【山岳信仰】アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」に於ける「山岳信仰(神の館)」と「登山家(バフォメット)」のパラドックス
最強の美徳
「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」は「山岳信仰(神の館)」を示し、アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」とトートロジーであった。
よって「山岳信仰(神の館)」はイクトゥスと同じ信仰と見做される。
登山家は山岳信仰を持っているのだろうか?
山岳を愛しているのだろうか?
「山岳信仰」と「登山家」の間の関係に奇妙な違和感を感じられる方は意外と多くいらっしゃるだろうと思う。
其の理由は「登山家」の「登頂」という行為が「山岳信仰」へ一々敵対する「バフォメット」の「偶像崇拝」と同様と見做されることから来ている。
「バフォメット」は「神の創造したオリジナル」へ一々敵対することで存在する「ヲタ芸」のマジックでした
※「神の創造したオリジナル」への信仰とは「山岳信仰(神の館)」でありイマーゴ(神の似姿)への信仰を意味している。
「The Devil」(悪魔のタロットカード)は「バフォメットの異端教団」(明けの明星)を示している
「The World」(世界のタロットカード)はカトリック信仰を示している
「The Star」(星のタロットカード)はカトリック信仰の三対神徳の一つとされる「信徳」を示している
三対神徳(愛徳、望徳、信徳)
「The High Priestess」(女教皇のタロットカード)は「愛徳」を示し「The Hierophant」(教皇のタロットカード)は「望徳」を示し「The Star」(星のタロットカード)は「信徳」を示している
※女教皇、教皇はそれぞれ「最上位の女と男の神官」を意味している
「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」は「山岳信仰(神の館)」を示し、アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」とトートロジーであった
それは「登山家(バフォメット)」が「山岳信仰(カトリック信仰)」を大冒涜することで人間関係の「ヲタ芸」により祀られる有様です。
このような「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」の「偶像崇拝」はNHK放送の宣伝番組で盛んに放送されています。
このような宣伝番組は「偶像崇拝」によって人をアンダーコントロールに置くことを目指したものと考えられます。
例を挙げれば大成建設によって建造された「富士山頂レーダー基地」はその象徴的な存在であり、それに関するNHK放送の宣伝番組が特に有名でありましょう。
大成建設が建造した「富士山頂レーダー基地」は「山岳信仰」へ一々敵対した「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」の象徴であり大冒涜を意味しています。
決して大成建設の「富士山頂レーダー基地」の建造は英雄的行為ではないと私は考えています。
しかしNHK放送の宣伝番組はことさら大成建設の「富士山頂レーダー基地」の建造を英雄的行為として讃えていました。
しかしそれは「山岳信仰(カトリック信仰)」に対する「登山家(バフォメット)」の冒涜行為でしかないと感じられます。
又、「登山家(バフォメット)」はカトリック信仰から受肉する「ロゴス」へ一々敵対する絶対知(doxa)を「登頂(唾付けた!)」として存在させています。
そのようなあり方は「呪術崇拝」と言えるでしょう。
「呪術崇拝」と「偶像崇拝」は絶対知(doxa)による支配の形成を意味しています。
「山岳信仰(カトリック信仰)」から受肉する「ロゴス」へ一々敵対して「呪術崇拝」と「偶像崇拝」の絶対知(doxa)による支配を形成しているのです。
要は「山岳信仰(カトリック信仰)」が「知の廃棄」の容易さから「人」が「ロゴス」を受肉し「ペルソナ」となることを示しているなら、「呪術崇拝」と「偶像崇拝」は「知の鵜呑み」の容易さから「人」を絶対知(doxa)へ陥れ「人間関係の面子」を形成するのです。
そのような絶対知(doxa)によって形成される「人間関係の面子」は「パラノイア」という病気の症状と言えます。
「人間関係の面子」の形成とは「doxa」を「絶対知」(信念)とした超能力(大変な才能)を「ヲタ芸」によって祀り上げる行為です。
しかしそのような「ヲタ芸」は「非現実的な理想化」として「cult」を形成しています。
有名なオウム真理教の麻原彰晃教祖やそれを取り巻く信者が形成した「cult」も同様な「人間関係の面子」です。
このように「人間関係の面子」と言う「doxa」を「絶対知」(信念)とした「登山家(バフォメット)」は「cult」を形成することで「非現実的な理想化」がなされるのです。
彼らは「山岳信仰(カトリック信仰)」ではありませんから「奇跡」は起こせません。
何故ならば「神の恵」(ロゴス)の受肉がないからです。
麻原彰晃一党が引き起こした数々の大事件は「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」と同様の「神演出」だったのです。
「神の奇跡」とは「神の恵」(ロゴス)の受肉が可能とする「リアリズム(叡智)」です。
一方で「神演出」は「doxa」を「絶対知」(信念)する。
そしてそれは「黒ミサ」を司る「バフォメットの偶像崇拝」の儀式となっています。
医学辞典に記載があるように「神演出」(cult)の「バフォメットの偶像崇拝」の儀式とは病気の症状なのです。
そのようなあり方は「登山家(バフォメット)」による「絶対命令と絶対服従」の支配を意味しています。
登頂した山岳の頂から世界へ号令し統治する発想はまさに「堕天使ルシフェル」の支配のあり方となっているのです。
「神の王国の到来」を大冒涜し「人」が「世界の支配者」となることを意味しています。
それが「登山家(バフォメット)」に象徴されています。
「善き羊飼い」と「堕天使ルシフェル」の解説
「吊るされた男」は「逆転は逆転」「正転は正転」を示し、「バフォメット」は「逆転は正転」「正転は逆転」を示す
「スター」(星)はカトリック信仰「三対神徳」の「信徳」を示し、「ワールド」(世界)はカトリック(普遍性)を示す
又、大成建設が建造した「富士山頂レーダー基地」は「新約聖書 ルカによる福音書」の「時の徴」を想起させます。
当然にそれらは「時の徴」に記された「偽善者たち」です。
「偽善者たち」とは「登山家(バフォメット)」なのです。
そして「善人」とは「山岳信仰(カトリック信仰)」であり、それは「最高善信仰」と言えるのです。
時の徴(ルカ 12:54-56)
『どうして〔今の〕この時を吟味するすべを知らないのか。』に対して日本語の「天気」とは「天子のごきげん」を伺うことを示している。
それは「上から目線」を崇拝するあり方です。
「上から目線」は「ヲタ芸」(cult)によって祀られた「doxa」なのです。
そして神に背いた「絶対知」(信念)が生まれます。
「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」への「偶像崇拝」の露悪趣味は「凶兆」の現れだろうと思います。
そのような「偶像崇拝」は「呪文」を「ヲタ芸」で祀った「呪術崇拝」であり「黒ミサ」を司った「堕天使ルシフェル」の支配の象徴なのです。
一方で英語の「weather」は違っている。
「weather」は「天子のごきげん」を伺う意味ではなく「3a (運命の)移り変わり, 浮沈, 有為転変 (vicissitudes)〓」となっている。
また「b 風潮, 雰囲気; (心の)状態」となっていることで広く一般的な語彙(普遍的な語彙)となっている。
必ずしも「天子のごきげん」を伺うことにはなっていないのです。
このようなあり方は「カトリックロゴス感覚」となっています。
「上から目線」とはなっていないということです。
要は「山岳信仰(カトリック信仰)」となっているのです。
「英語辞典」は「日本語辞典」と違って「カトリック信仰」の意味が必ずある。
これは「英語辞典」が「聖書」となり得ることを示しています。
「舟を編む」とは「英語辞典」のことを示していると言えます。
これら「天子のごきげん」と「カトリック信仰」のあり方を理解するために新約聖書の有名な譬えを参照することが有益であると思います。
※上記「時の徴(ルカ 12:54-56)」も合わせて参照
納税問答(マタイ 22:15-22)
だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に(与えよ)
「Because it's there.」
例えば「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」に関して「ジョージ・マロリー」の有名なセリフが多くの人の記憶に残っているとされています。
ここに「山岳信仰(カトリック信仰)」を見ることはできるのだろうか?
