【聖宮崎駿信仰】宮崎駿「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」と新海誠「ロリータコンプレックス(セックス商売品)」
特集「ロリータコンプレックス」は「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」の完全弾圧であり、それは芸術製作の完全弾圧をも意味する。-宮崎駿は芸術信仰であり新海誠はそれを弾圧するロリコン崇拝であることをここに証明する。
長いまえがき
「性的対象」の「性的成長」とは「ロリコン」でありそれは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を貶め完全弾圧する。
宮崎駿の「至高の抽象化の高み(カトリックミサ)」に対しその後継者の「原始的段階に近い(黒ミサ)」は「劣等を武器とする堕落者」の在り方であり、そして「堕落を武器とする劣等者」の在り方でもあるのだ。
「庵野秀明監督」も「新海誠監督」も幼少の頃から抱いていた「夢」を大事にしその実現を信じることが大事だと語っている。
それは彼ら自らの成功譚でもあるのだろう。
そして彼らはそれをユング心理学のペルソナ(面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))と主張し、その「イノセント感覚」がイマーゴ(理想の人間関係)としてある監督達自らの在り方だと誇らしげに示している。
しかし「宮崎駿監督」は違う。
何故ならば「宮崎駿監督」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の信仰による「カトリック社会(最高善の神の王国の到来)」をイマーゴ(理想の成虫体)としているからだ。
そして「宮崎駿監督」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はイマーゴ(真善美の回復)をイマーゴ(理想の成虫体)としている。
その「宮崎駿監督」のフロイト精神分析のイマーゴ(真善美の回復)は「キリスト教カトリック神学」の「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方である。
フロイトの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は「キリスト教カトリック神学」のイマーゴ(理想の成虫体)であるのだ!
※「フロイト精神分析」と「ユング心理学」の違いとは両者にある「イマーゴとペルソナ」の「2つの概念」の違いに明確に表出している。これは「宮崎駿監督」と「庵野秀明監督・新海誠監督」の間にある「決定的違い」と同じ在り方と言えるだろう。
イマーゴ(理想の人間関係)は「カルト」と言えます。
しかしイマーゴ(理想の人間関係)は「三位一体」ということもできます。
「カルト」は「崇拝関係」であり「知の鵜呑み」です。
「三位一体」は「信仰」であり「知の廃棄」です。
この両者の違いを明確にするには「庵野秀明監督」も「新海誠監督」も幼少の頃の「夢」である「イノセント感覚」を持ち続け「修行経験」により「超感覚(超人)」に昇華する在り方を示すことで事足りるだろう。
それは鳥山明の「ドラゴンボール」と同じである。
この鳥山明の漫画の主人公である「孫悟空」は「超サイヤ人(阿弥陀如来)」となっていく。
しかしそれは信仰(仏陀)から形成されるオリジナルキャラクター(ペルソナ)ではない。
あくまでの阿弥陀如来成立(ワンパターン)のキャラクター形成であり作品ストーリーである。
全くつまらない話なのです。
そこに「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は存在しないのだ。
しかし「イノセント感覚(孫悟空のモチベーション)」が「超感覚(超人)」とされることの「意味」はサタン(敵対感覚)でしかなく「学問」ではない。
何故ならば「庵野秀明監督」も「新海誠監督」も「思い込み(doxa)」を「超感覚(超人)」とする「超感覚派(スーパーエスパー)」のクリエーターであり、それは「思い込み(doxa)」を「超感覚(超人)」とすることでイマーゴ(理想の人間関係)を形成することを示しているからです。
そのイマーゴ(理想の人間関係)の正体は「思い込み(doxa)」であるのだからそれを「超感覚(超人)」にしても「学問」にはならないのです。
※それを詐術で学問にしたのがサブカルで有名な社会学者宮台真司である。彼が胡散臭いのにはそれなりに正当な理由があったのだ。ただ彼への暴力(弾圧)は正当化できない。暴力(弾圧)ではなく聖戦と見做す理屈は可能かもしれない。邪悪な存在を警戒し仕留めることは信仰社会には必要なのだ。
一方で「宮崎駿監督」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を「超感覚(超人)」とする。
それは「カトリック」を至上とする態度である。
それにより「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はイマーゴ(真善美の回復)を受肉し叡智は齎される。
フロイト精神分析はイマーゴ(真善美の回復)をイマーゴ(理想の成虫体)とする唯一性の「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」へ「患者」を導くことを治療としている。
それは「最高善の神の選民」へ患者を導くことを示している。
しかしユング心理学はイマーゴ(理想の人間関係)を「超感覚(超人)」とする「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」へ患者を導く。
それは患者が「思い込み(doxa)」に永遠に囚われ救いのない悪循環(トートロジーと循環論証)に陥ることを示している。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)が高評価されることは「最高善の神の王国の到来」であり崇高である。
「宮崎駿監督」はイマーゴ(真善美の回復)をイマーゴ(理想の成虫体)とする芸術作品(ペルソナ(自由の相互性〈相互愛〉の演劇)を制作した。
彼は「最高善の神の王国の芸術家」だった。
それは「広岡達朗監督」にも言えることだろう。
しかし「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を「超感覚(超人)」とするイマーゴ(理想の人間関係)の在り方において高評価されることは「サタンの領域」の正当化であると見做せる。
「超感覚派(スーパーエスパー)」とは「全知全能」とも言うし「doxaの山師」とも言う。
その正体は「トートロジーと循環論証(理想の人間関係)」で立てられた「テレビの八百長クイズ番組(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と同等であるだろう。
それは「庵野秀明監督」であり「新海誠監督」であり「長嶋茂雄監督」である。
特に「シン・エヴァンゲリオン」の最後は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を「超感覚(超人)」とする超感覚派(スーパーエスパー)となって終焉した。
それは本作において主人公「碇シンジ」が「スーパーエリート」とされた設定において「キチガイみたいな特権(理想の人間関係)」が「超感覚(超人)」として彼に付与されていることに拠っている。
それに拠って「碇シンジ」はその「超特権(理想の人間関係)」により「世界観(doxa)」を選択し「受験勉強(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の日常に降り立つのだ。
しかし「早稲田大学スーパーフリー事件」の主犯の主張によれば自分たちはスーパーエリート(理想の人間関係)だから「超特権(超人)」があるのだと強硬に主張した。
彼らがスーパーエリート(理想の人間関係)である根拠は大学の偏差値ランクとその大学への入学にある。
結局「シン・エヴァンゲリオン」の主張の根拠は「早稲田大学スーパーフリー事件」の主犯の主張と同じ「大学入学」による「スーパーエリート(理想の人間関係)」と同等であるのだ。
「碇シンジ」はエヴァンゲリオンの「スーパーエリート(理想の人間関係)」から受験勉強の価値基準である高偏差値を根拠とした「スーパーエリート(理想の人間関係)」を選択しただけなのだ。
何故「碇シンジ」がエヴァンゲリオンのエースパイロットであったかも私には不明であった。
そして受験勉強の高偏差値大学がスーパーエリート(理想の人間関係)である理由も私には不可解だった。
何故ならばそれは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のないスーパーエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の存在を示しているからだ。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「高偏差値大学(受験競争)」を「超感覚(超人)とした日本社会を賛美するエヴァンゲリオンはその程度の思想哲学でしかないことがここに明らかになった。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に敵対して「スーパーエリート(理想の人間関係)」を立てる「神演出」なのだ。
しかしそれは特殊詐欺(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)ではないだろうか?
