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【聖イマヌエル・カント信仰】イエス・キリストの手法(知の廃棄〈doxaをバプテスマする〉〈イノセント〉)とサタンの手法(知の鵜呑み〈doxaによるレイシズム〉〈ギルティ〉)

特集「イエス・キリストの手法とそれを弾圧するサタン(詐欺カルト商法)の手法」

イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(詐欺カルト商法)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。

山上の垂訓

「知識の鵜呑み」から「知識の廃棄」への導き-「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」

心の貧しい人々は「知識の廃棄」が容易である。
それをイエス・キリストは「幸い」と言った。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

「山上の垂訓」より

「知識の廃棄」についてイマヌエル・カント「純粋理性批判 第二版序文」より

「だから私は、信に場をえさせるために知を廃棄しなければならなかった。」

「したがってわたくしは、信仰に余地を与えるために、知識を排除しなければならなかった。」

「それゆえ、私は信仰に場所を獲得するために、知識を放棄しなければならなかった。」

知識を廃棄し信仰の入れる場所を確保する。

それが信仰の前提であり至上命令である。
カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)と知識(doxa)は絶対的に違うのだ。

それは新約聖書ルカによる福音書「時の徴(しるし)」の譬えを示している。

「時の徴(しるし)」

「情勢論でデマゴーグ」

それは「情勢論」による「デマゴーグ」を示している。
その意味するところは「知識の廃棄」は弾圧され「知識の鵜呑み」を扇動することを示している。
ストレイシープが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」により救済される導きを妨害することを意味する。
聖水の音楽の歌詞はその「知識の廃棄」を前提にすることで其の場所に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる。
それによって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が「叡智」を受肉し「最高善の神の奇跡」を可能にする。
しかし実際に「商業音楽の歌詞」は廃棄を前提とされていない。
何故ならヨーゼフ・ゲッベルスの政治的宣伝コンテンツと同じく繰り返しその音楽の歌詞が流されることで「知識の廃棄」は弾圧され「知識の鵜呑み」が扇動され賛美されるからです。
「聖水の音楽信仰」はその「知識の廃棄」への導きがあって高尚とされるが「知識の鵜呑み」へ扇動するものは「商業音楽崇拝の詐術」を成立させる信仰弾圧手法となる。

「知識の鵜呑み」の扇動は「信用の言葉の詐術」としてある。

それは先ず「知識の廃棄」を弾圧し「知識の鵜呑み」の扇動と賛美を行う。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所の確保を妨害し完全弾圧することで「知識の鵜呑み」を全肯定させる。
そして「知識の鵜呑み」とは盲目的な信用の言葉というものを成立させる。
それは疑うことを禁忌とした詐欺カルト商法(サタン)の言い回しをカリスマと称するデマゴーグとして保存肯定しそれにより知(doxa)の完全支配を可能とする。
詐欺カルト商法(サタン)のデマゴーグのパラダイスである。
「詐欺カルト商法(サタン)」であるのだ。

しかし「真にある絶対の信用の言葉」とは「神のことば」である。

はじめに、ことばがいた。
ことばは、神のもとにいた。
ことばは、神であった。

黒ミサカルトは「知識の廃棄」により「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保することで嫌悪される存在となる。
それは黒ミサカルトが「知識の廃棄」による「信仰の入れる場所の確保」を貶め弾圧するからです。
それを黒ミサカルトの『バベルの塔』と呼ぶ。
『傲慢の大罪』の存在である。
「傲慢」な「知識(doxa)」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は対立する。
それは「時の徴(しるし)」の譬えにもあるように「傲慢」な「知識(doxa)」を廃棄しなければこの時を吟味する術(信仰)を知ることは出来ないからです。
それが「傲慢」な「知識(doxa)」を廃棄する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り方である。
ここで指摘されるのは「傲慢」な「知識(doxa)」という指摘である。
「時の徴(しるし)」の譬えによると「天候予想」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは相容れない。
何故なら確かに偽善者は地と空との模様を吟味する術を知っている。
ただ彼らはこの時を吟味する術(信仰)を知らない。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を完全弾圧しているからだ。
では何故「天候予想」はできるのか?