それとも「山岳信仰(カトリック信仰)」へ一々敵対する「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」を見るのだろうか?
しかしそれは神への「挑戦」となるだろう!
アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」における「山岳信仰(神の館)」と「登山家(バフォメット)」について
ここにノーベル賞作家「アーネスト・ヘミングウェイ」の傑作短編と言われる「キリマンジャロの雪」を挙げたいと思う。
ここに「山岳信仰(神の館)」と「登山家(バフォメット)」のあり方を伺うことができる
この一頭の豹は決して「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」の様に「ヲタ芸」によって人間関係により祀られることは絶対にない。
しかしこの「キリマンジャロの雪」の「壊疽で死にかけた主人公」は人間関係の「ヲタ芸」で祀られた生活を送ってきた。
彼はそれを自嘲的に回想している。
この作品ではそのことを過去の回想と現在の壊疽の苦しみを取り巻く人間関係によって描いている。
この作品の趣旨を考えていくとこの一頭の豹は「山岳信仰(神の館)」により形成された「唯一性のペルソナのあり方」を示して存在していると考えられる。
それは「カトリック信仰から形成されるオリジナル」であり「唯一性のペルソナの確立」と見做すことができるだろう。
それはイマーゴ(神の似姿)への信仰であるのです。
一般に「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」は「ヲタ芸」によって祀られる。
そういった「登頂(唾付けた!)」は人間関係の「ヲタ芸」で祀られ「レジェンド」と見做される。
それによって「山岳信仰(カトリック信仰)」から受肉する「ロゴス」へ一々敵対する「登山家(バフォメット)」の「絶対知」(信念)が形成される。
それが「呪術崇拝」と「偶像崇拝」が司った「doxa(絶対知)」の支配体制を強固にする。
しかし実際にはそういった「登山家(バフォメット)」は「登山家(絶対知)」であり「登山家(doxa)」でしかないのが真実なのです。
だから「doxa」を「絶対知」(信念)と見做す超能力(大変な才能)は越権行為であり大傲慢のあり方なのです。
「doxa」を「絶対知」(信念)と見做すこと自体が「狂気の沙汰」であり「神への挑戦」なのです。
愚の骨頂の時代
安倍晋三さんへの「非現実的な理想化」とは「バフォメットの偶像崇拝」だったと言えます。
※安倍晋三さんが「思い込めば成る!」と国民に号令を掛けたという逸話は「レジェンド」とされています。
※又、安倍晋三さんの口癖だった「だってそうじゃないですか!」は「doxa」を「絶対知」(信念)とする「呪術崇拝」の「呪文」であるでしょう。
※そして安倍晋三さんは「結果を出した!」と強調されましたが、それは「doxa」を「絶対知」(信念)とする「ヲタ芸」(cult)で祀った「非現実的な理想化」としての「結果(呪文)」に過ぎなかった。
※安倍晋三さんの有名な著書である「美しい国」も「doxa」を「絶対知」(信念)とする「呪術崇拝」の「呪文」であった。それは「ヲタ芸」(cult)によって「非現実的な理想化」の「美少女フィギュア」を祀ったようなものです。
※そして安倍晋三さんの「反日本国勢力との戦い」に関しても「バフォメットの偶像崇拝」であったのです。何故ならば安倍晋三さんが指摘した反日本国勢力とは「カトリック信仰」の勢力と言えたからです。それは「神技」としての「マスメディア」であり、「神技」としての「マスコミ」だったのです。実際は安倍晋三さんの方が「カトリック信仰」へ一々敵対したアンチキリスト(堕天使ルシフェル)だったのです。それを「doxa」を「絶対知」(信念)とする「バフォメットの偶像崇拝」で「逆転」させていた。「ヲタ芸」(cult)を仕掛けて「カトリック信仰」の方を「アンチ」に仕立て上げた。そういう意味で「TBS(東京放送)」への攻撃は「カトリック信仰」への冒涜として象徴的であり、フジ産経グループは「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であることが判明しました。
※安倍晋三さんの口癖は「みんなやってますよ!」でした。安倍晋三さんはそれを「普遍性」と主張しました。しかしそれは「バフォメットの異端教団」(明けの明星)のあり方でした。「人間がみんなやっているだろうこと」を「普遍性」だと主張したからです。実際「みんながやっている」から「普遍性」とされるとそうも感じます。でも何かおかしい。何故ならば「カトリック信仰」へ一々敵対する「バフォメットの異端教団」(明けの明星)を「みんなやってますよ!(普遍性)」としたなら「神の雷」がきっと下るからです。何故ならば「カトリック信仰」は真の「普遍性」であるからです。この「逆転」が「バフォメットの異端教団」(明けの明星)のあり方なのです。
そのような「doxa」を「絶対知」(信念)とした「無根拠性」の主張を弄する存在はデマゴーグの出現と見做される。
そして真の「結果」とは「カトリック信仰」から受肉した「ロゴス」によって齎される。
簡単に言えば「根拠」の「説明責任」を果さなければならないと言うことです。
医師で言えば「インフォームド・コンセント」によって「治療」及び「治療結果」の説明責任を果たすことを示している。
又、それには「病理学」による説明が欠かせないのです。
何故ならばただ「根拠」もなく治療し、ただ「根拠」もなく治癒したとする医師の主張と医師の説明では「インフォームド・コンセント」とはならないからです。