その理由は明白である。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に敵対感覚(原罪)を持った「スーパーエリート(理想の人間関係)」はサタンの下僕でありその支配は世界を荒廃させる。
「末法思想」の世になるのは必然であるからだ。
日本の「カミオカンデ」のように「天才の思考実験」も「理想の人間関係(カルト)」として存在しその仮説の「実証実験」も「理想の人間関係(カルト)」として存在する。
そして「理想の人間関係(カルト)」は「誰も真似できないような大仕掛け(神演出)の実験」を可能とし他者(他の研究機関)が同じ大仕掛け(神演出)の実験をすることができないようなことを行う。
しかし「理想の人間関係(カルト)」が可能にすることはイマーゴ(真善美の回復)としてのイマーゴ(理想の成虫体)ではなく「特殊詐欺」の完全犯罪だと見做せるだろう。
そしてノーベル賞受賞研究であったニュートリノの観測において「機会」の少ない「超新星爆発」の「ニュートリノ検出」の「再現実験」は物理的にも絶対に不可能なのだ!
それは「STAP細胞事件」を想起させる。
小保方晴子女史は、只の愚か者とは言い難いのだ!
何故ならば安倍晋三がかつて発言したように「みんなやっていますよ!」となっているからだ!
しかし小保方晴子女史の「STAP細胞事件」の馬脚はすぐに露顕した。
何故ならば「スーパーカミオカンデ」のように当初から「再現実験」が不可能な「特権的実験(特殊詐欺)」ではなく「他の研究者」が「再現実験」を試みることが比較的容易な実験であったためだ!
それにより「捏造」がすぐに露見したのである。
どちらが「良心的科学者」だろうか?
一方は「ノーベル賞」を受賞しているが「特殊詐欺」の「完全犯罪(騙し抜き)」であり、一方は「自殺者」が出た「大事件」となった!
もはや「完全犯罪(騙し抜き)」は不可能となっている。
どうも小保方晴子女史も「完全犯罪(騙し抜き)」にまだ拘っているらしいがその悪事の稚拙さは最悪とはいい難い。
ただとても「良心的な女」とは言い難いだろうとは思う。
「自殺したあの男」は追い込まれて自殺したのだろうか?
「捏造」が露見しても威張っている輩よりは彼は「良心的科学者」であるだろう。
しかし〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉により彼が「真の科学信仰」に生きていくことが大事であったと私は考える。
「キリスト教カトリック神学」では「自殺」を禁じている。
しかしキリスト(ナザレのイエス)を売った「イスカリオテのユダ」は首を括ったと言われている。
これは「科学者」が「カルト」に堕落した在り方でしかない。
まさに「鋼の錬金術師」の「世界観」であると言える。
大学がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)からイマーゴ(真善美の回復)を受肉する場であるならそこに絶対的矛盾がある。
大学(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))に敵対する大学(理想の人間関係)として「高偏差値」の学者が「超感覚(超人)」とされている!
サタンの下僕が大学を支配している。
それならば「最高学府」とは「ナザレ」であると言えるだろう。
そして「ナザレ」とは汎ゆる生活者の信仰の場であり「スーパーエリート(最高善の神の選民)」を生む。
そしてそれは「最高善の神の王国の到来」を示しているのだ。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に敵対する「理想の人間関係」の学者が「高偏差値」の権威を「武器」にして「学問(真善美の回復)」を出鱈目にしている。
世も末でありそれを末法思想の世という。
そしてその末法思想の崇拝者が「一向宗徒(カルト)」であるのだ!
「末法思想」の「映画」に「権威」が与えられる。
様々な映画賞を受賞した作品として「権威付け」される。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「権威付けされた存在(末法思想)」は「人間動物社会」で「超感覚(超人)」とされるだろう。
「権威」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「超感覚(超人)」に昇華された「人間動物」の在り方であるがそれは「サタンの領域(末法思想)」でしかない。
ここで端的に示せば「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を持つ存在は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」である。
「人間動物」の在り方と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を持つ「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の決定的違いとなる。
このような「権威の仕掛け(権威の神演出)」は「人間動物社会」の「大仕掛け(神演出)」を装うことで「超感覚(超人)」とされる。
しかしその「人間動物社会」の「大仕掛け(神演出)」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」とは似て非なるものである。
「庵野秀明監督」は大阪芸術大学で「芸術」を学び「人脈(理想の人間関係)」を形成したと言われている。
しかし「学問」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を義務とする「カトリック社会」の研究である。
そこにある「大仕掛け(神演出)」は「学問(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に対して「専門家(理想の人間関係)」を「超感覚(超人)」とする「トートロジーと循環論証」であるだろう。
この「象徴的例」は幾つかある。
例えば橋下徹弁護士(政治家)は「法学(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に敵対することで有名である。
そして「法学(医学)」ではなく「法(医)」の「専門家」を「超感覚(超人)」とする。
「法(医)」の「専門家(理想の人間関係)」とは「司法試験(医師免許試験)」の「合格者」のことであるのだ!
