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夢のない大学生がハライチに憧れてテレビ業界に飛び込む話

大学2年生の春、広島に住んでいた僕は、友人と一緒に東京へ旅行することにした。

少しでも節約をしたい大学生の僕らは、夜行バスに揺られる10時間の長旅を選んだ。

硬くて狭い座席、慣れない夜行バスでは深く眠ることができなかった。
一緒に乗っていた友人も寝付けなかったのだろう。深夜に突然、動画のURLを送ってきた。

「ハライチのターン フリートーク 神回まとめ」

TBSラジオで放送されている『ハライチのターン』のフリートークがまとめられている動画。もちろん違法アップロードである。
友人のLINEには「最初の10分がおもしろすぎる」と添えられていた。

ハライチのことはもちろん知っていたが、ラジオは聴いたことがなかった。
ラジオのトークをまとめ、「神回」とタイトルをつける投稿者には嫌悪感を持ったが、これから何時間も続く退屈に耐えかねていた僕は、罪悪感を抱きながらも再生ボタンを押した。

それは岩井さんのフリートークだった。
ある日、愛車で家に帰ろうとしたところを警察に止められ、車のチェックをされてしまう岩井さん。車のダッシュボードにチョコボールの「銀のエンゼル 2枚」を隠しているという、「チョコボール中毒者」の目線からエピソードが話される。

「チョコボールさえやってなければ」というフレーズから始まり、
「ドンキの売人から買っている」「末端価格で78円」「キョロっちゃう」という次々と飛び出すワードに、澤部さんが心地よくツッコんでいく。
漫才のようにどんどん熱量が増していき、そのままオチまで「チョコボール中毒者」として駆け抜けていった。

衝撃を受けた10分だった。
それまで深夜ラジオは聞いたことがなかった。
ゆったりとトークをするものというラジオに対するイメージがひっくり返った。こんなおもしろいものが、僕の知らないところに存在していたなんて。
もう一度、冒頭から聴き直した。深夜バスの暗闇で、笑いを堪え続けた。

その日のうちにradikoというアプリを入れた。
それから、毎週木曜日のラジオが楽しみになった。
そのうち、1週間に60分のトークでは物足りなくなり、ラジオクラウドというアプリでアフタートークも聴くようになった。
ついには、競艇のことなどなにも知らないのに、岩井さんがボートレースの魅力を伝える番組まで聴きはじめた。
ラジオだけでなく、テレビ番組やライブ、ハライチの届ける笑いが生活の一部になっていた。

大学生活が終わりに近づくにつれ、就職という人生の転機が迫っていた。
昔からどんな仕事をしたいか、深く考えたことがなかった。
教師を目指して教育学部に進んだり、医者を目指して医学部に進んだ同級生たちとは違い、高校生の僕は、自分の合格しそうな学部を選び、何を目指しているわけでもない大学生活を送っていた。

そろそろ就職活動もはじめなければな、とぼんやりと考えていた。
そんなとき、2020年の日本はコロナ禍に突入した。
大学の授業やアルバイト、ライブやイベントなど、自分の生活の一部だったものが「不要不急」という言葉で片づけられた。

そんな中でも、僕の生活で変わらないものがあった。
テレビは、ラジオは、止まることなく人々に笑いを届けていた。
テレビやラジオは生活必需品でもないし、ただの娯楽だと思っていた。
だが「不要不急」が叫ばれる希望のない時代で、存在感を増していった。
笑いは生活に必要なものだった。

ハライチの2人は僕にとって憧れだった。
その憧れはコロナ禍という「何が必要か」を考える時代に、より強いものになった。

この人たちのように笑いを届ける仕事がしたい。
やりたいことがずっと見つからなかった僕は、突然、テレビ業界を志すことにした。

テレビ業界といっても、テレビ局から制作会社、編集や音響効果を担当する会社まで多種多様である。でも、どうせならきっかけをくれた人と仕事がしたい。自分がやりたいと思える仕事をしたい。

澤部さんが出ている中でも、一番好きな番組があった。
というか、一番好きな番組に澤部さんが出ていた。
もしテレビ業界を目指すなら、あの番組を担当したい。
それまでやりたいことの見つからなかった僕は、思いついたように突然、あの番組のADになろう!と決めた。