それは「ヲタ芸」(cult)の医療集団となるでしょう。
オウム真理教の「ヲタ芸」(cult)の医療集団と大して変わりません。
医療において「根拠」とは「病理学」となるのです。
医師による「説明責任」(インフォームド・コンセント)とは「病理学的説明」を指します。
『 私の治療は「医学」ではなく「医術」である。』
(伊豫雅臣千葉大学医学部教授の発言)
しかしこれは「医学」ではなく「ヲタ芸(cult)」の治療と言える。
まさに教授回診集団という「教授」を祀り上げてある図となっていました。
これは「麻原彰晃教祖」を祀り上げる信者達(弟子達)の図と同様でありました。
安倍晋三さんが強調された「結果を出した!」は「非現実的な理想化」であり「ヲタ芸(cult)」が祀った「バフォメットの偶像崇拝」だったのです。
アベノミクスの「結果を出した!」とは「バフォメットの偶像崇拝」と同様で「パラノイアの症例」により転倒させる「黒ミサ」だったのです。
しかしこのような「バフォメットの偶像崇拝」 によった「結果を出した!」と言う主張は安打製造機のイチロー選手にも言えることです。
イチロー選手は「結果で黙らせる!」と主張し豪語してきました。
そして実際にイチロー選手は類まれなる「結果」を残しました。
しかし私はそこに違和感を感じます。
イチロー選手の残した「結果」が「カトリック信仰」の「ベースボール(野球)」の「結果」ではないと判断されるからです。
イチロー選手が残した「結果」が「ロゴスの受肉」による「結果」ではなく、「ヲタ芸(cult)」によって祀つられた「非現実的な理想化」のために形成された「結果」に過ぎないと言えるからです。
それは「特殊詐欺」の手法であったと見做せるのです。
「ヒント」を言えば「自分専用」の「バッティングセンター」と「神技」としての「カトリックベースボール」の違いと言えます。
「バッティングセンター」に於いて自分のタイミングで絶えず打撃することができれば「結果」は出易いのは当然です。
要は自分の優位な「ヒットポイント」を形成できるのです。
※例を挙げれば父親が子供に野球を教えている時に子供の「打撃タイミング」に合わせて父親が「ボール」を投げてやれば大抵はバットに当たります。何故ならば「ヒットポイント」に合わせてやれば「ボール」はバットに当たりヒットは生まれます。
しかし対戦相手のある「カトリックベースボール」(実戦)では「最高善信仰(カトリック信仰)」をもって「ベースボール(野球)」をプレーすることが基本となっています。
「カトリックベースボール」には「相互性」があるのです。
こういった人間関係ではそういった「相互性」を「自由の相互性」と言います。
しかしイチロー選手のプレースタイルは「一方的な自由性」の主張であるのです。
それは「自由の相互性」へ一々敵対する冒涜者であり「相手選手の自由性」を著しく侵害していることは明白なのです。
これは「大谷翔平選手」にも言えることです。
「大谷翔平選手のルーティーン」(二刀流)へ周囲が合わせろという訳です。
こういった「一方的な自由性」の形成には何か「きっかけ」があると想像されます。
そのような「きっかけ」は「原因」とされそこから生じた「事象の結果」が「原因と結果」のあり方とされます。
そのような「屁理屈」が形成されて行きます。
しかし随分低能なお話であると思います。
何故ならば「きっかけ」(原因)の形成は「doxa」を「絶対知」(信念)とするための「因縁を付ける行為」であるからです。
「因縁を付ける行為」によって「doxa」を「絶対知」(信念)とした「原因」を主張している。
「だってそうじゃないですか!」みたいなものです。
それってなんか「原因」(根拠)あるの?
「因縁を付ける行為」だけです・・・。
そして「絶対知」(信念)を「結果」だと強硬に主張する。
「頭の悪さの為せる技」です。
イチロー選手は「一方的な自由性」を主張するために「因縁を付ける行為」をして「ベースボール」(野球)をプレーしていたのです。
そしてイチロー選手は「因縁を付ける行為」で「一方的な自由性」を主張し「優位性」を確保することで「類まれな結果」を出したのです。
当然にそれは真に「原因と結果」から形成される「事象の結果」ではないと見做されます。
何故ならば真に「原因と結果」から形成される「事象の結果」であれば「神技」としての「カトリックベースボール」のイマーゴ(神の似姿)への信仰となる筈だからです。
もし真に「原因と結果」から形成される「事象の結果」としてイチロー選手のプレーを観察するならそれは「カトリック信仰」へ一々敵対した「因縁を付ける行為」であると言えます。
それによってイチロー選手は「一方的な自由性」を主張し「優位性」を確保してプレーするが相手選手は「カトリック信仰」の「自由の相互性」によってプレーするため「一方的な不利」を受けなければならないのです。
イチロー選手は「因縁を付ける行為」で自分勝手なプレーをして「優位性」を確保し類まれなる「結果」を残した。
そして「英雄」とされている。
しかしそれは自分のルーティーンへの異常な拘りによった冒涜行為だった。
要は「カトリック信仰」へ一々敵対した「doxa」を「絶対知」(信念)することで形成した「自分勝手なルーティーン」だったのです。
これは天才ジョッキーと言われていた武豊さんにも言えることです。
日本の「神技」としての「カトリックホースレーシング」に於いて真の天才ジョッキーは福永洋一さんだったと言える。
武豊さんは「異端」としての「ホースレーシング」だった。
それはイチロー選手と同じ理由です。
そういった「自分勝手なルーティーン」は「時代感覚」や「歴史観」と呼ばれ「ヲタ芸」(cult)によって祀られます。
しかしそんなプレーをして何が楽しいのか?