たかだか「国家試験」に合格しただけの存在が「超感覚(超人)とされるという彼の主張はあまりに稚拙に思える。
しかし近年「学問(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に敵対し「専門家(理想の人間関係)」を「超感覚(超人)」とする「学者」が多々いることも「真実」である。
本来は「学問(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に対し「専門家(理想の人間関係)」は「劣った未熟者」であることが「正解」であると思われる。
そこには「学問(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に敵対する「学者(専門家)」という矛盾した呼称の存在が明らかになる。
それは芸大卒業の庵野秀明監督にも顕著に伺えるだろう。
彼は芸術家(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))に敵対する「芸術家(専門家)」であるからだ。
そしてその「専門家(理想の人間関係)」を超感覚(超人)とするアリバイ証明(修行経験)は「トートロジーと循環論証(論理上の虚偽の一つ)」により根拠付ける。
結局「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は「強硬な主張」及び「暗黙の命令」により形成される。
それで解るように「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の正体は「集団脅迫行為」なのだ。
又「超感覚(超人)」と「観測(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」の違いは認識上の大きな違いとなる。
「地動説」を証明した「コペルニクス的転回(叡智〈相互愛〉)」はコペルニクスの「観測」に依っているからだ。
「観測」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に依って行われる「科学的思考」である。
しかし「超感覚(超人)」は「ガリレオ的転向(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を命じる「集団脅迫行為」であり「カルト(一向宗徒)」であるのだ。
そして「ガリレオ的転向(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を命じた「カトリック教会(超感覚〈超人〉)」が存在することになる。
それは「カトリック信仰(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に敵対する「カトリック教会(超感覚〈超人〉)の存在(理想の人間関係)となる。
それは「学問」も「科学」も同様の在り方となり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する「カルト(理想の人間関係)」の「超感覚(超人)」の在り方(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)となる。
その象徴的例は「TBS報道の日」で紹介されていた「スーパーカミオカンデ」である。
何故「スーパーカミオカンデ」が「カルト(超感覚〈超人〉)」である証拠が存在するのかと言えば「観測(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」と「超感覚(超人)」の違いを明確に指摘するだけで事足りるだろうと思う。
それは先程指摘したコペルニクス的転回(叡智〈相互愛〉)とガリレオ的転向(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の違いである。
「スーパーカミオカンデ」は「観測(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」ではなく「観測(超感覚〈超人〉)」として存在しているからだ。
それは「観測(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」に敵対する「観測(超感覚〈超人))」であり、その「技術者達」は「ノーベル賞(権威付け)」のための「大掛かり(神演出)」な「実験結果」のペテン行為(特殊詐欺)をしたにすぎない。
「量子力学」の証明も同様の手法と思われる。
そして「現代精神医学」の主流の根拠とされる「脳内物質」と「精神薬理学」の「理論」も「観測(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」ではなく「観測(超感覚〈超人〉)」に拠っている。
それはまさに「カルト医学(理想の人間関係)」に堕した「精神医学」の姿なのだ!
そのような「スーパーカミオカンデ・カルト」が存在し世界市民全てを欺こうとしている現実はまさに末法思想の世である。
その「特殊詐欺」への「権威付け」に「日本国家」は多く加担しているのだ。
「堕落国家日本」と「堕落ノーベル財団」でしかない。
やはり「ダイナマイト」で商売をした「武器商人(死の商人)」の性根の浅ましさは知れているのだ!
そして「日本国」という「島国」の「未開国家」は未だに「天動説」と「地動説」の違いも理解できない「劣等なdoxa」でしかない。
そしてその「劣等」を武器にして「特殊詐欺(理想の人間関係)」を「武器」とする浅ましく堕落した「劣等者(原始的段階に近い存在)」でしかないのだ。
「カルト(理想の人間関係)」を武器にする大事件は「オウム真理教事件」を想起させる。
彼らは「完全犯罪(騙し抜き)」のために「なんでもあり」の存在となる。
だから「サイエンスフィクション(カルト)」となるのだ。
しかし「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「完全犯罪(騙し抜き)」を目的としておらずイマーゴ(真善美の回復)を受肉し「最高善の神の王国の到来」を信仰する。
それはイエス・キリストの個人信仰である。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「サイエンスフィクション(理想の人間関係)」を「超感覚(超人)」とすることは「コミックとアニメの世界」である。
日本国総理がアメリカ議会で「日本のコミックとアニメ」を誇ったことは「カルト(理想の人間関係)」を武器とする「劣等の証明」となりカルト国家日本が明らかになった瞬間だったのだ。
いくら「カルト(理想の人間関係)」を「権威付け」したからと言ってそれが最も劣等であることに変わりはないのだ。
「権威付け」自体が「超感覚(超人)」であり「カルト(理想の人間関係)」でしかないからだ。
「権威」による「集団脅迫行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は日本国でよく見られる光景である。
「スーパーカミオカンデ(超感覚〈超人〉)」の「権威(カルト)」も「集団脅迫行為」として「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に敵対し続けているのだ。
TBSの報道は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と言えるのだ!
何故ならば報道(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))に敵対する報道(超感覚〈超人〉)はデマゴーグであるからだ。
それは「特権階級(理想の人間関係)」の「特殊詐欺(理想の人間関係)」を「超感覚(超人)」とすることと同じである。
それは「特権階級(理想の人間関係)」のための「デマゴーグ」でありその象徴的例は「光市母子殺害事件」であると言えるだろう。
「デマゴーグ」は「特権階級(理想の人間関係)」の「武器」であるのだ!
又「明治維新」や「織田信長」に関する歴史がおかしいと感じる。
薩長のクーデターに過ぎなかった明治維新の評価は明らかにおかしいだろう。
それらの「特権階級(理想の人間関係)」のデマゴーグは明らかに「特殊詐欺」であり「超感覚(超人)」とされているからだ!
これらは「トゥルー・クライム」と言えるのだ!
では何故TBSの報道が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を言えるのだろうか?
それはTBSの報道が「デマゴーグ」を「デマゴーグ」として報道することでそれを知らせているからだ。
TBSの報道は少なくとも「デマゴーグ」の賛美はしない!
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ここで言えることは「聖織田信長信仰(至高の抽象化の高み)」とはそのような「劣等」を「武器」とする「一向宗徒(カルト)」を殲滅する「聖人賛美」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」からイマーゴ(真善美の回復)を受肉し叡智を齎す「精鋭国民」による「国家建設」を謳わなければならないものなのだ。
それは「聖信長」の「賛美歌」を奏でることである。
「人間動物」に取って大事なのは「地位と名誉と金と女(男)」である。
そしてこうも言える。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「地位と名誉と金と女(男)」を武器とすることは「サタンの誘惑」である。
又「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「地位と名誉と金と女(男)」を「超感覚(超人)」とすることはそれを「武器」とすることと同義である。
イエス・キリストはこのように言っている。
だから、カエサルのものはカエサルに与えよ!しかし神のものは神に(与えよ)!
彼らにあるのは「イノセント感覚」と言う「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を「超感覚(超人)」に昇華させる大仕掛け(神演出)でありそれは「呪術」と「偶像」として存在する。
フロイトに言わせれば「原始的段階に近い」在り方であり結局は「ワンワード」を「超感覚(超人)」とする「呪術」の在り方となりその象徴として「偶像」が形成される。
まさに「呪文」と「象徴」の誕生である。
そしてその「呪文」の言葉は「頭が良い」という言葉で表現され「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を「超感覚(超人)」とする「頭の良さ」が誕生する。
それは「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「百発百中(全知全能)」であるのだ!
