比較がし易いのです。
しかし早稲田大学のカレーライスは「しけたカレーライス」だった
大盛りの割に量もびっくりするほど少ない。
拓殖大学のカレーライスの方が数段上だった。

早稲田大学学食でカレーライス大盛りを食べた後に東西線早稲田駅に向かった。
何だか又、道に迷ってしまった。
変なところを歩くことになったのです。
そして草間彌生美術館があった。
「しけた美術館」だった。

そしてナビに従って住宅街を歩いていると漱石山房記念館の施設に偶然行き当たった。
入場料は300円です。
裏に管理の方の小屋があり伝言ノートが常設されていた。
私は夏目漱石「それから」に関する一文をそこに残した。

演劇博物館(坪内逍遥)

Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)正午

開催されている展示物は「推し活」だった。

演劇博物館の説明文

草間彌生美術館(即興のヨーグルトアート)

Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)14時前
「水玉模様」ならぬ「ブルガリアのむヨーグルトアート」である。
上下どちらの構図がいいだろうか?

漱石山房記念館到着

Soma Oishi 撮影
2023年5月16日(火曜日)14時ごろ

管理小屋の伝言ノートに漱石に関する一文を記す。

(2023)
5/16 
私は「それから」が好きです。
「それから」は漱石の「最愛信仰」が非常によく表れています。
今日村上春樹ライブラリーに行ってきましたが村上の「ノルウェイの森」が欲望の扇動を描いたものなら漱石の「それから」は信仰を描いたものであり男女の最愛の純愛信仰を描いたもので漱石こそエロスだと思いました。
村上春樹と漱石では比較になりません。
漱石は神に愛され村上は人に愛されます。
格が違うのです。
千葉県鎌ケ谷市初富808-434
大石宗磨(おおいしそうま)
7/31 追記
※「最愛信仰」、「純愛信仰」は「聖愛信仰」である。

管理小屋伝言ノートの一文

夏目漱石の銅像

右に「則天去私」と刻まれている。

漱石山房記念館施設の裏

夏目家のペットの墓(再興したもの)

漱石山房の遺構説明文

漱石の書斎復元

地下にある夏目漱石ライブラリー

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