又、そんなプレーを観て何が楽しいのか?
イチロー選手は「結果で黙らせる!」と主張し豪語しましたがそんな結果に価値は全くありません。
イチロー選手は「神技」を冒涜しただけです。
イチロー選手は「異端ベースボールプレイヤー」(異端野球選手)と言えるでしょう。
それは「doxa」を「絶対知」(信念)とする「因縁を付ける行為」であり低能なあり方です。
イチロー選手は「チンピラ」程度の「特殊詐欺師」だったのです。
チンピラベースボール(チンピラ野球)は「特殊詐欺」を成立させます。
そのようなインチキを弄する「半グレ野球アニメ」がありました。
「神技」としての「カトリックベースボール」へ一々敵対した詐欺ベースボール(詐欺野球)が「半グレベースボール」(半グレ野球)だったのです。
ただこれは野球日本代表の「侍ジャパン」のプレーと同様であるでしょう。
「侍ジャパン」が嫌な連中にしか見えない訳が解ります。
「侍ジャパン」とは「神技」としての「カトリックベースボール」の「価値」を理解できない「バカ集団」なのです。
「神技」へ一々敵対して「優位性」に拘り抜くのです。
落合博満さんの「打撃フォーム」も「打撃ルーティーン」だろうと見做せます。
「オレ流」が聞いて呆れます。
ただ「神技」を冒涜して「優位性」を確保しているだけなのです。
落合博満さんは「神技」としての「カトリックベースボール」へ一々敵対した異端ベースボールプレーヤー(異端野球選手)でした。
※「打撃フォーム」と「打撃ルーティーン」については後に詳述します。
チンピラ詐欺師か?
稀代の詐欺師か?
バレてしまえば似たようなものです。
しかし「神技」とは「自由の相互性」があってこそ成立するのです。
それが「神技」としての「カトリックベースボール」なのです。
だから「因縁を付ける行為」によって「一方的な自由性」を強硬に主張可能な「優位性」を持った対戦相手との間で「神技」としての「カトリックベースボール」の成立は不可能と言えます。
よってイチロー選手や大谷翔平選手の「ヲタ芸」(cult)による「ベースボール(野球)」とは「バフォメットの偶像崇拝」だったのです。
ここにイチロー選手を「ヲタ芸」(cult)で祀った「非現実的な理想化」の形成が見られます。
それが「結果で黙らせる!」の成立でありました。
これは大谷翔平選手のやり口と同様なのです。
それは最強の「呪文」であり古典的な「特殊詐欺」の手法であるのです。
「ヲタ芸」(cult)は麻原彰晃一党と同様のマインドコントロールです。
しかしそれは「ロゴス」へ一々敵対した「バフォメットの偶像崇拝」(異端)であったのです。
その正体は「doxa」を「絶対知」(信念)とした高揚感(超能力感覚)であろうと思います。
このようなイチロー選手の奇妙なハイテンションはいつも一方的な対人関係を形成しています。
これは長嶋茂雄さんにも顕著に見られます。
「自由の相互性」への敵対感覚は大傲慢の証です。
こういった「ロゴス」への敵対感覚は「異端」と言えます。
そしてグルである「麻原彰晃」が発した「ハルマゲドン」の予言(doxa)を祀った信者(弟子)はその予言(doxa)を「絶対知」(信念)とするために「ヲタ芸」(cult)によって実現を謀った。
そして「大事件」が起こった。
それは「異端教団」が「カトリック信仰」により「特殊詐欺」であることが暴露される段階で「バフォメットの偶像崇拝」を「神演出」で祀り「大事件」を起こし最後の悪足掻きを見せることです。
それがオウム真理教の信者(弟子)たちが起こした「地下鉄サリン攻撃」なのです。
この「大事件」が真の「ハルマゲドン」ではない理由は明解です。
何故ならば「doxa」を「絶対知」(信念)として実現する犯行動機に善悪(真偽)の聖戦はありえません。
それは予言(doxa)を「神演出」で祀ることで「絶対知」(信念)とし実現するための「特殊詐欺」其の物であり「ヲタ芸」(cult)と言える行為なのです。
当然の如く彼らだけの「一方的な自由性」であって「自由の相互性」は完全に侵害され冒涜されている。
「被害者の自由性」は完全に踏み躙られることで最悪に近い事態となった。
オウム真理教は「doxa」を「絶対知」(信念)とした「異端教団」である以上彼らに存在価値は全くない。
聖織田信長が「一向宗徒」を殲滅したように「オウム真理教」も殲滅すべきと言える。
ただ現代は「神演出」で祀っていた「異端教団」が「特殊詐欺」を暴露される段階にありそれら「異端教団」が「大事件」を起こす「凶兆」を感じることがかなり多い。
よって現代は「超危険時代」と言えます。
これら「ヲタ芸」(cult)は「異端教団」であり超危険な存在です。
当然「ロゴス」へ一々敵対する冒涜行為を「doxa」を「絶対知」(信念)とする「呪文」で祀れば「異端教団」にしかならない。
このような「異端教団」を「カトリック信仰」の名の元に撃つことは絶対に必要なのです。
それは「エクソシスト」とも言えます。
イチロー選手や大谷翔平選手の「異端」としての「ベースボール(野球)」を賛美するあり方は現在の風潮では顕著であると思います。
しかしそれは「神技」としての「ベースボール(野球)」へ一々敵対する「異端児」を祀った「バフォメットの偶像崇拝」であるのです。
それは「黒ミサ」を司った「ヲタ芸」(cult)であり「異端児」はカリスマとされた教祖と同じとなる。
「異端児」とは「異端教団」を設立した「天才」とされますが「神の恵」(奇跡)は齎されません。
しかし「異端児」は「ヲタ芸」(cult)によって信者(弟子)から祀られます。
ここに「堕天使ルシフェル」と「神の天使」との間に「聖戦」が起り得ると想像されます。
それが真の「ハルマゲドン」であり黙示録(revelation)であるでしょう。
しかしそのような「ヲタ芸」(cult)の「ベースボール(野球)」は「神技」への冒涜行為でしかありません。
例え相手が「ヲタ芸」(cult)でイチロー選手を祀ったとしてもその「ベースボール(野球)」は「神技」としての「カトリックベースボール」とはならない。