人はそれを「イノセント感覚」の「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」を「超感覚(超人)」とする「全知全能」の存在と言う。
物事を全て当てる「doxaの山師」と言う「超感覚(超人)」を持った「スーパーエスパー」の誕生である。
しかしそれは新約聖書ルカ「時の徵」の譬えの通り「デマゴーグ」の在り方でしかないのだ。
彼らは「デマゴギー」を吹聴する「全知全能の神(サタン)」となるのだ!
「全知全能の神(サタン)」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の決定的違いは「ロゴス」にあると言える。
「超感覚(超人)」の在り方について両者を明確にすると「サタン」は「doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa」の「超感覚(超人)」による「デマゴーグ」の在り方であり、一方で「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はイマーゴ(真善美の回復)を受肉し叡智を得る「超感覚(超人)」であるところなのだ。
全く相反する認識は「ソクラテス」の「無知の知」にも象徴されている。
彼は「サタン崇拝者」に処刑されたのだ。
「サタン」の「超感覚(超人)」は明らかに「詐術」であるだろう。
何故ならば「doxa(思い込み)」を「超感覚(超人)」に昇華させる大仕掛け(神演出)が「修行経験」を「アリバイ証明」とする「儀式」となっているからだ。
しかしそのような「アリバイ証明」は「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」でありそのような「儀式」は「サタン」の「超感覚(超人)」を崇拝する「黒ミサ」の「儀式」と言えるからだ。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はイマーゴ(真善美の回復)を受肉する。
それはイマーゴ(理想の成虫体)であり「超感覚(超人)」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のことである。
「学問」とはそのような「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と言う「超感覚(超人)」を信仰するもの(学者)の在り方を示している。
そしてフロイトはそのような「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の在り方を「至高の抽象化の高み」と表現している。
しかし「庵野秀明監督」にも「新海誠監督」にも「学問」は存在していない。
一方で「宮崎駿監督」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を義務とする「修行経験」から「芸術」を制作する。
「カトリック社会」の研究こそが「修行経験」でありそれは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を義務とすることの「修行経験」に他ならないからだ。
「宮崎駿監督」の作品は「学問」でありイマーゴ(真善美の回復)であると言える。
それはイマーゴ(真善美の回復)をイマーゴ(理想の成虫体)とする「芸術」となる。
「草間彌生」の「水玉芸術」は「愚民政策」の極みだろう!
一体誰の仕掛け(神演出)であったのだろうか?
「新海誠監督」の作品も「ベルリン映画祭」のコンペティション作品に選出(神演出)された。
しかし先程も指摘したように「新海誠監督」は「イノセント感覚」の「修行経験」でありそれが「超感覚(超人)」に昇華するストーリー形成である。
「ドラゴンボール」の「超サイヤ人(阿弥陀如来)」と同じワンパターンであるのです。
彼ら監督達の作品が「何の深みもない作品」となっている「証明」となるだろう。
「深みのある作品」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を信仰して制作された「カトリック社会(最高善の神の王国の到来)」を描いた作品である。
それは「宮崎駿監督」の作品群なのだ。
ここで言えることは「宮崎駿監督」の「後継者」と目された「監督達」が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を義務としていないという事実に瞠目すべきことである。
彼らは「イノセント感覚」を「修行経験」としている。
それが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「修行経験」と決定的に違う点は「イノセント感覚」の「修行経験」を「アリバイ証明」として「超感覚(超人)」の根拠付けとする点なのだ。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「修行経験」はイマーゴ(真善美の回復)としての「学問(芸術)」を齎す。
しかし「超感覚(超人)」の根拠である「アリバイ証明」は「トートロジーと循環論証」でしかないのだ。
そして「超感覚(超人)」の根拠は「トートロジーと循環論証」でありその存在に根拠はないのだ。
「トートロジーと循環論証」は「論理上の虚偽の一つ」であるからだ。
ここで解るように「宮崎駿監督」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)の後継者に「トートロジーと循環論証(論理上の虚偽の一つ)」を据えることは「大悪事」である。
何故ならば宮崎駿の「カトリックミサ」の後継者に「黒ミサ」の主催者を据えるという最悪事態を招いているからだ。
「ジブリ鈴木敏夫」は馬脚を露わし「大悪人」となるのだろうか?
私は未来を予言することはできないがこれは非常に重大な問題を孕んでいるのだ。
プロローグ「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と「大弾圧感覚」
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の後継者は血統(宮崎吾朗)でもなくスタッフ(庵野秀明)でもなくオマージュ(新海誠)でもない。
そして「スタッフ」も「オマージュ」もほぼ同様であり、そして「血統」も「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を弾圧して後継者とされた「ダビデ王とソロモン王の関係」となることは世の習いである。
宮崎駿監督(ダビデ王)の後継者とされているのは宮崎駿の息子の宮崎吾朗監督(ソロモン王)である。
しかしそれは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の後継者ではなく「ジブリ(時の徴)のプロテスタントデマゴーグ〈集団脅迫行為〉」の主犯でしかないだろう。
「ダビデ王」の息子「ソロモン王」は「エルサレム神殿」を建造し神から「知恵」を得た存在である。
しかしその「知恵」は「テレビの八百長クイズ番組」の在り方でしかないだろう。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉はその人の「主観(信仰を入れる場所の確保)」によっているからだ。
まさに「ジブリ美術館建造」と「ジブリパーク建造」はソロモン王の「エルサレム神殿建造」と同じでありその「知恵」は神からの「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が齎したロゴス感覚(イマーゴ〈真善美〉)ではなく「バベルの塔の建造」に限りなく近い在り方である。
ソロモン王(宮崎吾朗)は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」ではなく「建造(バベルの塔)」を「超感覚〈超人〉」としたに過ぎない。
そしてソロモン王が大規模な開発を行った様はまさに宮崎吾朗が大規模な開発をした「ジブリパーク建造」であり「ジブリ美術館建造」となっている。
そこにある絶対的な差異が「ダビデ王」とその息子「ソロモン王」の違いにあるのだ!