テレビの制作会社は第一志望のところだけを受けるようにして、
他は全く違う業種を受けた。テレビ業界は多忙で厳しいと聞く。
やりたいという強い気持ちがないと続かないと思った。
中途半端に別のところに行くくらいなら、テレビ業界ごと諦めようと思っていた。

そんな思いが通じたのか、希望していた制作会社に入社することになった。
そして一年目の僕は、澤部さんも出ている憧れの番組のADになった。

入社してわずか1週間、澤部さんのロケに同行することになった。

朝の6時に駅で待ち合わせだった。
集合時間の少し前に到着した澤部さん。憧れ続けていた人が目の前にいる。
「今日からADとして、よろしくお願いします」と挨拶をした。
出発時間まではまだ時間があるので、澤部さんと2人でコンビニに行くことになった。

これが澤部さんとの初仕事か。緊張と喜びでいっぱいになりながら、2人で駅の中を歩いていると、「なんでこの会社選んだの?」と声をかけられた。

緊張で頭が真っ白になった僕はうまく答えられず、
「澤部さんと仕事がしたくて…」と言ってしまった。
澤部さんは、そうなんだ、と笑って答えた。
そのまま会話は広がらずに終わった。
お世辞として受け取られてしまったのだろうか。いや、お世辞じゃなかったとしても、芸能人に会いたいだけのミーハーに思われたかもしれない。
憧れの人との、初めての会話に失敗したというショックが、会話できた喜びを上回っていた。

ロケは夢のような時間だった。
毎週待ち焦がれていた声を、電波を介さずに自分の耳で聞いている。
僕の目の前で話している姿は、想像していた姿と何も変わらなかった。

撮影が終わったあと、タクシーに乗る澤部さんを見送った。
「おつかれっした〜」と一言だけ告げて乗り込んでいった。
僕にかけられた「おつかれっした〜」が、ラジオのアフタートークで何度も聞いてきた声色と全く同じだった。
憧れていたラジオのスターと自分が少し繋がった気がした。この人のVTRを撮りたいと強く思った。憧れの人に出会えたその日はゴールではなく、大きなスタートになった。

社会人1年目が終わりに近づいたころ、
澤部さんが番組から卒業することが決まった。僕はショックだった。
番組からいなくなることよりも、「ディレクターとして澤部さんとロケをする」という夢が大きく遠ざかった気がしたことに落ち込んだ。
そのためだけにテレビ業界を志したわけではないが、その存在は人生を変えた大きなきっかけだった。心の準備ができていないうちに、澤部さんの最後のロケの日を迎えた。

僕は寂しかった。
澤部さんは誰の目にも明らかなぐらいに、もっと寂しそうだった。
その場にいた全員が寂しさを感じていた。
撮影が始まると、おもいっきり笑えた。そして泣けた。
一生忘れることのできないロケが終わった。

少しだけ澤部さんと話す時間があった。
「ずっとファンでした」とか「あなたに憧れてました」とか改めて伝えるのは違うと思った。最後のロケに携われて嬉しかったこと、あとは感謝の気持ちを短めに伝えた。少しだけワガママを聞いてもらい、単独ライブのチケットの半券にサインをしてもらった。
ホテルまで送り届けると、何度も聞いた声で「おつかれっした〜」といってロケバスを降りていった。

今の僕は、少しずつではあるが、ディレクターを任せてもらうようにもなった。先日、会社の人事担当から「テレビ業界を目指す人に向けてメッセージを」と求められた。自分の就職活動、人生を振り返ってみた。

テレビやラジオは、人々に笑顔を届ける仕事だ。
でもそれだけではない。他人の人生の方向性を、大きく変えることもある。やりたいことが見つからなかった僕の未来を変えたのは、2人の漫才師のラジオだった。

心が折れそうになったときは、職場のデスクに飾ってある、単独ライブのチケットの半券をみて、初心に帰るようにしている。
辛いときも、思うようにいかないときも、自分の人生を変えた「憧れ」に届くように踏ん張ってきた。

働くなかで、新しい夢が一つ見つかった。
いつか自分の作り出したものが、だれかの未来を変えるきっかけになることだ。



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