イチロー選手が相手選手の「合意」があったと強硬に主張できてもそれが「神技」としての「カトリックベースボール」とされる訳ではないのです。
「野球とベースボールは違う!」や「たかが野球されど野球!」等の江川卓等の「名言」は「呪文」であり「doxa」を「絶対知」(信念)とする「ヲタ芸(cult)」でした。
要はそのような「異端」を「絶対知」(信念)として一方的に開き直った態度なのです。
しかし「doxa」を「絶対知」(信念)とすること自体が「異端」でしかない。
「呪文」を唱え続ける低能集団なのです。
しかしそのような穢れた「呪術崇拝」の「呪文」を幾ら唱えたとしても「ヲタ芸」(cult)の「ベースボール(野球)」が「神技」としての「カトリックベースボール」とされる訳はない。
そしてそのような最強の「呪文」が成立する時、メシアは再来し「神の雷」が下る。
そういった最強の「呪文」は「異端教団」の中だけで通じる「特殊詐欺」であった筈です。
そのような「特殊詐欺」は「カトリック信仰」の境域で通用する筈はなく破綻は目に見えていました。
「自由の相互性」へ一々敵対したイチロー選手へのスター扱いは愚行であります。
もういい加減止めた方が良いです。
みっともないだけです。
「一抜けた」が正解です。
イチロー選手の奇妙な「打撃ルーティーン」はそのような「特殊詐欺」を真に物語っています。
何故ならば奇妙な「打撃フォーム」を持ったメジャーリーガーは多数いることは確かです。
しかしそれは「神技」としての「カトリックベースボール」と見做されます。
そのような奇妙な「打撃フォーム」は「ロゴスの受肉」によっているからです。
「ロゴスの受肉」によって形成された「打撃フォーム」とは如何に奇妙に見えてもイマーゴ(神の似姿)への信仰なのです。
ただイチロー選手の奇妙な「打撃ルーティーン」は自分専用の「バッティングセンター」と同様の「打撃タイミング」の形成に過ぎないと思われるのです。
それは自分に優位な「ヒットポイント」を「打撃フォーム」ではなく「打撃ルーティーン」で形成しています。
それは「填め手(嵌め手)」によって形成した「優位性」であり「相互性」は冒涜された状態なのです。
そのような「優位性」の存在は「神技」としての「カトリックベースボール」へ一々敵対したあり方です。
何故イチロー選手の「打撃ルーティーン」による「優位性」が容認されたのか不思議です。
仰木彬さんのイチロー選手への特別扱いが異常だったと言えます。
異端野球だったのでしょうか?
イチロー選手は「打撃フォーム」ではなかったのです。
だからイチロー選手は「ロゴスの受肉」がなくイマーゴ(神の似姿)への信仰ではないと判断される。
イチロー選手は「打撃ルーティーン」による「打撃タイミング」のマジック(呪文)だった。
要はイチロー選手は「ベースボール」(野球)を低レベルへ貶めている。
それがイチロー選手の「特殊詐欺」の手法なのです。
イチロー選手のプレースタイルは相手に自分の「打撃ルーティーン」の「打撃タイミング」へ合わせろと命じている。
それによってイチロー選手は「優位性」をもってヒットを量産できます。
相手選手はイチロー選手の「打撃ルーティーン」の「打撃タイミング」へ合わすことを強要され「神技」としての「カトリックベースボール」はイチロー選手専用の「バッティングセンター」とされたに等しくなる。
「神技」としての「カトリックベースボール」はイチロー選手の「優位性」が容認されたことで大冒涜されたことになります。
イチロー選手は捏造されたスターだった可能性があります。
そういう意味で「商業野球」は「神技」としての「カトリックベースボール」ではなく「異端野球」なのです。
ただ広岡達朗さんは例外です。
広岡達朗さんは「神技」としての「カトリックベースボール」の聖人です。
当然の如く惚けて淡々とプレーし続けたイチロー選手は「安打製造機」となることができたのです。
しかしイチロー選手は無神経で大傲慢のプレーをしていたというのが本当でしょう。
これは「神技」としての「カトリックベースボール」に対する大冒涜行為だったのです。
又、イチロー選手がアメリカの「野球殿堂博物館」へ足繁く通ったレジェンドもインチキの「結果」で真の「結果」を穢す冒涜行為と言えます。
そして「特殊詐欺」で形成した「結果」を利用し「結果で黙らせる!」と豪語し主張する。
イチローよ!
無神経で傲慢過ぎなんだよ!
サル!
クズ!
イチロー選手が高校野球の指導をしている理由も明らかな錯誤によっています。
何故ならば高校野球は「神技」としての「カトリックベースボール」の場であるべきだからです。
高校の「ベースボール(野球)」とは「神技」としての「カトリックベースボール」とされています。
決して「ヲタ芸」(cult)の「ベースボール(野球)」ではない筈です。
しかしイチロー選手の行う指導を見ましたが「非現実的な理想化」を祀った「ヲタ芸」(cult)であり「特殊詐欺」の「ベースボール(野球)」を指導していました。
それは明らかな「神技」としての「カトリックベースボール」への冒涜行為です。
そしてイチロー選手は自分自身を「非現実的な理想化」の存在として高校球児に祀らせているのです。
「イチロー教団」の誕生ですが「doxa」を「絶対知」(信念)とする「呪術教団」に過ぎないのです。
※例 「早稲田大学」への「非現実的な理想化」も「ヲタ芸(cult)」でありこれと同様なのです。「ハンカチ王子(斎藤佑樹)の連呼」とは早稲田大学の「呪術教団」が司り「doxa」を「絶対知」(信念)としたものでしょう。これは早稲田大学の「呪術教団」が出した奇妙な「結果」と言えます。これは「打撃フォーム」ではなく「打撃ルーティーン」なのです。要は「填め手(嵌め手)」だったのです。これは「早稲田大学スーパーフリーサークル事件」の後であっために早稲田大学関係者(OB)が強硬に策謀した政治的宣伝番組だったのでしょう。「高校野球」と言うより「NHK高校野球中継番組」のインチキがバレたということです。「高校野球」に「罪」はないと思います。「NHK番組」がクズなのです。
しかし高校球児にそんなバカなことを教えてはいけない。
イチローよ!