その「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」の「主観(信仰を入れる場所の確保)」の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の存在なくして「後継者」はあり得ない。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)の受肉信仰の後継者とは信仰者の間の相互扶助の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に他ならない。
「後継者」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の在り方であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「修行経験」を与えられそれを受肉した「主観(信仰を入れる場所の確保)」ともいい得る。
それはイエス・キリストの純愛の福音である。
それは「制作スタッフ」や「オマージュ作品制作」などによる「アリバイ証明」ではなく、「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」からイマーゴ(真善美の回復)を受肉し叡智を得ることでありそれを「後継者(福音)」と言う。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」によって「真善美(イマーゴ)」を受肉することを「聖なる修行経験」という。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のない修行経験は「アリバイ作り(アリバイ証明)」を正当化する社会的キャリア形成と同じである。
それは「修行経験」と称するアリバイ証明であり社会的キャリア形成(トートロジーと循環論証)である。
新海誠が今回の映画で描いたとされる「災害シーン(純愛シーン)」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を至上にして認識しなければ「真善美(イマーゴ)」を見出すことは出来ない!
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のない「災害シーン(純愛シーン)」とは「自分感覚(イノセント感覚)」による「超感覚(超人)」を正当化する態度であり「大弾圧」でしかない!
それは一種の全知全能の世界観(doxa)の形成であり、妙な「予定調和」と、妙な「見えざる神の手」が存在する。
しかしそれは「最高善の神からの治外法権(人の聖域〈サンクチュアリ〉)」の主張でしかない。
それは「最高善の神からの治外法権(人の聖域〈サンクチュアリ〉)」とは特権階級(理想の人間関係)の成立を示している。
「特殊詐欺(理想の人間関係)」が「特権」とされるのだ!
そして「最高善の神からの治外法権(人の聖域〈サンクチュアリ〉)」の主張とは「トートロジーと循環論証」である!
それは「トートロジーと循環論証」の「特殊詐欺」を「特権」とすることを示している。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して「特権階級(理想の人間関係)」を「超感覚(超人)」とするカルト社会が日本国であるのだ。
「最高善の神の王国」を弾圧した「人の聖域(最高善の神からの治外法権)」をサンクチュアリとして提示した堕天使ルシフェル(サタン)の映画作品であった。
この映画作品の「災害シーン(純愛シーン)」は「大弾圧」であったと見做せる!
何故ならば「修行経験」による「アリバイ証明」を形成するために「災害」と「純愛」を利用したと見做せるからです。
その行き着く先は「超感覚(超人)」という「イノセント感覚(自分感覚)」の正当化であり「特権階級(理想の人間関係)」という「人の聖域(最高善の神からの治外法権)」を形成する。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」からあざとく自閉した「イノセント感覚(自分感覚)」を「超感覚(超人)」として美化する態度である。
それを一般にサタンといいそれは最高善の神に反逆した堕天使ルシフェルというのです。
新海誠の作品はサタンの映画なのです。
その一方で宮崎駿の作品はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)です。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の特徴はイマーゴ(真善美の回復)をイマーゴ(理想の成虫体)とするところです。
もし幼子イエスがイマーゴ(真善美の回復)を受肉していたらそれはイマーゴ(理想の成虫体)でありその在り方は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と言えます。
それが宮崎駿のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)です。
だから宮崎駿はロリータコンプレックスではないのです。
又一方で新海誠は「人の聖域(最高善の神からの治外法権)」の主張である「超感覚(超人)」が「特権階級(理想の人間関係)」としての「ロリータコンプレックス」であるとしてそのような作品を制作します。
「性的対象(対象)」の「性的成長(成長)」は「修行経験」とされ「アリバイ証明」と見做されるのです。
新海誠にとって「ロリータコンプレックス」は「超感覚(超人)」なのです。
そして「災害シーン(純愛シーン)」という「超破壊シーン(奇跡シーン)」も「超感覚(超人)」とされます。
「特権階級(理想の人間関係)」の「人の聖域(最高善の神からの治外法権)」の主張は当然に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を弾圧する「カルト感覚」となるのです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)とカルト感覚は相反する決定的な対立となります。
それが光と闇の聖戦となるのです。
宮崎駿の後継者にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が存在せずサタンでしかないということは、それが最悪な後継者であるという象徴的事件であるということなのです。
宮崎駿後継者問題はこの世界の行末を占う上で非常に重要なキーポイントを握っていると言えます。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の特徴
悔い改め
隣人愛
「サタン感覚」の特徴
光(カトリック社会)と闇(理想の人間関係)の聖戦
光が勝つか?
闇が勝つか?!
「超感覚(超人)」を正当化して主張を形成するがそれはトートロジーと循環論証の産物であり大弾圧の存在である。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶める人間関係の産物であり印象操作を正当化する「doxa(思い込み)」を武器にする劣等な人間動物の在り方でしかない。
それは発達障害の低能児でありサヴァン症候群の在り方と同じであるだろう。
サヴァン症候群の作品と新海誠の作品は大弾圧の作品であると言える!
自称芸術家の草間彌生の「水玉模様」と同じである!
よって新海誠とは実は大弾圧監督と言える。
彼の出自すら怪しい。
金持ちの息子がアダルトゲーム制作会社勤務を経て制作した大弾圧アニメ作品でしかないだろう。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」は「真善美(イマーゴ)」の受肉であり「ゲーム感覚」とは違う。
「ゲーム感覚」は「超感覚(超人)」を競う「トートロジーと循環論証」の「修行体験」でしかなく「真善美(イマーゴ」の受肉しない発達障害の低能児のお遊戯であり劣等な人間動物の行いである。
その光と闇は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)(ペルソナ)」と「あざとい自閉(人間動物)」の在り方で表現され「あざとい自閉」は光(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))により駆逐される。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を持つ汎ゆる生命存在は「ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」である。
それが「最高善の神の意志」である。
聖戦は「闇(トートロジーと循環論証)」を操る「黒魔術師」との戦いとなる。
一方で「白魔術師」が存在し「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を至上にする「光(信仰)」を齎す。
イマーゴ(真善美の回復)である「真善美の世界の到来」が「最高善の神の王国の到来」である。
これは「黙示」であり「光と闇の聖戦」なのだ!
人間動物の聖域・堕天使ルシフェルの統治・最高善の神からの治外法権の主張・特権階級・理想の人間関係〈特殊詐欺〉
最高善の神の王国の到来(カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の至上性)
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるイマーゴ(真善美)の受肉
堕天使ルシフェルの統治(人間動物の聖域)は暗黒卿(悪魔のサンクチュアリ)である。それは「特権階級(理想の人間関係)」の傲慢と欲望である。
本論「宮崎駿」と「新海誠」のアニメ映画製作における「少女の成長」の考察
1 人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としての在り方と少女「性的対象」としての在り方に於ける成長の概念の差異とは何か?