「天気予報」の「傲慢」な「知識(doxa)」とは何なのか?

今この時を吟味する術(信仰)を知らないものでも天気予報はできる。
何故なら「傲慢」な「知識(doxa)」の「鵜呑み」によって可能となる術だからだ。
最高善の神への「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」がなくてどうして天気予報はあり得るのか?

「天気」とは一体何なのだろうか?

それは「時の徴(しるし)」の譬えとなる。
「天気」とは一般にいう「天候」である。
「天候」も「天気」と言われる。
しかしそれは「知の鵜呑み」においては「天子(傲慢)」の「ご機嫌伺い」であるか「顔色伺い」でしかない。
「知の鵜呑み」において「天子(傲慢)」の「情勢伺い」に「最高善の神の真理」は存在していない。
それは「知の鵜呑み」において「天子(傲慢)」の「情勢伺い」でしかなく「知の廃棄」からあり得る「天から降るパン(叡智)」の受肉ではないからである。

しかし「最高善の神の真理」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある故に「最高善の神の真理」を得るために「知識の廃棄」を行う。
「知の鵜呑み」において「傲慢」な「知識(doxa)」の「鵜呑み」に於ける「傲慢」な「知識(doxa)」とはそのような幾らでも変更される『傲慢な何か』への「情勢伺い」に過ぎない。
そのような「傲慢」な「知識(doxa)」は「最高善の神の真理」ではない。
「人の浅ましい知恵(あざとさ)」でしかないのだ。
それは「善に見せる技術」としての偽善者の在り方あり「善」ではない。
そのような「人の浅ましい知恵(あざとさ)」と「最高善の神の真理」は絶対的に異なっている故に「最高善の神の真理」を得るために「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保することは人類の至上命令となる。
そのために「人の浅ましい知恵(あざとさ)」を廃棄して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保することが人の倫理性の根本となる。
それが「善」である。

てん‐き【天気】
①任意の場所の任意の時刻の気象状態。そらもよう。「—が悪い」
②気象状態のよいこと。晴天。「お—で何よりです」
③天子の気色(きしょく)。天皇の機嫌。天機。平家物語(6)「—ことに御心よげにうちゑませ給ひて」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

てんき【天気】
weather
ある地点のある時刻における⇨大気の総合的状態。⇨気温,⇨降水,⇨雲量,⇨風向,⇨気圧などの⇨気象要素からなる。しかし日常用語としては,社会生活に密接な関係をもつ概念で晴,曇,雨などで示される。そして,天気がよい悪いなど,それを認識する人の評価も含まれる。時間的にはそう長くはなく,せいぜい1日か半日の概念である。科学としてこのことばを用いる場合は,⇨天気図,⇨天気予報として使われるのが普通である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

天気(氣)
(テンキ)
①天空の気。
②空模様。天候。気象状態。「天気晴朗」
③〓(テンキ)・(テンケ)・(テイケ)㋐天子のごきげん。天皇のおぼしめし。天機。㋑よいひより。晴天。

『新漢語林』 大修館書店

十人の乙女の譬

賢い乙女と愚かな乙女の寓意
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

「デマゴーグの信用」と「メシア信仰」-ディストピア(暗黒卿)と神の王国の到来

「天子(傲慢)」への「情勢伺い」はデマゴーグとなり、カリスマ個人崇拝として「世」の人を扇動する。
それによって〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉は「原始的段階に近い」と評される状態へ人を落とし込む。
それは最高善の神による「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への救済を完全弾圧し「世」はディストピアとなる。
そのような暗黒卿では無辜の民によってメシアの再来が待望される。
それがイエス・キリストの登場となるのである。

なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの[現実の]只中にあるのだ。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

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