君には野球の才能がなかった!
何故ならあなたは「カトリック信仰」が理解できない「ゲス男」だからだ!
だから「神技」としての「カトリックベースボール」が理解できない故に「バフォメットの偶像崇拝」を祀った「ゲス野郎」となっているのです。
イチロー選手は決して「ベースボール(野球)」の「聖人」ではなかった。
イチロー選手の「バフォメットの偶像崇拝」はそのような「ヲタ芸」(cult)によって祀った「結果」を利用し「結果で黙らせる!」と豪語するあり方です。
イチロー選手は「インチキ」でも「結果」は「結果」と言いたいらしい。
しかしこれはアベノミクスの「結果」でありカミオカンデの「結果」でありイチロー選手の「結果」だったのです。
これは「非現実的な理想化」であり典型的な「cult」の症例です。
「呪術教団」のあり方なのです。
ただ彼らは「カトリック信仰」から「ロゴスの受肉」を全くしていない。
逆に「ロゴス」へ一々敵対する「呪文」を祀っている。
そのように彼らは「doxa」を「ヲタ芸」(cult)により祀った「バフォメットの偶像崇拝」であり「呪術教団」であった。
この症例には強固な「パラノイア」(絶対知)が存在する。
その治療は古典的な課題であり「聖ヒポクラテス信仰」によってなされなければならない。
真の医者とはそのような「聖ヒポクラテス信仰」によっている。
そして「聖ヒポクラテス信仰」とは「キリスト教」(カトリック信仰)で言う処の「神の導き」であり「善き羊飼い」のことを指している。
よってこのような「最悪の災いが起こる凶兆」の時にメシアが再来するとも思われる。
メシア来たれ!
しかし安倍晋三さんも甘えたように「ロゴス」へ一々敵対する「呪文」を唱えていました。
それを「育ちの良さ」(人が良いから)とされてきました。
しかしそれも「バフォメットの偶像崇拝」のあり方であろうと思います。
何故ならば本当に育ちが良かったならそのような「バフォメットの偶像崇拝」は絶対になされません。
安倍家のお坊ちゃんへ「育ちが悪い」とは言い難い時代でした。
一般常識では彼らは「良家の子息」と思われています。
しかし安倍家は山岳信仰(カトリック信仰)ではなく、それへ一々敵対する登山家(バフォメット)の登頂(唾付けた!)に過ぎなかった。
彼らは元から「下品な輩」に過ぎなかったのです。
だから山岳信仰(カトリック信仰)へ一々敵対する「バフォメットの偶像崇拝」をしている。
彼らは上手く化けていたのでしょう。
デマゴーグのゲッペルス宣伝部隊を利用すれば可能なことです。
「安倍晋三さんは頭が良い!」と連呼した安藤優子さんを思い出します。
良家のお坊ちゃんの素性が知れてしまえば「下品な輩」だったと言うことはよくある話です。
そして「ロゴス」へ一々敵対する「呪文」を唱えることで「ヲタ芸」(cult)により祀られます。
全くもって原始的段階に近く劣等な連中でした。
「安倍晋三さんの時代」とは全くの馬鹿な時代だったのです。
「愚の骨頂の時代」だったのです。
「デマゴーグ」とは「無根拠性」の主張であり「循環論証」によって形成される
「doxa」を「絶対知」(信念)として形成した「屁理屈」の「無根拠性」は「循環論証」の存在に表出している。
「循環論証」は「無根拠性」に「根拠」を捏造する「マジック(呪文)」であり、「doxa」を「絶対知」(信念)とする「屁理屈」であった。
そのような「無根拠性」を正当化する「屁理屈」は「デマゴーグ」の手法とされる。
何故ならばそのような「無根拠性」によった「主張」は「根も葉もない噂話」程度の産物であり完全な「デマゴギー」であるからです。
だから真の指導者は「doxa」を「絶対知」(信念)へ誘う扇動ではなく、「根拠」を示すことで「doxa」を「ロゴス」へ導かなければならない。
それは「カトリック信仰」から「ロゴス」を受肉することで「奇跡」(神の恵)を得ることで可能となる。
「デマゴーグ」によって「doxa」は「絶対知」(信念)へ誘われるけれど、「カトリック信仰」によっては「doxa」は「ロゴス」の受肉へ導かれる。
そして「奇跡」(神の恵)を得る。
真の「根拠」は得られる。
ただそこには「循環論証」のマジック(呪文)の危険性が絶えず存在する。
何故ならば虚偽の「根拠」が「無根拠」に捏造されることで「doxa」は「絶対知」(信念)へ扇動されるからです。
それが「躓き」です。
「最悪の災いが世に起こる凶兆」とは「躓き」の時に現れます。
※例 アガリクスの特効薬詐欺(朝日新聞によると効用に根拠はなかった。)
「統一教会」もヲタ芸(cult)であり全くの「異端」であるのです。
彼らの屁理屈は「根拠」の捏造であり「神と聖書のパラドックス」と言われる「循環論証」を露骨に形成している。
「神は存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する」
ここに統一教会の「謎解き」があったのです。
イマヌエル・カントに見る「自由の相互性」
しかし「doxa」を「絶対知」(信念)と見做すことは「愚者」を意味します。
このような「山岳信仰(カトリック信仰)」へ一々敵対する「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」は「愚者」の行いなのです。
そういった「登頂(唾付けた!)」は山岳の頂きに「旗」を立て自分の「人の著作権」だと言わんばかりの強硬な主張となります。
それは「神の著作権」である筈の「山岳」に「唾付けた!」と言って「人の著作権」を強硬に主張することを意味しています。
それは神への冒涜行為なのです。
「神の著作権」を冒涜した越権行為(超能力)なのです。
「登山家(バフォメット)」へ「神の雷」がきっと下るでしょう
「The Tower」(塔のタロットカード)は「バベルの塔(神の門)」を示しそれは大冒涜と大傲慢を意味している
「Death」(死神のタロットカード)は「死」を示している
そして「神の館」とは「神の著作権」を意味しています。
それは「山岳信仰(カトリック信仰)」を示しているのです。
「山岳信仰(神の館)」とは「神の著作権」を示したカトリック信仰のことを意味しています。
そして「山岳信仰(神の館)」から「ロゴス」を受肉することで叡智を得るのです。
そのような「ロゴス」によって奇跡は齎され「叡智」を得ることで「賢者」は生まれます。
この一頭の豹はそういう意味で「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」とは全然違います。
何故ならばこの一頭の豹は「唯一性の存在」であり「ヲタ芸」で祀られた「登山家(バフォメット)」ではないからです。