新海誠監督の新作アニメ映画「すずめの戸締まり」の記者会見において新海誠監督は宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」に言及しその影響を強く受けたと発言しています。
アニメ映画「魔女の宅急便」は少女の物語であり、また少女の成長の物語で或るとされています。
私は角野栄子さんの書いた映画の原案となった童話「魔女の宅急便」を昨年千葉大学病院精神神経科閉鎖病棟内の本棚で借り一人ベッドで読みました。
だから宮崎駿監督のアニメ映画が「魔女の宅急便」原作シリーズの一巻を映画原作としていると知っています。
他の続編は実はアニメ映画の後に書かれたもので角野栄子さん原作というより逆に宮崎駿監督のアニメ映画の方が原案となっています。
その第一巻の原作童話がこの宮崎駿監督映画の粗筋と言えますが、しかしアニメ映画作品とは全く趣が違います。
その後に出版された角野栄子の「魔女の宅急便」原作シリーズはアニメ映画「魔女の宅急便 (1989年の映画)」の内容から着想を得て書かれていて映画を踏襲しています。
それは映画の内容はほぼ宮崎駿監督の「オリジナル」だったことを示しています。
「知の鵜呑み」から「知識の廃棄」へ向かい「信仰をいれる場所の確保」をしたのは明らかに宮崎駿監督でした。
そして角野栄子の「魔女の宅急便」原作シリーズこそが少女(性的対象)が年を経て大人(性的成長)になり「女」へと成長する過程を描いています。
それはある意味で当たり前の話であり、そこに何の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はないのです。
そこに人が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所を確保して受肉した「叡智」はありません。
しかし宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」における少女(唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル))は違います。
それは宮崎駿の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保して受肉した「叡智」があります。
少女(性的対象)の動物的成長(性的成長)を描くのではなく、少女(唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル))の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り方を描いています。
宮崎駿監督の少女(唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル))はただ動物のように成長するのではなく、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保から受肉した「最高善の神の叡智」を得ていきます。
それが宮崎駿監督の描いた真の人(唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル))としての最高善の神の芸術家「キキ」です。
この作品は角野栄子の「魔女の宅急便」原作シリーズの第一巻を宮崎駿監督が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保して受肉した「叡智」を齎した最高善の神の芸術作品となっています。
しかし角野栄子原作の方には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はありません。
宮崎駿監督の作品はイマヌエル・カントの「純粋理性批判」と言えます。
それは「fine arts」です。
2 「信仰を入れる場所を確保するために知識を排除しなければならなかった。」
宮崎駿監督の映画は角野栄子の原作にある「知識」を排除することで「信仰を入れる場所」を確保して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を描いている。
だからこの映画は「少女の成長」というより「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」のカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰者(Holy Communion)の在り方とその生き様を創作しているのです。
新海誠は此の宮崎駿監督の映画に「少女の成長」を語ります。
しかしそれは角野栄子が書いた「魔女の宅急便」の原作シリーズの方だと言えます。
その「少女の成長物語」という「知識」の「知の鵜呑み」とその「崇拝」は「人の知」となります。
その一方でイマヌエル・カントの「純粋理性批判」に於ける「知識の排除」と「信仰」は「最高善の神の知」です。
それはソクラテスの「無知の知」を示しています。
宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」に言及するなら少女(性的対象)の動物的成長ではなく、少女(信仰から形成されるオリジナル)の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から齎される「叡智」の受肉の在り方を見るべきです。
ただ「少女(性的対象)が大人(性的成長)の「女」になった」と見るだけの「源氏物語の光源氏」のような視点では少女(信仰から形成されるオリジナル)に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はありえず、少女(セックス商売品)に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は齎されません。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の少女が「叡智」を受肉して最高善の神の芸術家「キキ」となり「真の人(信仰から形成されるオリジナル)」となり得るのです。
新海誠監督の新作アニメ映画「すずめの戸締まり」における「少女の成長」が如何なるものか観ていないので今は不明です。
ただ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「叡智」を受肉することで人(唯一性のペルソナの確立)の少女(信仰から形成されるオリジナル)となることは大人(性的成長)の「女」になる動物的成長とは違います。
新海誠は「源氏物語の光源氏」のようです。
それは少女を「性的対象」としての大人(性的成長)としての動物的成長を見る視点を持っているからです。
今回の映画はこのような「少女の成長」について宮崎駿監督を意識したと豪語した新海誠監督が新作アニメ映画「すずめの戸締まり」で「少女の成長」をどのように描いたのかが見どころです。
3 新海誠の真価は如何に!
人(信仰から形成されるオリジナル)を描いた傑作になるか!
女(性的対象)の動物的成長(性的成長)を描いた駄作になるか!
ただ言えることは叡智を描くには叡智を理解していなければ叡智を描くことは出来ない。
それは真に人を描くには真に人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を理解していなければできないことを意味します。
果たして新海誠がそこまでの人物かは不明です。
ただ今までの作品の「世」に於ける彼の評価は高い。
しかしそれは傑作を意味していない。
何故なら「世」では「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は貶められ弾圧される。
それによって詐欺師感覚(捏造感覚の第二の箱船)の多様な面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)がペルソナ(偽のペルソナ)とされるからだ。
その「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」と「多様な面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)としてのペルソナ」の違いは「聖人」と「詐欺師」の違いとなる。
宮崎駿監督の映画は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を至上とし新海誠監督の映画は「多面的な面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のペルソナ(偽のペルソナ)の詐術」を至上とする。
要は新海誠監督の映画には真に人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を描いた作品は皆無であるのだ。
これは「人気」と「傑作」が必ずしも一致しないよくある例である。
4 ロリータ・コンプレックス(性的対象の性的成長)
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉するイマーゴ(真善美の回復)
宮崎駿監督の作品は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持ち「叡智」を受肉していくことが真に人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」とされている。
それはイマーゴ(真善美の回復)と言えるものです。
宮崎駿監督にとってただ「少女が初潮を迎え」、「少女が男を知り」、「少女が世間ずれ」していくことが「人としての成長」ではないのだ。
それはイマーゴ(真善美の回復)ではなく少女(性的対象)の動物的成長としての性的成長(ロリータコンプレックス)であるからだ。
5 新海誠にとってはどうだろうか?
新海誠には宮崎駿監督の持つ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はないように見える。
しかし新海誠の作品は「純粋無垢」がある。
それは「イノセント」と言われる。
では「イノセント」とは何だろうか?
叡智の無いまま成長した存在がイノセントなのだろうか?