そしてこの一頭の豹を解き明かすとすれば「山岳信仰(神の館)」による「ロゴス」の受肉であろうと考えられます。
それは「賢者」を指しています。
この一頭の豹の動機は「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」ではなく「山岳信仰(神の館)」から「ロゴス」を受肉することだと言えるのです。
そしてそれは「山岳信仰(カトリック信仰)」なのです。
このような「山岳信仰(カトリック信仰)」と「登山家(バフォメット)」の構図は「芸術作品」とそれに一々敵対する「オタク芸術」の間に顕著に伺えます。
最後に一つだけ例を挙げます。
それは日本の名作アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズです
安彦良和は名目上この作品の「監督」ではありません
しかし富野由悠季がこの作品の「監督」とされています
これは有名なパラドックスなのです。
ただこのファーストガンダムには「山岳信仰(カトリック信仰)」と「登山家(バフォメット)」の構図が明確に顕れています。
それによって黙示録(revelation)が可能となるのです。
「山岳信仰(カトリック信仰)」から「ロゴス」を受肉する一頭の豹を創作したのは安彦良和です。
安彦良和は「カトリック信仰から形成されたオリジナル」(唯一性のペルソナの確立)を制作した芸術家だったのです。
安彦良和が「賢者」の作品を創作したのです。
彼はイマーゴ(神の似姿)への信仰の人だったのです。
よってファーストガンダムを如何に富野由悠季の作品だと宣伝しても富野由悠季自身に「山岳信仰(カトリック信仰)」がない故に富野由悠季が「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」でしかないことが判明してしまいます。
富野由悠季は「愚者」の作品を制作したのです。
このことの顕著なあり方を指摘すれば「機動戦士ガンダム」のニュータイプの概念に両者の違いが如実に顕れています。
安彦良和はニュータイプを「山岳信仰(カトリック信仰)」から「ロゴス」を受肉することだとしました。
しかし富野由悠季はニュータイプを「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」だとしたのです。
「山岳信仰(カトリック信仰)」は安彦良和のファーストガンダムにおけるアムロ・レイとララー・スーンの関係に見ることができます。
安彦良和の「人類の革新」とは「山岳信仰(カトリック信仰)」から「ロゴス」を受肉することなのです。
「山岳信仰(カトリック信仰)」とは「神の著作権」を示しています。
あの一頭の豹は安彦良和なのです。
それは「神の領域」なのです。
このニュータイプは「賢者」としてあります。
そして「三位一体のペルソナ」となっています。
それは「カトリック信仰から形成されるオリジナル」(唯一性のペルソナの確立)です。
それはイマーゴ(神の似姿)への信仰を持っていることを示している。
何故なら「神の恵」(ロゴス)を受肉し叡智を得るからです。
それは「愛」です。
そのようなイマーゴ(神の似姿)への信仰は「白ミサ」のあり方なのです。
しかし「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」は富野由悠季の「機動戦士Zガンダム」の奇妙なニュータイプとなって出現します。
それはカミーユ・ビダンと彼を取り巻くニュータイプ(人の支配)と強化人間(人の支配)の「人間関係の面子」の形成となってしまいます。
そのような形成は「doxa」を「絶対知」(信念)とする超能力(大変な才能)によって可能となります。
しかしそういった超能力(大変な才能)は「非現実的な理想化」に過ぎないでしょう。
それは「ヲタ芸」により人間関係で祀られた超能力者(大変な才能)です。
「doxa」を「絶対知」(信念)とする存在が超能力者(大変な才能)として出現しますがそういった認識能力は堕落でしかないのです。
それは「三位一体のペルソナ」ではなく「人間関係の面子」であり「キャラクター」ではありません。
それは「恋愛」です。
そのような「バフォメットの偶像崇拝」は「黒ミサ」のあり方なのです。
宇宙世紀は紀年法に基づく「バフォメットの偶像崇拝」として存在する。
それが「サーガの概念」と「ロゴスの受肉」の違いとなって顕れている。
「サーガ」とは「doxa」を「絶対知」(信念)とする超能力者(大変な才能)が「ヲタ芸」で祀り上げることで成立する。
「安倍晋三さんのサーガ」にしてもそのような「バフォメットの偶像崇拝」が可能としたのであるでしょう。
そして「機動戦士ガンダム」の「宇宙世紀のサーガ」や「ニュータイプのサーガ」、そして「ガンダムのサーガ」にしても同様な「バフォメットの偶像崇拝」であったのです。
一方で「ロゴスの受肉」とは「álpha and oméga」によって時を支配することを示している。
それはアムロ・レイとララー・スーンのあり方に見られます。
それは山岳信仰(カトリック信仰)の「歴史」とも言えます。
そのような「歴史」は「バフォメットの偶像崇拝」を廃棄することで「カトリック信仰」の場所を確保します。
そのように信仰の場所を確保することで「歴史」は受肉するのです。
それが「歴史信仰」であり「歴史学」の誕生なのです。
しかし「ファーストガンダム」の「続編」は「doxa」を「絶対知」(信念)として形成する「非現実的な理想化」であり「cult」となっていると見做されます。
まさに「バフォメットの偶像崇拝」なのです。
そこが「山岳信仰(カトリック信仰)」と「登山家(バフォメット)」の絶対的な違いです。
富野由悠季の「人類の革新」とは「超能力者(大変な才能)」により「人の著作権」を強硬に主張する有様なのです。
しかしそういった超能力(大変な才能)に叡智の欠片はなく、それ故にみっともない有様となってしまうのが現実です。
それは当然の如く「神の恵」(ロゴス)の受肉がないからです。
そういったみっともない有様は一言で評して「バカにしかできない行為(お笑い芸人)」となって表出します。
例えば「お兄ちゃん!」「当たれ!(そして撃墜する。)」はまさに「doxa」が「絶対知」(信念)となった「おバカなシーン」の連続なのです。
「ヲタ芸」そのものです。
結局「doxa」を「絶対知」(信念)とする「呪術崇拝」となり、そしてそのような「黒ミサ」を司った「バフォメットの偶像崇拝」がなされるのです。
又、アイドルタレントとは「山岳信仰(カトリック信仰)」としてあるのでしょうか?
それは「神の恵」(ロゴス)の受肉です。
それともアイドルタレントとは「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」としてあるのでしょうか?
それは「doxa」を「絶対知」(信念)とする超能力(大変な才能)です。
あなたは「神の恵」(ロゴス)の受肉を信仰しますか?
それとも「神」へ一々敵対することで「神」を凌駕し「doxa」を「絶対知」(信念)とした超能力者(大変な才能)なのですか?
どちらですか?
あなたは「神」を凌駕したと称する超能力バカ(大変な才能)ですか?
ただロゴスの受肉は「人の超能力」(大変な才能)とは言えません。
何故ならば「神の恵」だからです。
そして「神の超能力」(大変な才能)は存在しません。
何故ならば「神」は「神」だからです。
「神」を超えた超能力(大変な才能)は存在しません。
それは「神」を凌駕する高さを誇った「バベルの塔」(神の門)を意味します。
そしてそれと同様の意味である「登山家(バフォメット)」の「登頂(唾付けた!)」となっています。
そのような「神」を凌駕したと称する超能力バカ(大変な才能)とは「黒ミサ」の領域を司った「登山家(バフォメット)」としての堕天使ルシフェルなのです。
このニュータイプは「愚者」でしかありません。
何故なら「doxa」を「絶対知」(信念)とする「愚者」だからです。
このように「一頭の豹」はニュータイプ(神の恵)であって、「ヲタ芸」で祀られ「神」を凌駕した超能力者(大変な才能)だと主張するニュータイプ(人の支配)とは違うのです。
「人の支配」とは「黒ミサ」の領域を司った「登山家(バフォメット)」としての堕天使ルシフェルのことなのです。
ニュータープ(神の恵)と強化人間(人の支配)の違いもそこにあります。
しかし富野由悠季は「山岳信仰(カトリック信仰)」を持っていない故にニュータイプ(神の恵)へ一々敵対する「黒ミサ」の領域を司った「登山家(バフォメット)」である堕天使ルシフェルを「人類の革新」としてしまいます。
よって富野由悠季は安彦良和のニュータイプ(神の恵)へ一々敵対するだけでそれを理解すらできない「お猿さん」に見えるのです。
ただニュータイプ(神の恵)を理解できる「一匹のお猿さん」(一頭の豹)が居れば富野由悠季は「猿」よりも劣ると言えるでしょう。
先程も指摘しましたがニュータイプ(神の恵)と「ヲタ芸」で祀られ「神」を凌駕した超能力者(大変な才能)だと主張するニュータイプ(人の支配)とは全く異なります。
富野由悠季のニュータイプ(人の支配)も富野由悠季の強化人間(人の支配)も安彦良和のニュータイプ(神の恵)に程遠いバカな存在なのです。
そして安彦良和は芸術作品(神の著作権)を創作し、富野由悠季はオタク芸術(人の著作権)を制作している。
安彦良和は「山岳信仰(カトリック信仰)」を持つ故に「善き羊飼い」の「白ミサ」を行います。
それは「神の恵」(ロゴス)を齎します。
本当のカッコ良さを持った存在なのです。
一方でみっともない有様なのは富野由悠季なのです。
ただこの作品の名目上の監督は富野由悠季なのでそれでカッコつけていられる。
しかしそれは「登山家(バフォメット)」であり「登頂(唾付けた!)」をすることで「堕天使ルシフェル」が司った「黒ミサ」の有様となっているだけです。
それは「黒ミサ」を司った「人の支配」であり「人の統治」なのです。
それが「バフォメット」に象徴されています。
最後に・・・
アーネスト・ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」の一頭の豹とは「山岳信仰(神の館)」だと言えます。
そして一頭の豹は安彦良和のニュータイプ(神の恵)だと言えます。
一頭の豹は「山岳信仰(カトリック信仰)」を示していたのです。
「The Hanged Man」(吊るされた男のタロットカード)は「逆転」は「逆転」を示している
バフォメットに於いて「逆転」は「正転」とされ、「正転」は「逆転」とされる。
しかし「The Hanged Man」(吊るされた男のタロットカード)に於いて「逆転」は「逆転」とされ、「正転」は「正転」とされる。
「The Hanged Man」(吊るされた男のタロットカード)は「カトリックロゴス感覚」となっているのです。
このように「The Hanged Man」(吊るされた男)は「逆転」のマジックへの批判のあり方を示している。
「The Fool」(愚者のタロットカード)は「叡智」のあり方を示している
「愚者」を「無知」とするならソクラテスの示した「無知の知」に最も近い存在であるのです。
そしてイマヌエル・カントの言う「知の廃棄」へ最も近い存在でもある。
それは「カトリック信仰」へ最も近い存在であることを示し最高善の「叡智(ロゴス)」の存在と言えます。
これは「善き羊飼い」のあり方と同様のメシア再来の兆しです。
一方で最高悪な「愚者」であるかもしれない。
何故ならば「知の鵜呑み」から「doxa」を「絶対知」(信念)とした「知者」となるからです。
そういったあり方は「ロゴス」の受肉しない「絶対知(doxa)」により治療行為をする「医師」や「政治家」を想起させます。
それはナチスドイツがあまりにも有名でしょう。
ヨーゼフ・ゲッペルスと同様に最後は最も愚かな「無知」となるからです。
「私は知らなかった。故に責任(社会的責任)がない。」と最高責任者が主張する訳です。
これは「堕天使ルシフェル」のあり方なのです。
このような人間世界の特殊詐欺へ「神の雷」がきっと下るでしょう。
参考資料01
「旧約聖書 出エジプト記」に於いて山岳信仰(カトリック信仰)が明確に見られる。
「シナイ山における神の到来」
「十戒」
「契約の書」
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