叡智のないまま成長した存在は「天然邪悪」と呼ばれるだろう。
「猿のような狡猾さ」である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が齎す「叡智」を得ることで真の人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」となる。
しかし叡智を得ることなく成長した者を仮に「イノセント」と呼ぶなら、「イノセント」は「人の中身空っぽ」の意味であり、そして「天然邪悪」な狡猾な猿と同じになる。
人の中身のない見かけだけの成長とはなんだろうか?
「人の中身空っぽ」で肉体だけが成熟しそして衰えていく存在はなんだろうか?
それは「醜悪な存在」と言える。
新海誠はそういった「醜悪な存在」を美しく耽美的に飾り立てる作品を制作している。
新海誠は「醜悪な存在」の「幇間」なのである。
ここで使用されている詐術は「美化」に関するものです。
新海誠は耽美的であり「美化」への拘りがあります。
しかしそれは「醜悪さを美しく装飾すること(美化幇間)」でしかありません。
ここで語彙に関する説明を少しします。
芸術は「art」です。
そして美術は「fine arts」です。
新海誠の作品は醜悪さを「美化」で装飾します。
そして新海誠は自らの作品を「美術」としての「fine arts」だと見做しそれを「芸術」であると強硬に主張します。
しかしそれは完全に間違いである。
宮崎駿監督の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った作品こそが「芸術」であり純粋芸術として「fine arts(Holy Communion)」なのです。
「美術」の前提は「美化」ではなく「芸術(Holy Communion)」であることなのです。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が叡智を受肉した姿なのです。
そしてそれは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」なのです。
6 私は「三鷹の森ジブリ美術館」へ一度だけ行きました。何故そこは「美術館」なのだろうか?
それは宮崎駿の作品が「fine arts(Holy Communion)」としての「美術」だからです。
美術と芸術の言葉の違いは「fine arts」と「art」の違いでしかないのです。
そして「fine arts」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてあるのです。
それは「純粋芸術(Holy Communion)」を意味し新海誠のように醜悪を「美化」で装飾する「美化幇間」の在り方とは違います。
敢えて言うなら新海誠の「美化」は「painter(美化幇間)」でありただの「芸(幇間)」です。
新海誠の「美化」は「ペンキ塗り(美化幇間)」のようなものです。
お笑い芸人の「芸(幇間)」も同じです。
彼らは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧してもいいのです。
ただそれは大弾圧行為(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)でしかありません。
ただ「painter(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」は「fine arts(Holy Communion)」には決してなり得ない。
「芸術」に対し「醜悪」を美化する行為は「芸術」への「敵対感覚(原罪)」としての大弾圧の在り方です。
「ペンキ塗り(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」と「美術家(芸術家)」の違いです。
新海誠監督(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)も同様です。
私の家は私の血で血まみれですがペンキで塗って隠しています。
これは美術を装う「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」の詐術です。
「美術(Holy Communion)」ではないのです。
真の芸術は「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」ではなく「美術(Holy Communion)」なのです。
7 ここで解りやすく例を挙げます。
新海誠監督の少女(性的対象)が主人公の唯一の作品だった「星を追う子供」です。
この主人公の少女である渡瀬明日菜は利口で学校の成績もよく一見して知識がある子供です。
しかし渡瀬明日菜には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」がありません。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「最高善の信仰」であり〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉への恭順です。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から叡智を受肉することが人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」だと知っていることです。
渡瀬明日菜は利口であり純粋無垢です。
新海誠は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から叡智を受肉して人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」となる少女「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」ではなく、「利口で物知りでイノセント(天然邪悪)な英雄的少女」を描きました。
これは宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の主人公の少女ナウシカとは対照的です。
ナウシカは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があり叡智を受肉する「理のある人」であるからです。
そもそも「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持っていることだけでもナウシカは聖人なのです。
8 「利口な人」と「理のある人」ではどちらが真に人「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」となるでしょうか?
それは叡智を受肉する「理のある人」です。
聖人としてのナウシカが奇跡を起こすのがアニメ映画「風の谷のナウシカ」です。
しかしそれは宮崎駿監督の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が創らせた芸術(美術)作品としてあるのです。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」故にあり得た芸術(美術)作品です。
「新海誠の描いた渡瀬明日菜のイノセント(天然邪悪)」と「宮崎駿の描いたナウシカの信仰の聖人」では「比較にならない程の差異」があります。
この両者は全く違うのです。
9 渡瀬明日菜を評すれば「絵画教室で綺麗な絵を褒められ二科展で入賞し文学賞を受賞」といった感じでしょう。
此のような人物は天然邪悪なイノセントと言えます。
それは他者からの評価によってあり得る優等生です。
それは「利口な人」です。
10 しかしナウシカを評すれば「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持ち「叡智」を得ることであり得る賢者『唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)』なのです。
それは「理のある人」です。
他者からの評価(美化)に依ってあり得る優等生は「醜悪な存在」の「幇間」に依っていると同義であり、その反対の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が齎した「叡智」を得て行く行為は「PHILOSOPHIA」であり「智を愛すること」です。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」です。
ナウシカは「愛(聖愛)」です。
ナウシカは「純愛の人(聖愛の人)」なのです。
これは宮崎駿に「純愛(聖愛)」があることを示しています。
宮崎駿も「純愛の人(聖愛の人)」なのです。
11 第二版序文「信仰に場所をあけるために、知識を捨てなければならなかった」 by イマヌエル・カント「純粋理性批判」
宮崎駿の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はイマヌエル・カントの「純粋理性批判」から来ていると思われます。
イマヌエル・カントはこう書いています。
私は船橋市北図書館の蔵書である岩波書店「カント全集全23巻」をすべて読んでいます。
何回か岩波文庫の「純粋理性批判」を読んでみたがあまり良く解らなかったので読み直してみました。
市民講座で「坂部恵さん」の講義を受講したことがあります。
近畿大学東京コミュニティカレッジでした。
柄谷行人さんが国際人文科学研究所の所長をしていて私は大学卒業後(2002年4月)すぐにこの市民講座の受講を決めました。
そこでは様々な講師が毎週土曜日に講義を行いました。
私はある時に坂部恵さんに質問しました。
坂部恵さんが中心になって岩波書店カント全集を上梓したことを知っていたからです。
そして柄谷行人先生と坂部恵さんはカントに関して対談もしていました。
私は「視霊者の夢」を読むために図書館で借りたカント全集3巻にこの部分を見つけたのでした。
丁度「視霊者の夢」の前にある論文がこれでした。
そこにはこう書かれていました。
「先ず悟性的人間、次いで理性的人間、最後に学者」という部分です。
私はここはかなり重要であると感じました。
それで私は坂部恵さんにストレートに質問をしてみました。
それは試金石のようなものでもあります。
それはある意味僭越な行いであろうと思いますが私は誰でも容赦はしません。
別に坂部恵さんが嫌いな訳ではないのです。
ただここははっきりさせなければいけない重要なポイントだったのです。
しかし坂部恵さんは何故か慌てて「そんな細かいことを・・・それはここにある」と言ってその場所だけ指摘するだけで内容には一切触れませんでした。
ただこの岩波書店の「カント全集」を読むと素直な翻訳でよく理解できました。
何回か読んでみて翻訳を変えてみると上手くいくことがある読書例です。
「NHKの100分で名著」というのには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」がある訳はないだろう。
もし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持っているならそれを啓蒙する番組となるからです。
NHKにそれを教えるような親切心はないのです。
NHKは偽善そのものです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が大事だということを知っておくのが大事です。
それが叡智を齎すのです。
イマヌエル・カントも宮崎駿も同様です。
宮崎駿の芸術は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保としてある。
宮崎駿の芸術制作は「知の鵜呑み」であることの「知」を「知の廃棄」によってそこに「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を入れる場所を確保すること」であり得ています。
それによって宮崎駿は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保して受肉した「叡智」ある芸術作品を創造するのです。
これが宮崎駿監督の作品制作の秘訣です。
ただこれは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する「稀有な人」でなければできないのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解さなければ「叡智」は受肉しないのです。
叡智のない作品に価値はありません。
12 では宮崎駿監督の監督作品と原作を参考資料として付記しておきます。
宮崎駿監督の監督作品のみを調べています。
※別の作品で新海誠作品を掲載しています。
以下 宮崎駿作品の原作を少し書いてみました。
この原作に宮崎駿が如何に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保しアニメ映画を制作したかを窺い知ることができれば宮崎駿という人間をもっとよく理解することができるだろう。
それは大事なことです。
宮崎駿のファンなら彼の理解者であるべきです。
「未来少年コナン」
アレグザンダー・ケイ「残された人びと」
「ルパン三世 カリオストロの城」
モーリス・ルブラン「アルセーヌ・ルパン カリオストロ伯爵夫人」
モンキー・パンチ「ルパン三世」
「風の谷のナウシカ」
宮崎駿「風の谷のナウシカ」
「映画・名探偵ホームズ 「風の谷のナウシカ」と同時上映(青い紅玉の巻/海底の財宝の巻)「天空の城ラピュタ」と同時上映(ミセス・ハドソン人質事件/ドーバー海峡の大空中戦!)」
サー・アーサー・コナン・ドイル「シャーロック・ホームズ全集」
「天空の城ラピュタ」
宮崎駿オリジナル原作(ただし未来少年コナンの続編の位置付け)
スウィフト「ガリヴァー旅行記」
「となりのトトロ」
宮崎駿のイメージ
「魔女の宅急便」
角野栄子「魔女の宅急便」
「紅の豚」
宮崎駿オリジナル原作
「もののけ姫」
宮崎駿オリジナル原作
「千と千尋の神隠し」
宮崎駿オリジナル原作
「ハウルの動く城」
ダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー小説「魔法使いハウルと火の悪魔」(原題Howl’s Moving Castle)
「崖の上のポニョ」
宮崎駿オリジナル原作
「風立ちぬ」
宮崎駿原作漫画 題名は堀辰雄
「君たちはどう生きるか」
吉野源三郎の小説「君たちはどう生きるか」
エピローグ 1989年の「時の徴(ジブリ)」
「ジブリ祭礼」と「静かで質素な小社の祭」
日本テレビ放送網の「祭礼」となった宮崎駿映画でしたが私にとっては「静かで質素な小社の祭」でした。
そのことは柳田國男の「祭から祭礼へ/日本の祭」に記されています。
初めに祭としてあったものに装飾がなされて祭礼となっていくと書かれています。
そして信仰(祭)と装飾(祭礼)の価値転倒が行われていくのです。
それが最高善信仰から黒ミサカルトとなる一連のパターンです。
聖宮崎駿信仰(祭)も装飾(祭礼)がなされていきます。
例えば装飾(祭礼)と言えるものはジブリ美術館であったりジブリパークであったりするでしょう。
しかしそれは先程指摘したように黒ミサカルトであり危険な派生物です。
オリジナルである聖宮崎駿信仰にとって危険な存在でしょう。
ただ本物の信仰は「静かで質素な小社の祭」として永遠に生き続けるのです。
それが天から降るパンです。
天から降るパン
「魔女の宅急便」が公開された1989年は私が高校3年生の時だった。
私は宮崎駿の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持っていた。
しかし宮崎駿監督映画の公開が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」というより「お祭り騒ぎ」となり出した時期であると記憶している。
日本テレビ放送網の宣伝活動に拠って「宮崎駿アニメ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から「メディアの見世物」としての「お祭り騒ぎ」へ移行していった。
しかし宮崎駿の作品自体は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から受肉する「叡智」を齎していることに変わりはないだろう。
ただその在り方が難しくなったと感じた。
その後に「ジブリ美術館」と「ジブリパーク」が建造される。
まさにダビデ王からソロモン王へ向かう過程である。
しかしソロモン王は建造の王でありバビロニアと同等であるだろう。
その意味するところは最高善の神の怒りを買って破壊された「バベルの塔」であるだろう。
信仰としてあるものが派手なイベント(知の鵜呑み)に変わっていく。
柳田国男は真の信仰とは見世物の大祭りではなく密やかな信仰(知の廃棄)であると書いている。
北島三郎の「唄」にある「祭り」は密かな信仰(知の廃棄)ではなく派手なイベント(知の鵜呑み)でしか無いだろう。
紅白歌合戦は派手なイベント(知の鵜呑み)であって決して柳田国男の言う密やかな信仰の在り方(知の廃棄)ではないのだ。
ただ宮崎駿監督の作品は「派手なイベント(知の鵜呑み)」の中に「密やかな信仰(知の廃棄)」が息づいていると感じる。
それは「バプテスマ(知の廃棄)」であり「イクトゥス」であるだろう。
最近オープンしたジブリパークは私が幼少の頃過ごした名古屋市守山区小幡の近辺である。
そこは青少年公園の跡地であり名古屋市立小幡小学校の遠足や父とのプール練習、友達みんなとお弁当を持参しサイクリングで行った馴染みの場所でありました。
そこが愛知万博の会場を経て「ジブリパーク」となるのは何か「縁」を感じる。
実際は「鈴木敏夫プロデューサー」の地元ということらしい。
今、私は千葉県鎌ケ谷市初富808-XXXに住んでいるがいつか懐かしい「ジブリパーク(青少年公園)」に行ってみたいな!